メンタルの「病」(?)、関係性の中で癒されるのでは?(本の紹介はしてない34回目)
https://tu-ta.at.webry.info/202011/article_5.html
に書いたものを、そのまま転用してた。とはいうものの、アップロードしちゃったし、そのままにしておきます。
メンタルの「病」(?)、関係性の中で癒されるのでは?
(本の紹介はしてない34回目)
メンタルの病は医療や薬ではなく、関係性の中で癒される、そんな風に感じたという話で、今回は本の紹介はない。(ごめんなさい)
大田区でいま、「リカバリーカレッジおおた」というのが開催されていて、その3回目、コロナ禍について少人数・車座で(少し距離も取って)自分が感じたことを話すというような形だった。そこで感じた話を書く。それと直接は関係していない話なのだけど。
ぼくはいろんなメンタルの痛みにかなり鈍感で、とくに他人のメンタルの痛みを感じることができず、それらをなぎたおして、やりたいことをやってきた感じがある。それは鈍感力といえるかもしれない。他方でHSP(ハイパーセンシティブパーソン)と呼ばれる感受性の強い人たちがいる。いろんなことを感じやすく、傷つきやすい人たちでもある。
ただ、その人たちも、あらゆることにハイパーセンシティブなわけではなく、琴線に触れる領域というのがあるようだ。一人の人の中に敏感な領域と鈍感な領域があり、それは人それぞれ異なるのだと思う。あと、この感受性(センシティビティ)の感度、これは後天的なものに影響されている場合が大きい。
たとえば、ジェンダーに関する感受性、男は目的意識をもって学び感受性を高める必要があるのだろう。「男は」と一般化して書いたが、少なくともぼくには必要だし、強弱はあれ、多くの男に必要な学習であるだろう。
ともあれ、ぼく自身は鈍感力という鎧を身に着けて、できるだけやりたいことをやってきたような気もするし、そんななかで傷つけた人もいたと思う。ぼくがやりたいように前に進むために必要だったという側面もある。まあ、なるべく傷つけたくないとは思うけれども、それはやりたいことと、他者とのコンフリクトのバランスの問題だったりもするかもしれない。
そのバランスをどこでとるかという「支点」の位置が人によって異なる。その支点を自分のやりたいことに寄せるために、鈍感力が必要なのではないか。
そして、鈍感力には二つの側面がある。
1、自分が傷つくことへ鈍感力
2、他者を傷つけることへの鈍感力
これ、それぞれがそれぞれに危険だ。しかし、それは生きやすさをもたらすものでもある。
いろんな方面で傷つきメンタルを病んでいる人がいる。もう少し鈍感なら楽なのだろうになぁと思うが、ある領域では鈍感になれないというのが病だったりするのかもしれない。否、それを「病」と呼ぶのは、それが「生きにくさ」を呼ぶから、というだけの話で、鈍感なほうが問題ということもある。
ちょっとかじっただけだけれども、WRAP(これもリカバリーカレッジおおた4回目で勉強中)とか、リカバリーとか、オープンダイアローグとか、ACTとかの営みを経験したり読んだりすると、メンタルの「病」(と呼んでいいかどうか)を癒すのは医療とか薬の力ではないと思えてくる。もちろん、医療や薬の有効な使い方は否定しない。
さまざまな人や人を媒介にした事柄との関係性の中で、人は病む。そして、その回復もまた、他者との関係性の中でしかありえないと感じる。昨日会った友人が重い鬱から立ち直れたのは映画「ボヘミアン・ラプソディ」と出会いが大きかったという。数年で体重が半分近くまで減るくらいの鬱で、通院を重ねていたのに、立ち直れたのは医師や薬によってではなく、映画「ボヘミアン・ラプソディ」を繰り返し見るなかで元気が出てきたのだと言っていた。そんな話を聞いて、ますますそんな風に思うのだった。
この記事へのコメント
WRAPをご存知でしたか。
(私は名前を知っている程度)
私は、小学3年生で自傷行為・中学生から軽度の過食症・衣類にも敏感。
色々な面で、HSPです。
30年前から精神科通院歴があり、
精神安定剤・睡眠薬にも長年お世話になりました。
ボヘミアン・ラプソディで立ち直ったご友人。
良かったですね。
今の私は、玉ねぎのみじん切りをすることが【精神安定剤】です。
単調な生産活動に集中するのが良いですね。