『新版障害者の経済学』は新版になって変わった(か?)(2)(ほんの紹介26回目)

たこの木通信2020年4月に掲載した原稿(少しだけ訂正)
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『新版障害者の経済学』は新版になって変わった(か?)(2)

(ほんの紹介26回目)


 前号の感想を岩橋さんからもらいました。

「私たちの社会に”社会的弱者”と共生できるだけの経済的そして精神的な余裕があれば、魔物を封じ込めておくことが出来る」とありますが、本当にそうでしょうかね?私はどれほど経済的な余裕があっても、必ずしも精神的な余裕につながらないと思います。逆に貧乏でも精神的な余裕はある人にはあると思います。

「金持ちほどケチ」(お金を失うことを心配する)だし、「貧乏」という収入は少なくても「貧困」ではない私。


「貧困」という言葉に象徴されるように、

「貧乏は大変」とか「収入が多い人ほど評価が高い」みたいなことがまことしやかに流布されている昨今。

持てる者はますます持つことを欲するのが人間の性で、経済的な余裕は、社会的弱者に使うよりも、さらなる自身のために使い、さらなる収入を得るという展開になると思います。

確かに精神的な余裕さえあれば、経済的な余裕はあまりなくても、「魔物を封じ込める」ことはできそうです。しかし多くの人に(ぼくを含む)経済的な余裕がないのに精神的な余裕を持つのはけっこう難しいとも思うのです。

さて、この本では「障害者差別解消法」と「社会モデル」は論理矛盾を起こしていると以下のように書かれています。

「社会モデル」のの考え方によれば、社会による障壁が除去されれば「障害」もなくなるはずだが、「解消法」では「障害」を理由とする差別を解消し、「障害」の有無による分け隔ては止めるように書かれている。つまり、基本理念として「配慮」によって「障害」を消し去ることを目指すはずの法律が、「障害」の存在を前提とした条文になっているのである。

  このような論理矛盾が生じる理由は、「障害」のとらえ方に「医学モデル」と「社会モデル」の考え方が混在しているためである。(以下略)

果たして、本当にそうでしょうか。この「社会のバリアをなくせば、障害はなくなるはず」という社会モデルの理解はあまりにも表面的だと感じました。障害者の障害の多くは社会の側が作り出しているという話はその通りですが、すべての障害を社会が作り出しているわけではないと思うわけです。

話は変わりますが、医学モデルに基づく障害分類によって障害福祉サービスが支給されていることの問題が指摘され、以下のように書かれています。

・・使いやすい福祉サービスは、あらかじめカテゴライズされた機能不全に基づいて画一的に提供されるものではなく生きていく上で”何に困っているか”を素早く察知し、困難をもたらしている障害を取り除いてくれるものでなければならない。(略)

  私たちの社会には、はじめから障害者という特別な存在がいたわけではない。障害者を生みだしているのは私たち自身であるという気づきが、障害者問題を取り組む上での第一歩なのである。

基本的にはその通りだと思うのです。しかし、ここでも単純化しすぎている面があるようにも感じます。多くの障害は社会が取り除くことができるし、そのことが求められ、そこを強調すべきだとは思うのですが、取り除けない障害もあり、その問題をあたかもないように扱うことの指摘は90年代から障害学の中でなされ、論争となっていました。

また、社会がもたらす困難を福祉の側が素早く察知し、取り除くことも大切ですが、同時に、時間がかかってもなるべく本人自身が気づくことや、支援側はその気付きを支え、社会の側が取り除くために共に努力をすることという面もあるかも?(続けるくかなぁ?)

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