中動態は中間ではないという話からODにおける「議論の否定」への疑義へ

『オープンダイアローグと中動態の世界』というちょっと古い雑誌の[特集]を読んで中動態についてSNSをつかって考えた。。
最初にこう考えれば、わかりやすいと思った。そしてツイッターにこんな風に書いた。

國分功一郎さん @lethal_notion が紹介してくれた中動態について、すごく簡単に記述する方法を思いついたのだけどこれでいいかな?
「する」「される」の二項対立関係の間をグラデーションでつないだ部分が中動態。
「する」でも「される」でもなく、気がついたら「なっていた」というような領域

しかし、雑誌で読み飛ばしていた中動態の説明の部分に國分さん、こんな風に書いていた。
「中動態は能動態と受動態の中間にあるわけじゃない」、これが第一のポイント です。
「する」でも「される」でもなく、気がついたら「なっていた」というような領域というのは大きく間違っていないと思う。しかし、それは「する」と「される」の間ではない(かもしれない)。

國分さん
もともとは能動態と受動態は対立しておらず、「能動態と中動感が対立していた」
とのこと。

能動態と受動態がセットになった「する」「される」という領域に対立する形で中動態という「なっていた」という領域があるという理解でいいのか?


この話と
「説得や議論をしない。これは難しい」という斎藤さんの話をつなげることができるかもしれないと思った。

この特集で斎藤さんはこんな風に書く。
 説得や議論をしない。これは難しい

 昨年、オープンダイアローグトレーニングコースを受けた時に、私はいろいろな困難を感じました。何がいちばん難しかったかというと「説得や議論をしない」ことです。

 これが非常に難しい。専門家として「それは間違ってますよ」とか、「こうしたほうがいいですよ」とか、つい言いたくなってしまう。その言いたくなる態度の根底には、能動・受動に毒されてきた、エセ近代人としての私があるわけです。そこを脱却しないとオープンダイアローグ的なポリフォニーを体得できない。トレーニングコー スでは、そのことをつくづく思い知らされるという経験をしました。
これは専門家とは言いにくいぼくにも難しい。つい説得や議論に向かいがちだ。

対話はする。しかし、議論や説得はしない。自分はこう思うという話はするのだと思う。それはそれ以上ではない。
つまり、対話の相手に変わって欲しいと思っても、それは求めない。しかし、対話は続ける。

対話を続けて他者を変えるのではなく何かを「待つ」こと。
「待つ」とはいうものの、何か明確なゴールを待つのではない。
とても不確実で不安定な状態に耐えながら、そのとき、そのときに「なっている」状態を受け入れる。

対話はあきらめない。しかし、変化は求めない。
っていうか、変化したい、させたい、という気持ちはなくならないだろう。しかし、自分で変化させることが可能なのは自分だけだ。もしかしたら、自分に関してさえ、「変える」ことを性急に求めないほうがいいかもしれない。「こんな風になりたい」という自分の気持ちを掘り下げて、自分の中で対話していく必要もあるだろう。

他方で多くの人が「議論しない」日本人について、これでいいのか、という思いもある。

対立を避けて、明言を避け、言いたいことも言わずに飲み込む人間の多さにうんざりしたりする。

対話を続けるためには、同じだったり、似ていたりする部分を確認すると同時に、異なる部分の輪郭をはっきりさせる必要もあるのではないか。

同意できるところをみつけて、うなずきあうだけでもダメなんじゃないかと思う。議論という形をとらずに違いを明確にしていくという、ちょっと難しいことも求められているように思う。

ただ、難しいのは、「自分はそれが正しいと思っている」ということの向こう側には、多くの場合「あなたのそれは違う」ということが隠されていることだ。そこでは議論が発生する。

ふと思う。
対話の中でほんとうに「議論」は否定されるべきなのだろうか?
相手をリスペクトする気持ちが双方にあれば、議論は可能であり、必要でさえあるのではないか? 自分がそれが正しいと思っていることを隠して、議論を避けるほうが不自然なのではないか?

不自然に自分の主張を隠すという、そんな形で対話はほんとうに続けることができるのか、と思う。

相互に信頼関係がない場面での議論は不毛に終わる可能性が高いが、対話のベースに信頼関係さえあれば、議論は否定されなくてもいいのではないか?

議論のために議論や相手を変えるための議論をするのではなく、違いの輪郭を明確にするために、議論が必要ならば、それを恐れる必要はないのではないか?

しかし、同時に、議論がベースになる信頼関係を損ねる可能性も考慮する必要があるだろう。

必要なのは、そこでのギリギリのバランス感覚であって、議論の否定ではなないような気がしてきたのが、実際、どうなのか?

どのような経緯でODでは議論が否定されてきたのか、もう少し考え続ける必要がありそうだと思う。

何気なく使ってきた「議論」という言葉が指すものを明確にする必要があるかもしれない。対話の中にいる二人が異なる意見を持っているとき、自らが正しいと思っていることを表現し、それぞれの違いを明確にしていく作業を議論と呼ぶかどうか。表面的にはそれは議論に見えると思う。対話であり、同時に議論であるような内容。それを議論と呼ぶのであれば、信頼関係を損なわないように注意深く行われる議論はあっていいと、ぼくは思う。 ODのなかで一般的に否定される議論はあるだろう。しかし、すべての議論を否定するという話でもないのではないか、と思うのだった。






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