小山田圭吾氏の問題についてのリンクなど 追記:篠原睦治氏の言説、および田中多賀子さんの考察などについて

小山田圭吾氏の問題

世の常として、忘れられそうになっているが、
忘れないために、友人から教えてもらった情報などを含めて、リンク先を挙げておこう。
最後にもちょっと思ってることを書いた。

事件の概要を目的とした記事ではないが、

小山田氏問題。どこまで「いじめ」の内容を報じているか。国内と海外メディア、二つの断絶とは。

今井佐緒里欧州/EU・国際関係の研究者・執筆家・編集者
を読むと、概要はわかると思う。

小山田氏自身による7月16日付の文章(謝罪文というタイトルはないが・・・)
https://twitter.com/corneliusjapan/status/1415968059580293121



以下はぼくが知った時系列で

ぼくが最初に書いた感想は以下
https://www.facebook.com/masahide.tsuruta/posts/4192154707531681
小山田圭吾の問題
彼自身が語った子ども時代の行為に肯定できる要素はない。大人になってからのインタビューにも真摯な反省はない。
とても大切なのは、これから自分がやった行為にどう向き合うかだと思う。これは終わりではないはず。
「悪かった。反省します」から「なぜ自分はそうしたか」を考えて欲しい。
そして、和光学園は、この問題にどう対応してきたのか、これまでの対応はどうだったのか、自らの調査と共に、第三者による調査をして、結果を公表すべきだと思う。
この前半に書いたのは「修復的正義」https://tu-ta.at.webry.info/202012/article_3.html の視点でもあるし、「反省させると犯罪者になります」 https://tu-ta.at.webry.info/201712/article_2.html に書かれている話でもある。和光学園の話については、この記事の最後に少し書き足した。

次に書いたのが以下
いつもそうだけど、言葉による反省を求めるよりも、「なぜ、そうしてしまったのか」を正直に深く考えて欲しいと思う。それは一人では出来ないかもしれない。誰かの助けが必要なら、借りて欲しいし、自分もそうありたいと思う。

そして、野口 晃菜さんの考察

小山田圭吾氏の障害者いじめ問題から考える教育現場の現状と課題

https://news.yahoo.co.jp/byline/noguchiakina/20210719-00248737

これ、大切な視点だと思いました。
支援校・支援級に分けられている今の現状は変えなければなりません。
しかし、ただ同じ場を与えるだけではなく、そこにリーズナブル・アコモデーション(合理的な環境調整)がなければならないという話だと思います。

その後、知り合いのフェイスブックで教えてもらって書いたのが以下
https://www.facebook.com/masahide.tsuruta/posts/4212849522128866
知り合いに教えられて
を読んだ。
ちゃんと検証しないとダメだなぁと思った。
もとのものを読まないとどちらが本当かわからない。
太田出版は興味本位で使われないハードルをつけて、検証用に希望者にDLできるようにすべきではないか?
上記の文章、

いじめ紀行を再読して考えたこと 01-イントロダクション

7月31日で公開が終了している。

このコメント欄で、記事全文が読めることも教えてもらった。
ちなみに、原文は以下のリンクから読めます。
この教えられた文章(「いじめ紀行を再読して考えたこと 01-イントロダクション」)に違和感を感じつつ、言語化できないでいたときに、教えてもらったのが以下

北尾修一氏のブログを再読して考えたこと

https://koritsumuen.hatenablog.com/entry/2021/07/25/142114

最初に「いじめ紀行を再読して考えたこと」を読んで感じた違和感はかなり言語化されていた。しかし、その壮絶ないじめと無視の二者択一の中で、壮絶ないじめの方を選んだ可能性もないわけではないようにも感じた。それは本人に聞いてみなければわからないし、本人にも意識されないで起きていることかもしれない。


和光学園の見解については以下で報道されている。

小山田圭吾“陰湿いじめの舞台“となった和光学園の「共同教育」とは…担当者に聞いた

https://news.yahoo.co.jp/articles/57a136ce32b643ede71bff73dd14907ad41f9613

和光学園がほんとうにこのように答えたのかどうかも検証したほうがいいと思ったが、ライブドアのニュースにより詳しく同じ内容が報じられていたので事実だと思う。

大炎上した小山田圭吾

https://news.livedoor.com/article/detail/20576393/

消えるかもしれないので、以下に転載。もとは東スポらしい。
~~

小山田圭吾〝壮絶イジメ〟の舞台となった学校が釈明「正確な説明困難」

大炎上した小山田圭吾

写真拡大

 ミュージシャン・小山田圭吾が小中高と通った和光学園が21日、取材に答えた。


 小山田は、25年以上前に行った障がい者への〝いじめ自慢〟が原因で、東京五輪開会式の音楽担当を19日に辞任。そこで本紙は、和光学園法人事務局に質問状を送った。質問の内容は「今回の騒動をどのように受け止めているか」、「小山田が在学中に学校側はいじめを把握していたのか」、「小山田のいじめ告白記事を把握したのはいつか」など。

 卒業生のプライバシーに関わるため、本来はノーコメントとのことだが「本件につきましては、ご本人が問題となっております雑誌の中で、本学園との関わりに言及され、活字化されていることでありますので、回答できる範囲でお答えさせていただきます」と書面で回答を寄せた。

 1番知りたいのは、学校側が小山田少年のいじめを把握していたどうか。だが「30年以上も前の事実であり、既に当時の教職員も在籍しておらず、当時の事実関係を正確にご説明することは困難な状況」と説明した。

 同校は約45年前から、各クラスにハンディキャップを持った子供を受け入れる「共同教育」という制度をもうけているという。

「健常児、障がい児が共に人間として理解し合い、人が人をお互いに尊重するという認識の定着をはかっています。健常児であろうと、障がい児であろうと苦手な部分は互いに助け合い、理解しながら学習と生活を共にしていきます。子ども同士、時にはぶつかることやトラブルも起こりますが、そのような時こそ皆で考え合い、さらに深くお互い理解していく実践を行おうと努めています」

 共同教育を実施しているとなると、今回の騒動は痛恨だろう。回答文書は「(小山田のいじめ告白記事で)記載されているような事実が生じないよう、本学園として対応をしております」と、締めくくられていた。

~~~

和光学園について日刊ゲンダイのWEB記事(Yahooに転載)に障害児の母のインタビューとして
「彼が通っていた和光学園は、私立で、障がいのあるお子さんの受け入れ態勢がしっかりしていることでも評判です。だからこそ、今は違うかもしれませんが、いじめが起こっていたことを、親としては疑問に思いますよね」
というコメントが掲載されている。どっちが疑問なのか両義的に読めるコメント。あえて、そんな形で掲載しているのかもしれない。

今回、表面化したこれ、「ともに学ぶ」ということの困難を示した事件でもある。
和光学園も「ともに学ぶ」ということの大切さから、共同教育の実践を行ってきたのだろう。
だからこそ、報道されているように、検証する気持ちがないというのが事実であるとすれば、それはとても残念なことだと思う。

ぜひ、いまからでも改めて、それが過去のことであったとしても、出来る限り検証して欲しい。

そして、野口さんの文章にもあるように、インクルーシブな教育は、やはりとても大切なことだと思うので、ぼくも考え続けたいと思う。

ちなみに
和光学園が「ともに学ぶ」という実践をめざしていたことを看過している部分に関しては、ちょっと物足りない。

篠原睦治さん
https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E7%AF%A0%E5%8E%9F%E7%9D%A6%E6%B2%BB
がこのテーマで何か発言していないか聞いてみた。
誰かインタビューしてくれないだろうか?


8月9日追記
篠原睦治氏らの「いじめもまた共生のプロセス」との主張とそれに対する批判
https://4skmsd.hatenablog.jp/entry/2021/08/06/084647

まず、上記を読んで欲しい。感想についてはちゃんと読んでからまた書きたいが、
「いじめ」と「傷害事件」の境目の話について、篠原さんがどのように考えているか聞いてみたい。。
まだ十分に読んでいないが、このタイトルのように【「いじめもまた共生のプロセス」との主張】とまとめるのも間違いではないが、ミスリードを誘発しかねない危険もあるように感じた。篠原さんが主張したかったのは「せめぎあう共生」だろう。より説明的に書けば、
篠原睦治氏らの「いじめもまた共生のプロセス」との話も含む「せめぎあう共生」という主張
こんな風に表現するのがより正確だと思った。

田中 多賀子さんによる【小山田氏の和光学園時代のいじめ行為とサブカルチャー雑誌インタビューでの自慢談話の件】
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=4087612858027263&id=100003357675897
生存学研究所の田中多賀子さんのページ
この田中さんの文章でとても興味深かったのが
私が保護者として係わっていた2000年前後の頃」の話としての以下の下り。

では、生徒の立場ではどうだったのだろう、、と今さらながら考えを巡らせています。
私の博士論文(『日本の小児人工内耳受容史』)でインタビューに協力してくれた小児期人工内耳装用当事者4人の内、3人が、たまたまと言っていいのか、和光出身者だったのですが、そのうち2人は和光の話題について肯定的に語ってくれましたが、1人は否定的ニュアンスを含んだ答え方をし ていました。
このことからも、障害のある立場から和光の共同教育を心地よいものとして受けとめている場合も、受けとめられなかった場合もあることが分かります。 

不定的に受けとめた1人というのは私の息子であり、和光の共同教育への違和感が拭えなかったせいで子にもまった訳です。
和光の共同教育について、障害のある立場から見てどんな点が合わない場合があるのか、改めて考えたいと思います。

息子が和光に通うのを渋り始めた時に、私に言ったことばがあります。
「和光の奴らは、幼稚部・小学部時代から、障害者に優しく親切に仲良く、、といわれてきた。オレは優しく親切にされるばかりで、いつも『有難う」と感謝しお礼を言うべき立場で皆と対等になれない。ここに居たら対等な関係の友達が作れずダメになってしまう。」 

そう訴える息子に「気持ちはわかるけど、イジメられたり意地悪されるよりはいいでしょ。」と返しました。 

すると、彼は「いじめられたら、やり返すから、その方が対等になれる。親密になれず距離をおいた係わりで親切そうにされるてるのは対等な関係ではないので嫌だ」と答えたのです。

 担任の先生は次男の孤立を防ぐ為の工夫(昼休みや放課後、コミュニケーションする時間や場所の確保する等)や、関心を持つ複数の生徒に要約筆記の手順を身に付けてもらい、ローテーションを組んだ上での情報保障整備の授業を提供するために試行錯誤して下さいました。 

このような過程も経つつも、息子にとって和光学園という場は、一定の距離を置いてお客さん扱いされる居心地の悪い所でしかなく、居づらくなって高校1年で退学してしまいました。
同じような配慮を受けて心地よく学生生活を送る生徒も多くいますが、そうでない場合もあることを、自分の子どもの経験を通して知ったのでした。
これは篠原睦治さんが主張した「せめぎあう共生」を当事者が表現したものと言えるかもしれない。
小山田氏がインタビューに答えたと書かれている内容とは反対のベクトルの話だ。しかし、それはメダルの裏表のような話で、両者とも「普通にせめぎあう」関係が作れていないと言えるかもしれない。

それはインクルーシブ教育の到達点の深さをも表しているようにも思える。リーズナブル・アコモデーションが表面的にしか提供されなければ、お客さん扱いになりかねない。(わかりにくいと感じたのでさらに追記:「せめぎあう共生」が必要であることは間違いないと思う。上記の息子が感じたのはパターナリズムであり、「やさしさ」という表面に包まれた差別だと言えるかもしれない。しかし、「せめぎあい」を意識し(たのかどうかはわからないけれども)、クラス内での出来事を、ただ放置した結果が小山田氏がインタビューで語ったさまざまな傷害事案であるということも考えられる。教室にリーズナブル・アコモデーションを組み込み、インクルーシブにしていく取り組みは絶対に必要だと思うが、その場に完成形はないのだろう。生ものでもある活きているクラスを、当たり前に生き生きとさせる取り組みやそのための技術や知識も必要となる。普通に言葉では自己主張できない子どものリーズナブル・アコモデーションをどう実現するかということも課題となる。同時にそれがパターナリズムに陥らせない工夫も必要となる。求められているのはせめぎあいながら、しかし、子どもたちの人権が守られる場であるだろう。このように言葉で書くのは容易だが、抜き差しならないしんどさに直面することもあるかもしれない。しかし、案ずるより産むがやすし、というようなこともあるかもしれない。そんな現場を教員が楽しめるような環境を作ることが教育行政や学校運営の責任者が行うべきことなのではないか。そんな風に思った。

同時に社会全体が過度な生産力主義に汚染されているなかで、子どものコミュニティだけがそこから自由でいられるか、という話でもある。

福祉工場がA型になる前の職場には「せめぎあう共生」はあったように思う。それは今でも残っている。しかし、そこでリーズナブル・アコモデーションが不足していると感じる当事者もいただろう。

そういう意味ではリーズナブル・アコモデーションと「せめぎあう共生」の関係に正解はなく、それこそ「せめぎあい」の中で、自己主張できない障害のことも視野に入れながら、その場その場でのベターを求めていくしかないような話だと思う。

その「せめぎあい」が犯罪でもある傷害事件とは明確にわけられる必要があるだろう。

しかし、それが「虐待」にあたるかどうか、という話にはどうしてもグレーゾーンがつきまとうようにも感じている。関係性の中で検証されなければならない呼び方の問題などについて、虐待研修のテキストを平板にあてはめて、「はい、呼び捨て、それは虐待」とかいう話でもないように感じている。ひとつひとつの行為や表現が、それこそ自己内部の「せめぎあい」も含めて、葛藤の中で検証される必要があるのだと思う。

さらに追加情報

空き時間から生まれた研究対象 ――拙著『人と成ること――恵那地方の統合教育・地域生活運動』について
https://www.ritsumei-arsvi.org/essay/essay-3636/

上記で紹介されているこの本は、1970年代から1980年代に実践されていた恵那の統合教育の話だが、書籍のもとになった博士論文には、その恵那の先生たちが東京での実践事例として学びに行ったW学園のことも言及されているらしい。(この書籍ではその部分はカットされているとのこと。)学びに行った恵那の先生たちはW学園のことをあまり肯定的に評価していなかったという話を聞いた。論文は読んでいないけど。

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