再び『殺す親 殺させられる親』について(ほんの紹介39回目)

021年5月のたこの木通信に掲載したもの


再び『殺す親 殺させられる親』について(ほんの紹介39回目)

2か月前の3月にも紹介した『殺す親 殺させられる親』(児玉真美2019年生活書院)。ぼくが気になったところばかりを書いて、紹介にはなっていないとなあと思ったのだけど、それはいつものこと(涙)。で、読み返してみたら、もっと紹介したい部分があった。再度紹介したかったのは以下。少し長めの引用。

 ふっと海が生まれてからの長い年月の中からよみがえってくる声があった。こんなに幼い子どもを施設に入れるなんて、ひどい親ね…。自分が好きなように働きたいから、子どもを施設に捨てたんでしょ…。親は本人の意思を無視して勝手に施設に入れるから、障害者の一番の敵だ…。 子どもを施設に追いやって、親が自己実現しているじゃないか…。 そうした断罪の指を突きつけられるたび、私はその指に一瞬で心を切り裂かれる。その瞬間、あまりの痛みに声も出せない。そのため、その場できちんと事情や思いを説明できたことなど、一度もない。でも、仮にその場で痛みに耐えて冷静にものをいう力が私に残っていたとしたら、その「事情」をきちんと説明することができただろうか。そんなこと、できるはずがない。「重い障害のある子どもが生まれました」、「親は施設に入れました」という二つの「事実」だけしか 見ようとしない人に、いったい何を言えばいいというのだろう。何を言えるというのだろう。だから、多くの親はうつむいて口を閉ざしたまま、誰に言われるまでもなく自分自身が心のうちに抱えてきた罪悪感をさらに懐に深くしまいこむことを繰り返してきたのではないか。

 それと同じように、「医師はこういう説明をしました」、「そして、親はこういう意思決定をしました」という「事実」の羅列からは、本当のことなど何も見えはしない。「親がどういう選択をしたか」という結果だけを問題にして「正しくない」と決め付けてかかる人には、なぜ、その親がそういう選択をせざるをえなかったのか、その選択までにあっただろう親の葛藤や痛みは、 いとも簡単に見えなくなってしまう、そして見えないまま、それらは存在しなかったことにされてしまうのだ。同じ親である私ですら、そうだったように――。

 「あたら助かる命を見捨てるのは親なのか」という問いに縛られていた私にとって、「よほど手術に懲りておられたのでしょう」「正解などないのかもしれない」というB先生の言葉は、親の立場に向けた「理解の言葉」だった。一年前の私を含め、親に対する「赦しの言葉」でもあった。
224-225頁(強調は引用者)

入所施設が抱える問題をいろいろなところで声高に語ってきた自分がいる。それ自体はそんなに間違っていないといまでも思う。確かに問題は多く、そのことは児玉さん自身が語っている。【「本人のため」というのがいかに欺瞞に満ちた恐ろしい言葉であるか】と。

これはぼくが通所の場で働いていて、現場を離れるかどうかの時に決定から排除され、リアルに感じたことでもある。「本人のため」という言葉で無理やりに事業所を辞めさせられ、障害を悪化させた人を知っている。

入所施設でも「本人のため」と言いながらの虐待・身体拘束も少なくないと感じている。それらがダメなのは言うまでもないが、しかし、入所施設を選択するしかない人や親の気持ちをどれだけ考えることができただろう、長く引用した部分から、そんなことを感じたのだった。

とりわけ重症児者にとっての環境の話は深刻であるらしい。「病院NICUや小児科でベッドが不足し、「退院支援」「地域移行」という方向性…。しかし、帰っていく地域では支援資源は不足したまま…主として母親たちが過重な負担に喘いでいる」とのこと。このあたりの実態について、この本で詳細の記載はないが、考えるべき話なのだろう。

~~原稿ここまで~~

『殺す親 殺させられる親』について、「2か月前の3月に紹介した」記事は以下
https://tu-ta.at.webry.info/202105/article_11.html

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