『新版障害者の経済学』は新版になって変わった(か?)(4)(ほんの紹介28回目)追記あり

たこの木通信2020年6月に掲載した原稿。どうして、そんなに好きでもないこの本で4回も引っ張ってしまったのか不明。ただ、言いたいテーマがいっぱい入っていたいうことはできそう。考え方は違っても。
 以下、わかりにくかった部分を少し訂正して、転載。 

『新版障害者の経済学』は新版になって変わった(か?)(4)

(ほんの紹介28回目)

なぜか4回もひっぱってしまった。さすがに今回が最後。

就労継続B型のミッションについて

若干の加算を除けば、ほぼ工賃だけが訓練等給付の多寡を決める現状で、「工賃向上問題は大きいが、そこだけでB型を評価してはいけない、利用者の満足はそれだけでは計られない」と著者は書く。そこだけをクローズアップさせれば、働きにくい人がB型に行きにくくなり、就労させるインセンシブも低下すると書かれていて、その通りだと思う。

 ここで、著者があるべきB型のミッションとして掲げるのが「多様な障害ニーズの充足による利用者満足の向上」。ぼくとしては、「当事者が自らの存在の価値に気づくという意味でのエンパワメントと、就労を通してのインクルーシブな社会の形成」というのをミッションにしたい思う。

『特例子会社の問題点』という節。

「障害者が働く姿を見て元気がもらえる』とか『笑顔に癒される』という言説が批判される。しかし、それで職場の雰囲気がよくなることがあるとすれば、それは悪いことではないのではないか。そして、生産性に寄与することが難しい障害者が存在するのは間違いない話だ。生産性以外の物差しで、彼や彼女が雇用される方法がないのかと思う。簡単に答えが出ない話だが、インクルーシブな社会を求めるときに、営利企業もインクルーシブにしていくことが問われているだろうし、どのような形が望ましいか、走りながら議論していくしかないのではないかと思われる。以下、ブログに掲載するにあたっての追記また、直接生産に寄与していなくても、職場の雰囲気がよくなることのプラスは計り知れないのではないか。仕事はできないがムードメーカーにはなりえる人を使いこなせるかどうかは職場の責任者の腕次第なのでは?この追記ココまで

また【「同一労働同一賃金」との関係】という節では、同じ封入作業でも特例子会社とB型で、なぜ、こんなに賃金が違うのか、という話がある。それを言えば、同じ金属加工で本社の社員と下請けの非常勤でまったく違うという日本社会の現状はあるのだが、確かに、似たような障害を持っていて、運よく大企業の特例子会社に入った人と、ろくな仕事がないB型に入った人の差は大きい。そこをどう考えるのかというのが課題だということは理解できる。この節の最後に、著者は「同一賃金同一労働というのであれば、この理不尽さを解決するのが先決」というのだが、著者自身もここで解決策を持っているとは思えない。再び追記B型の工賃に生活・所得補償という側面を持たせるというのは一つの考え方かも。(2度目の追記ココまで)

終章 障害者は社会を写す鏡

この章では、津久井やまゆり園の事件について書かれている。障害者に限らず、『社会的弱者』との共生はきれいごとでは済まされない、とる。そして、1回目に引用した

「優性思想はあえて持つものでもないし、克服するものでもない。人間の置かれた状況によって知らないうちに自然と出てくるものである。犯行動機がどうあれ、それに共感する意見があったとしても、私たちの社会に”社会的弱者”と共生できるだけの経済的そして精神的な余裕があれば、魔物を封じ込めておくことが出来る」

という文章はここに出てくる。

最後には以下のように書かれている。

 私たちに必要なのは、障害者に映し出されている社会の姿に気づくことである。これは障害者から学ぶといってもいいだろう。身体障害者の活動ぶりを見れば社会のバリアフリーの程度がわかる。…。そして精神障害者から、ワークライフバランスすなわち適度に休むことの大切さを学ぶことができる。こうした学びが私たちの社会を変えていく原動力になるのである。

最後まで読んで、気がついたのは、雇用・「働くこと」について、いろいろ書かれているにもかかわらず、「社会的事業所」とか「ソーシャルファーム」について、ほとんど(あるいは、まったく)言及がなかった点だ。その視点があれば、別のものが見えてくる可能性があったのではないか。

~~この月の原稿ココまで~~
経済的そして精神的な余裕があれば、魔物を封じ込めておくことが出来る】という話に反論をもらったことは、この本についての2回目に書いた。https://tu-ta.at.webry.info/202004/article_5.html

そう、問題は植松死刑囚に経済的な余裕がまったくなかったわけではないと思う。そんなに豊かだったとは言えないかもしれないが。しかし彼の魔物を封じ込めることはできなかった。彼個人の問題がないとは言えないが、そこに注目するのではなく、彼が津久井やまゆり園で何をどのように見たのか、ということに注目したい。そこで彼は一人ひとりの生の尊厳を見出すことができなかったわけだ。そのことの問題はちゃんと見ておきたいと思う。

そして、書くまでもないが、ほぼ経済力だけがモノをいう時代は終わらせなければならい。それが社会をゆがませ、生産できない人は生きる意味がないと思わせる。一人ひとりが生きて存在することの尊厳を謳歌できる社会が求められている。

といはいうものの、ここで面白かったのは、そのためにも一定の経済力は必要だという指摘だ。ともすれば、精神だけが語られがちだが、それを維持するための一定のお金は必要になる。それは生産する本人だけが享受できるものではないはず。それを分かち合う仕組みが、求められているともいえる。

最後のワークライフバランスの話は、いま書いている「支援のてまえで」の読書メモを書いているときに気づきがあったので、そこで詳しく書くが、ワーク(働くこと)とライフ(暮らすこと)のバランス、いままでは、自分の時間をどう配分するかということで語られていたが、その重なる部分を見ていくことも大事なのではないかと思ったということだけ、書いておこう。乞うご期待。






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