『障害の社会モデルは破綻して、障害学が終わった』??(ほんの紹介29回目)(掲載時の大きな間違いを訂正)

たこの木通信2020年7月に掲載した原稿。

かわりにくかったという指摘がありました。
ジャーゴン(部外者には理解できない専門用語)が多かったかもと思って読み返したら、とても大きな欠陥があったことに気がついたので、そこを大きく
訂正して掲載。わかりにくさには根拠があったのです。ぼくがわからないように書いていたのでした。そのときも読み返しながら書いたのに、読み返しても、こんな欠陥に気がつかないものなのだなぁと思いました。
で、以下に訂正して、書き足したのですが、それでもわかりにくいかも。この話をB5で1ページにまとめようとしたのが無謀だったのかもしれません。


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ショッキングなタイトルをつけたけど、ぼくにはそう書いてあると思えたのが『障害社会学という視座』 という本の7章「障害社会学と障害学」。こんな風に書かれています。

イギリス障害学の核である障害の社会モデルは、パトラーの批判やOG問題(オントロジカル・ゲリマンダリング問題)の存在によって致命的に毀損されたと考えられる。一般に非構築物と構築物を区別する形の構築主義は成立し得ない。障害の社会モデルはそうした構築主義の一種である以上、維持することはできない。

 このように、障害を巡る社会学に自らを対置してきた障害学は、それ自体の正当性を失うに至る。・・・(180p)

気持ちよく、喧嘩を売ってる感じです。ぼくはこういうのがけっこう好き。そのことで差異が明確になり、論争の輪郭がはっきりするから。

 ここで説明されている障害の社会モデルが破綻しているっていうことをかなりおおざっぱに言い換えれば、以下のような感じだろう。

 たとえば、ケルビニズムという顔の外観が損傷しているという「障害」について。

人種やジェンダーやセクシャリティなど損傷(インペアメント)以外の理由で社会から否定的な態度をとられる人がいて、それには障害の社会モデルは適用されない。だから、障害の社会モデルの前提として、損傷が存在することになる。しかし、顔の外観が損傷されているかどうかは、否定的な態度をとられることと同様に、社会的に構築された価値観に基づいている。

~~以下、ブログに掲載するにあたっての大きな訂正と書き足しを加えた部分~~

もとの掲載したものでは、これに続けて(故に)【「身体ではなく社会が問題」という論法が使えない】と書いたのだがこれが間違っていた。ここでもやはり「(損傷したといわれる)身体ではなくて、やはり社会が問題なのだ」。二重の意味で。

構築された価値観で損傷されたとされるという一つ目の社会の問題と、それによる人びとの否定的な態度という二つ目の社会の問題。その両方が問題であって、身体の損傷で(多数派の人と同じように)「できない」ことがあるという問題ではない、という話だ。

つまり、多数派の人と同じようには出来ないことがあって、出来ないことで本人に不利を押し付ける社会が問題だというのが障害の社会モデルだが、ケルビニズムの場合、前半の部分の前提がそこでは成立しないことがある。(機能的に損傷している場合もあるので、すべてとは言えないが。)

~~以上、大幅に訂正し、書き足した部分(これでも不十分かも)~~

そこで、身体か社会か、損傷か障害かという社会モデルの基礎的区別が無効化されてしまう。これが枠組の根幹にかかわる欠陥である(177p)という著者の主張。

おおざっぱに書いて、わかりやすさを求めたけど、わかりやすかったかどうか不明。とにかく、その障害学の根幹部分が壊れちゃったのだから、障害学は終わっていて、これからは障害社会学だというわけだ。

少なくともぼくにはそんな風に読めたので、障害学MLでこんな風に言ってるけど、障害学アカデミズムの人たちは反応しないの?って、喧嘩を煽ったのだけど、障害学アカデミズムの人たちはあまり乗ってくれない(涙)

なかかなポロヴォーキング(喧嘩売ってるよう)で、面白いでしょ。

この章には障害の社会モデルの制約として、以下のようなことが書かれている。

・障害者に必要な面もある医療の周縁化

・身体的機能不全の「進行」を含む身体的諸問題の軽視

・障害と同種の不利益を受けていながら、(障害者とされないため? あるいは障害以外の問題とされるため?)障害学の対象となることが少なかった人々の存在

a,障害学を反映した制度が持つ否定的な働き、b,障害者運動の語りの特権化による家族や関係者の語り、c,障害者の非運動的な語り  これらの語りへの従属的な位置づけ

障害の社会モデルがこんな制約を抱えているというのは、そうだと思う。だからこそ、障害学の内部でも障害の社会モデルを問い直すという営みはいろいろやられてきたし、明確に否定している論者もいる。そんな議論をもっと深めるためにも、このプロヴォーキングな問題提起を大切にする必要があるんじゃないかと思ったのだった。
~~~原稿、ここまで~~~

ただ、こんな風に言ってる榊原さんは今年の障害学会でも発表されていた。内部から変えていこうという戦略なのかな?

榊原さんの議論は、これまでの障害学内部での障害の社会モデル批判の議論を等閑視しすぎではないかと考えていて、いま、気がついたのだが、彼の議論が衝撃的なのは、これまで障害の社会モデルを否定していた人は障害学の内部で障害の社会モデルを否定していたのに、障害の社会モデルの否定した結果、障害学も否定せざるを得ない、と結論づけたところではないか、と思ったのだけど、どうなのだろう?

また、障害学のMLで聞いてみようかなぁ。

あ、書き忘れましたが、この件、障害学のML(学会のMLではない)で榊原さんからレスポンスをもらっています。

別に項目を立てて紹介したいと思います。

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