『仮面の家』メモ 追記あり

タカハシクリニックのPSWで公認心理士の上原さんの連続講座の課題として、読むことになった本。
図書館で借りた。

次の人のリクエストが入っているので少しだけ早めに返します。

この本のメインの事件の概要は
浦和・高校教師夫妻による息子刺殺事件
http://yabusaka.moo.jp/urawamusuko.htm

紀伊国屋のサイトでの本の紹介

内容説明

模範となるような家庭で両親が就寝中の長男を刺殺するという凄惨な事件が発生した。見えてきたのは、ごく普通の家族に潜んでいた夫婦と親子の「異常性」だった。理想的に見えた家庭に巣食っていた「偽り」という病。1993年度「日本新聞協会賞」受賞。

目次

第1章 自立できない長男(夫婦円満な家庭の裏で;進学校入学で挫折体験 ほか)
第2章 貧しさのなかで(米屋統廃合で失業した父;野菜行商の母の手伝いを ほか)
第3章 自立への途上で(法廷とは別人のような長男像;抜群だった音楽センス ほか)
第4章 家族病理という視点から(「役割ロボット」の悲劇;健全な家族に潜む異常性 ほか)
第5章 ある夫婦の軌跡(中三の夏に突然の変化;金づちで弁当箱に穴 ほか)

著者等紹介

横川和夫[ヨコカワカズオ]

この横川さん『降りていく生き方―「べてるの家」が歩む、もうひとつの道』の著者。

この本の超詳しい書評は

「仮面の家」を、あなたは裁けますか?

http://nakaosodansitu.blog21.fc2.com/blog-entry-1441.html

一見、短い書評だが、この目次をクリックすると、それぞれの項目に文章が入っているようだ。(まだほとんど読んでないけど)


以下、ぼくのメモ

~~
問題は引きこもって暴力をふるう本人だけではなく家族にも、同じようにあるというのはわかる。しかし、それを「家族病理」と言ってしまうことに違和感が残る。どんな家族にも起こりうる話では? 問題は困っている家族と本人にどう支援すればいいのかという話。こじれた関係は当事者だけではなんともならない。そこに支援なり、介入なりが必要だと思うのだが、そこで多くの人たちが、どうしていいのかわからず立ち止まってしまっている現状なのではないか。最初の殺してしまった事例の後に、殺されそうになっていたが回復した事例も。

大きく暴れる息子という二つの事例。前者は夫婦で相談して、本人の殺害に至り、後者は夫婦でカウンセリングを受けることで乗り切っていく。後者の例を読むと、あれだけの暴力に両親は耐えることができたことに驚く。殺されてもおかしくないくらいの暴力。それを耐えさせるカウンセリングは、もう名人芸としか言いようがないのかもしれない。ただ、疑問なのは家族とカウンセラーしか問題の解決にあたらないというありかた。もっとまわりの人を巻き込んで対話の関係をつくることができないだろうか? オープンダイアローグ(OD)的な手法が使えなかったのか。(とはいうものの、ODはまだない時代の話だ)

斎藤学
「りょう先生のことを私は役割ロボットと言ったのですが、それは“偽りの自己”のこと…。これにたいし“真の自己”というのは、生き生きとした現実感、人間らしい行動や生活、つまり自分の感情とか欲求に忠実であることなんです。また自分のすること、考えることに対する自信、自己肯定感でもあるんです。…“健康な自己愛”…。生まれてからこのかた親や教師たちから“意志を強く持ちなさい”とか、“欲求に流されないで”などと言われつづけて育ってきた。それが内面化され…」 「偽りの自己」…ウィニコット (152-153p)
ただ、人は誰でも、さまざまな自己を生きているのではないか、偽りの自己と真の自己はグラデーションでつながっていて、そのあらわれ方は時とともに変化していると思う。この先でウィニコットのビーイングマザーとドゥーイングマザーという説明がでてくるのだが、これも単純に二分化できる話ではなく一人の中に両者はいるのでは? 説明としてはわかりやすく、理解しやすい話になっているが、ドゥーイングに陥りがちなことを意識しながら、その濃淡の中で生きるしかないと思う。また、マザーだけが問題にされるありかた事態も問われる必要があるのではないか。

2008年に亡くなった遠藤嗜癖研究所のカウンセラー遠藤優子さんの実践の話が興味深い。
「…精神医学は個人の内面に焦点を当てて、事を解決するという発想です、だから精神科医は…家族の関係性にまで目を向けないのが実情…しかも、現実は薬を処方しないと利益をあげることはできません。『三分診療』といわれるように、短い問診で、いかに症状にあった薬を出すかが精神科医の役割に…」244p
遠藤さんのカウンセリングは、少年少女たちが引き起こすさまざまな問題を、家族の関係性のなかでとらえ、硬直化し、弾力性を失った家族関係にゆとりと柔軟性を取り戻すことで、ゆがみを回復させるという手法である。246p

しかし、事例を読んでいて、カウンセリングであの暴力に耐えさせる手法はほんとうにすごいと思う。

愛着とは何か、遠藤さんの説明。
「愛着というのは、子どもが親に対して抱いている支配と愛着とを一体化して受け止める感覚のことなんです。十歳のころまでは子どもは自分ひとりでは生きていけませんから、どんなに問題がある親でも、ぴったりくっついていなければなりません…
 ところが十歳を過ぎるころから…
自分はどんな人間であり、どういう人格の持ち主であるかを自分自身でつかみ、そのつかんだ人格に合わせて、世のなかのさまざまな情報の中から自分にぴったりあった生き方や役割を選択…、そしてそれに合うように自分自身に磨きをかけ、生きる場所を見つけていくのが思春期のの課題…そのためには、親からこうしなさいと言われ、与えられてきた枠組みを小学校5、6年頃から壊し始め、中学三年ぐらいで徹底的に破棄してしまいまう。そして高校生になったころから、その破壊したものに代わるものとして、自分らしさを見つけていく。…」
とか書いてあるんだが、そんな記憶は一切ないなぁ。ほんとに多くの人はこんなプロセスをたどっているのだろうか?

ともあれ、そのうえで【遠藤さんは不登校、閉じこもり、家庭内暴力といった問題は、この脱愛着をめぐっての思春期の問題行動だと受け止めている。】という(247p)。
『仮面の家』で取り上げた事例はその典型例だが、この脱愛着では説明しきれない事例がある。つまり愛着そのものが形成されていないために起こる問題行動がある、と説明する。親が子どもの欲求に関心を示さず、子が親自身の欲求を常に優先させていると、自分の欲求を親の欲求にすり替えることで欲求の充足をはかる。しかし、それでは本当の自分は満たされない。心のなかはスカスカした状態で、自分が悪いんだと自己イメージが低下する。思春期以降になり、自分自身の主体性が問われ、自分がどうしたいかを中心に物事を考えなければならないとき、ハタと困る。怒りやムカつく気持ちだけはあるが、対象がはっきりしない。怒りは単なるエネルギーの放出になる。何にムカついているのか自分でも説明できない。それがキレる行動。脱愛着は、愛着の対象から離れることだが、キレたりメッタ刺しにする少年たちは、その愛着さえできていない。ここから著者はウィニコットの「偽りの自己」を思い出す249p

ありのままの子どもを受け入れるビーイングマザーではなく、子どもを評価し、他と比較し、自分の価値観をおしつけ、いろいろなことをさせようとするドゥーイングマザーのために、子どもはありのままに生きられない。あたかも自分がするかのように相手の欲求を自分の欲求に変えていく。これが『偽りの自己』の基本になる。秋葉原無差別殺傷事件の犯人の母親もドゥーイングマザーであり、彼の心のなかはスカスカだったのではないか、と著者は書く。250p

~~ここからぼくの感想~~
ここまで要約して、気が付くのだが、こんな風に親、とりわけ母親との関係の問題に収斂させてしまうことに強い違和感を抱く。親、とりわけ母親との関係の問題がなかったとは言わないが、例えば秋葉原無差別殺傷事件の犯人の25歳の派遣社員の青年を追い込んだのは母親だけではない。母親との関係に焦点を置くことで、説明はつくかもしれないが、本当にそれでいいのだろうか。家族に恵まれなくても、サバイブしている事例は少なくないはずだ。家族に恵まれない子どもがサバイブしていくために何が必要かということに焦点をあてるべきではないか?

ただ、問題が起きた後の修正についてはそこに注目する必要があるのかもしれない。
「思春期の問題行動などは家族の関係性のなかから生じてくるものなので、生まれ持った性格とかパーソナリティではなく、環境に適応しながら善く生きようとするときに学習して身に付いたものなんです。だから問題が生じたら再学習して修正することが可能なのです。・・・」そして、人間はよくなろうとする存在で、その力を持っていることに信頼できれば、再学習も力を入れずにやれるのではないか
と遠藤さん。251p
 しかし、暴力の被害の中にある時、そんな風に信頼するのはとても難しいのではないだろうか。そこをそう思わせるカウンセラーの力量が必要なはずで、遠藤さんはカウンセラーができるのは仮説をひとつの真実として打ち出し、その仮説がクライアントに真実として受け入れられないと、いくら話をしてもムダだ、とも言っていたとのこと。251p 

そして、この本の最後で著者は以下のように書く。
【概要】この本は斎藤学の「健全と見える家族の中に潜む異常性」という仮説に立って物語が構成されていて、この仮説が子育てに悩み苦しむ人たちに受け入れられるかどうか。著者のジャーナリストとしての力量が問われている。
この話でこの本の「あとがき」は閉じている。ジャーナリストとしての力量はぼくにはわからないが、構成された物語として完結しているとは思う。

それでも、「しかし」と思わないわけにはいかない。

殺してしまった「両親」の歪み、それはどのように回避が可能だったのか。息子の暴力という形で矛盾が露呈した時に、彼や彼女はSOSをいくつかの場所に発信していた。それを受信できなかった社会がある。この悲劇を繰り返さないために、何が可能だったのかという観点で考えたい。「理想的に見える家族にある異常性」。確かにそれはあると思うが、逆に言えば、どんな家族にも異常な部分はあり、正常と異常はグラデーションでつながっているのではないか。特異性が強調されているようにも読める。確かに、殺しにまで行ってしまったのは特異だが、起こり得る話でもあるのではないか、そんな気がした。

追記

『ほんとうの自分』という問題の立て方について
小沢牧子さんはこんなことを書いていました。
==
 ■自助努力への圧力
 カウンセリング願望の背景には、極限化する情報・消費社会を浮遊する個人の、よるべない心情が存在している。この心情は・・・宗教とも独裁性とも結びつくものであろう。透明なカプセルに一人ずつ閉じ込められ外から値踏みされているような気分が、世の中を支配している。自助努力、自己責任、個性の育成、規制緩和、自由競争、グローバリゼーション、まして負け組勝ち組などの言葉は、むきだしの能力主義の進行を意味している。
 このような社会背景と関連しているのであろうが、学生たちの・・・「自分らしさの発見」
 (長い省略)
 ・・・わたしからみれば、「言いたいことが言えない自分」も「他人の影響を受けやすい自分」もまぎれもない自分、いろいろあってこその自分、みんな似たりよったりではないか、そんなものだよ、と思うのだが。
「ほんとうの自分さがし」の流行には、人間が相互の関係の中で生きているという観点が欠落している。カウンセリングが「ほんとうの自分」を発見させてくれるという幻想的な自分観は根強い。・・・。
「ほんとうの自分」という幻想を追いかけるのは浅はかだ、ともし「心の専門家」たちが彼らに悪口を言うとしたら、それは自分勝手に過ぎる。なぜなら「心の専門家」自身が、この種の人間観を広めてきたからだ。たとえば大学生向けのテキスト・・・「カウンセリングはどのようにして現代の人間疎外に対処していけるのでしょうか」と問いかけ、「抑圧されている真の自己の再発見」や「・・・」と「ほんとうの自分」概念を強調・・・。 39-41P
==
『「心の専門家」はいらない』メモ
https://tu-ta.at.webry.info/200805/article_11.html から

~~~~
2度目の追記(9月6日未明)

そう、いま思いついたのだけど、この「仮面の家」には「社会モデル」の視点が決定的に欠落しているのではないか。犯罪や暴力の社会モデル。社会がその暴力の当事者の価値観を助長し、暴力に向かわせたこと。そして、彼を取り巻く社会が彼が暴力を行使し始めたときに、家族に責を負わせ、ネグレクトしたこと。

社会(あるいは社会福祉)が暴力のエスカレートに介入する仕組み、という風に言ってしまうと、危険な面もある。現状の社会で行われているような、医療の名のもとの拘禁に結び付く危険がある。そのような拘禁とは逆の福祉的介入の方法が模索される必要がある。両親が仮面をかぶったロボットであろうとなかろうと、その子が両親との関係の不全を乗り越えて、家庭内暴力や「引きこもり」になるのではなく、たくさんの近所のおせっかいな人たちに囲まれて、否応なく自分を取り戻すというような道筋が考えられないだろうか。

地域の中で、核家族ごとの敷居を頑丈にすることで自由を謳歌してきたのが近代の都市生活、ということができるかもしれない。その近代の都市生活が「ひきこもり」の発生と関係していないだろうか。生産力至上主義というようよりも、いまは金融至上主義と呼んだほうがいいかもしれない、お金を生み出すものの価値だけが力を持つような社会の価値観が、自らの存在を否定的にしか捉えることができない人を生んでいる面が強いのではないか。

わからないのだけれども、近代以前の農村社会に「ひきこもり」はいないか、いてもとても少数だったのではないか。自らの自由を謳歌するために形成した核家族ごとの壁が「ひきこもり」を生んでいるという側面があるのではないか。

近代以前の農村型のコミュニティを形成することはもう無理だろうし、ぼくもそんなものは欲しくない。しかし、核家族ごとの壁や敷居を低くする可能性は現に存在している。もちろんそれは肯定的なものばかりではないが。人が人として、つながり関係を豊かにする方向での、新しいコミュニティの形成が求められているといえるかもしれない。それは地縁や血縁や社縁だけでない、上野千鶴子が「選択縁」と呼んだような形での「縁」の形成。そんな方向への社会の転換が求められているのではないか。

参照 こうち男女共同参画センター「ソーレ」/講演会記録集
平成23年度 男女共同参画推進月間講演会
女と男のおひとりさま道 「金持ち・家族持ち」から「人持ち」へ 
http://www2.sole-kochi.or.jp/jyoho/publication/document/PDF/h23-uenochizuko.pdf

地縁、血縁、社縁以外の人間関係を
https://org.ja-group.jp/about/opinion/1610_2



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