SDGsはアヘンでもあるけど、綱引きの場と考えたほうがいい(アマゾンレビューを参考に2021年5月追記、さらに9月追記)

SDGsについて考えた。
斉藤幸平さんは
SDGsは「大衆のアヘン」。資本主義に緊急ブレーキを!
この冒頭の以下の指摘は大事な話だと思う。
多くの科学者が指摘し始めたように、そもそも経済成長と二酸化炭素削減は、求められているペースでは両立しえないものなのです。つまり、無限の経済成長を追い求める資本主義に緊急ブレーキをかけない限り、気候変動は止まらない。これが問題の核心部分なのに、SDGsはそこから人々の目をそらさせる。その点を危惧しています。
その通りだと思うので、脱成長が必要という話になる。また、以下はわかりやすい例でもある。
SDGsだって、「買うものはエシカルに」とはいうけど、結局、生産には手を付けず、消費を変えるだけにとどまっているといえます。「エシカルじゃないハンバーガーではなく、エシカルなハンバーガーを食べよう」みたいな話をしている。エシカルさを追求するためにマイボトルやエコバッグを買ったりする。それが完全に無意味だとはいいませんが、「消費の内容が変わっただけに過ぎない」という認識は大事
 確かにSGDsはアヘンというか、麻薬的なものではあると思う。正直、「また新しい別の『開発』(デヴェロップメント)かよ」と思う。
もう、開発はいらない。
 しかし、同時にSDGsは
資本主義を生き延びさせようとする巨大資本
   と
地球をなるべく持続可能なものにしよとする人々
   の
『綱引き』の場
でもある。
 SDGsはダメだからと綱を離してしまったら、SDGs完全に巨大資本によるエクスキューズのためのものになり下がってしまう。
 それが本当に「誰一人も取り残さない」ために存在するのか、ひとつひとつの行動をちゃんと検証する必要がある。

 また、禁欲だけじゃつまんない、という話でもある。消費と「快」は確実に結びついている。最低限の衣食住の保障が前提ではあるが、それを超えるちょっとした心地よさは欲しかったりするのも自然だと思う。その「ちょっと」がみんなに分かち合えるものかどうか、なるべく分かち合えるレベルのものにしていくために何が必要なのか、という話でもある。

 そして、上記の引用部分にあるように生産のありかた、社会全体のありかたに手を付けようとしないで、マイボトルやエコバッグじゃダメで、マイボトルやエコバッグと社会のありようを変える、そのつなぎめのことを考えることが大事になる。マイボトルやエコバッグはダメじゃなくて、大事なことだと思う。でも、それだけじゃだめなのだ。

 SDGsという場を社会全体の方向を変えるために使うことに成功できるかどうかは社会運動が重要な要素になるはず。

 本当に地球をできるだけ持続可能なものにするために、ぼくはSDGsをただ「善きもの」として持ち上げるのではなく、それは綱引きの場であるという認識を忘れないことが大切だと思う。

以下追記

斎藤幸平さんは『人新世の「資本論」』では以下のように書いてている。

国連が掲げ、各国政府も大企業も推進する「SDGs(持続可能な開発目標)」なら地球全体の環境を変えていくことができるだろうか。いや、それもやはりうまくいかない。政府や企業がSDGsの行動指針をいくつかなぞったところで、気候変動は止められないのだ。SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかない。(Kindleの位置No.14-17)

これが一面的だということはここまでに書いた。その斎藤幸平さんへのきっちりした批判が書かれていることをフェイスブックで知り合いから教えてもらった。

「マルクスの大霊言」では近代資本主義経済批判にはなっても、現代社会の危機への処方箋にはなり得ない (10月29日再読後に追記 SDGsへの補足と資本「論」)

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2MGM4MC91BB4Y/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8

ここにはこんな風に書かれている。

著者は本書冒頭で「SDGsは大衆のアヘンである!」と、マルクスにならって声高に宣言したかったようだが、いきなり大きな見当違いをしている。最近、巷で皮相的な「SDGsビジネス本」や「SDGsビジネスモデル」が氾濫し、いわゆるグリーン・ウォッシュならぬ「SDGsウオッシュ」の様相を呈していて、アリバイ作りというかこうした便乗ビジネスには評者もつくづく辟易しているが、本来SDGsに込められた理念と設計は単なるアリバイ作りではない。SDGs達成度を計測する指標として200以上の項目が設定されているが、その1/3以上は、特に途上国において、これまでデータがまともに取られてきたことがない指標である(例えば生物多様性関連指標とか)。つまり筆者の言を借りれば、これらは「犠牲を不可視化」され「外部化された環境負荷」のデータであり、その実態をなんとかして可視化しようという試みがSDGs達成の下に世界で行われているということを著者は全く理解していない。こうした試みを「アヘンである」と勢いよく切って見せた後で、著者は何に基づいて透明性のある対策を産み出そうというのか。本書を最後まで読んでも、不可視された犠牲を可視化して、環境負荷を内部化する具体的な枠組や方法論が著者から示されているわけではない。また本書の中で様々な環境関連データを著者は引用して自らの論を補強しているが、引用している研究成果をあげている世界的な研究ネットワークがSDGsの成立にも深く関わっていることを著者はどう考えるのか。そもそも人と環境の関係の複雑さの全貌は、まだ私たちの全然理解の届かないところにあるのだ。その複雑さを外部性として切り捨てて成立しているのが、今の資本主義の主流派理論であって、SDGsを推進することで現代の資本主義経済の外部性を可視化しようという試みを日本の状況だけ見て切り捨ててしまうことで、冒頭から本書が批判する対象と同じ過ちを著者は結果的には犯していることになっている。

~~

SDGsには本来グローバル資本主義・新自由主義に対する「毒」が仕込まれていることにも気づいていない。逆に、グローバル企業やブレイクスルー・インスティテュートのような新自由主義の側はそれに気づいているからこそSDGsをアリバイ作りにつかって骨抜きにしようとしているのであって、本書で提示する現状認識と問題設定であれば、著者がまずすべきはSDGsの否定ではなく「免罪符」とされることへの徹底した抵抗を掲げなければいけなかった。

~~

SDGには17の目標が設定されているが、基本的には等価で全部大事という理念で目標の優先度はそれぞれの国や地域の実情に合わせて推進していくという国際的な合意がある。これがいかに画期的なことか。SDGsにおいてはSDG8「経済成長」は17のうちの単なる1目標でしかない。世界銀行やIMFが長年に渡り主導してきた資本主義的経済成長を優先せず、中米のコスタリカのようにSDGsの理念に基づいてSDG16「平和」とSDG13,14,15「環境保全」を国家の社会経済政策の中心軸に据えるという選択を取る国の意思は尊重されなければならない、ということが合意されているということなのだ。つまりSDGs達成を目指すことで脱成長へと舵を切ることが可能になる枠組が用意されているのであって、ここにSDG12「持続可能な消費と生産」を加えてもいい。SDG12を突き詰めれば大量生産・大量消費という資本主義経済の原動力からの脱却を図らざるを得ないことになる。

~~~

このレビュー、注意深く読む必要があると思う。

確かにここに書いてあるように「SDG12を突き詰めれば大量生産・大量消費という資本主義経済の原動力からの脱却を図らざるを得ない」とぼくも思うし、その方向でSDGsを使うべきなのだと感じている。

しかし、同時にここにも書かれているように、SDGsにはSDG8「経済成長」という項目も明確に存在している。「SDGsには本来グローバル資本主義・新自由主義に対する「毒」が仕込まれている」が同時に「SDGsにはグローバル資本主義・新自由主義を生き延びさせるための「毒も」も仕込まれている」。

この評者が書いているように【SDGには17の目標が設定されているが、基本的には等価で全部大事という理念で目標の優先度はそれぞれの国や地域の実情に合わせて推進していくという国際的な合意がある】のだろう。しかし、この「基本的には等価で全部大事」というときの「基本的」というのをちゃんと見る必要がある。果たして、本当に等価なものとして扱われているかどうか。コスタリカの例はそれが例外的にそうなっているという例として見るべきではないか。おおくのメインストリームの人たちはこのSDG8「経済成長」という項目に注目し、そこに依拠しているのではないか。

だからこそ、ここに書いたように

SDGsは

資本主義を生き延びさせようとする巨大資本

   と

地球をなるべく持続可能なものにしよとする人々

   の

『綱引き』の場

であるということをちゃんと見るべきなのだと思う。


私たちがSDGsがアヘンだと手放せば、経済成長や新自由主義をほぼいままでどおりに進めるアリバイに使われるが、

SDGsを無条件に称賛しても、そこに毒が仕込まれていることを見逃してしまう。

綱引きの綱を手放さず、それを単純に称賛せず、誰一人取り残されることのない持続可能な社会をどう作るのかが問われているはず。

~~~~
2021年9月追記

現状の大量消費や過剰な広告で必要ないのに欲望を過剰に喚起し、人びとが買いたいものを開発し、作り続けることを望む勢力の圧倒的なSDGs利用。猫も杓子もという感じだ。

他方でSDGsをテコにして、現状の過剰な消費資本主義ではない、本当に持続可能な社会を作るための運動が必要だという勢力は小さい。

圧倒的に前者が有利にSDGsを使っているように感じる。

だから、罪悪感なく次の洋服を買わせるためのユニクロのリサイクルボックスやプラスチックの量を減らしたペットボトルがSDGsだと宣伝され、その気にさせられている。着るものはたくさん持っているのに、新しい洋服など買う必要はない。ミニペットボトルなど、可能な限り使わないのがいい。

しかし、着ることが出来る洋服がたくさんあるのに、新しい洋服が欲しいという気持ちが理解できないわけでもない。欲望が喚起され続ける社会に生活しているのだし、外から禁欲を強制される社会なんて、まっぴら御免だろう。

必要のないものを買わせようとする過度に欲望を喚起する広告にあふれているのは事実だと思うが、それでは、誰が過度と過度でないものを判別できるのか、これも難しい話だ。

ほんとうに持続可能な社会に近づけたいのであれば、大量消費や不必要な欲望喚起からの転換が必要なのだろう。 ユニクロのリサイクルボックスとか、薄いミニペットボトルは象徴的な話だが、社会を持続不可能にしている仕組みそのものが変わらなければならない。

そこを無視したSDGsが横行しすぎていて、やはり、SDGsはインチキだと声を大にして上げたい気分が募りつつある。


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