「水俣病の少女が入浴する写真」から考えたこと(追記あり)

いろいろ考えさせられる話だった。
生存学研究所のMLで教えてもらったのが以下
http://www.arsvi.com/b2010/1304yy.htm#a
ここに関連情報として、「入浴する智子と母」に関する『ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日』に書かれた間違いの指摘や、それに関する著者からの謝罪の文章のURLなどが記載されている。

(末尾に追記を記入)

まず、最初に読んだ

解決しない、ということの意味

2020-12-31 08:20:35 

のコメントを書いて送った。
このブログ、60日以上、投稿がないとのことで、レスポンスがあるとも考えられないし、掲載されない可能性も高いので、ここに記録しておく。
 本を読んでいないし、映画も見ていないのですが、すごく真摯に社会運動を行われているということが伝わる話でした。
そして、チラシやポスターになって風雨にさらされたり、捨てられたり、折られたりすることで苦しくなるという人知を超えた話に撃たれました。このような話を教えていただき、感謝します。

 真摯に活動されているからこそ、事実に基づかないことを書かれ、許せないという気持ちになったこと、のだろうと感じました。
しかし、同時に著者・山口由美氏による2020年11月13日付にて「NEWSポストセブン」のwebページに掲載された謝罪も誠意が込められていると感じました。

 この謝罪について、どのように感じられているのか、もう少しく詳しく知りたいと思いました。
ここに書かれているように、取材しないで憶測で書くというのはジャーナリストとして致命的な過ちだと思います。同時に、起こりえない過ちではないとも感じます。そのような過ちを犯してしまった人はジャーナリストと名乗るのをやめるべきなのかどうか、悩ましい話だと思いました。

そして、このタイトルの「解決しない、ということの意味」というのが深いし、そのことをぼくはどこまで理解できているのだろう、とも思った。
追記
そういえば、過去に水俣展のポスターに言及したことがあったことを思い出した。

このポスターについて、2000年当時に考えたことは
「水俣病は終わっていない」
http://www.arsvi.com/2000/0008tm.htm
に書いている。そこに以下のように書いた。
 水俣病運動の世界では、障害のある身体の写真が告発のために多用される。ベトナムにおける枯葉材の運動もそうだ。そこからは、その障害を引き受けて、ポジティブに生きていくというイメージは絶対に生まれない。それは明確なマイナスイメージのシンボルとして多用される。確かに「されてしまった」というのは書いたきた通りだ。マイナスイメージを刻印された人たちが、障害のある存在として、その生を積極的に生きていくための言説が存在しなければならない。しかし、ぼくが知る限りでは存在しない。その言説の端緒を障害学に探すことができるのではないかと考えている。そして、この『証言 水俣病』の視点はそれにつながることが出来る広さと深さを持っていると思う。
しかし、この感想はその後、変遷する。2006年に書いた文章ではこんな風に書いている。
 「水俣展」のポスターに使われる曲がった指の写真や屈折し硬直した身体の写真がある。表面的にはマイナスイメージの象徴でもある。そのモノトーンのポスターは街角に貼られて異彩を放つ。しかし、それは表面的なマイナスイメージを突き抜ける可能性をも含み持つ。そのマイナスイメージの向こう側に生きていることの尊厳がある。
から

2000年頃、その写真はマイナスイメージを象徴しているようにしか見えなかったのだが、それをみていくうちに、そのマイナスイメージを突き抜けた向こう側に、深い存在の尊さ、いのちへの希求があるのではないかと感じるようになったのだった。書いているように、確かに表面的にはマイナスイメージの象徴のような写真だ。そして、それは告発のイメージでもある。しかし、その告発のイメージの向こう側に生の尊顔が表現されているように見えてきたのだった。


水俣病に関しては、他にもいくつか書き残している。

「水俣病は終わらない」東京集会に参加
https://tu-ta.at.webry.info/200606/article_17.html

「原点としての水俣病」メモ
https://tu-ta.at.webry.info/201502/article_1.html


~~以下、追記~~

水俣病に侵された人の写真。

その写真は表面的には障害のマイナスイメージを象徴的に表し、加害企業を告発する写真でもあるが、その表層を突き抜けた向こう側に、生命の尊厳が表現されているのではないか、と書きました。

しかし、その突き抜けた向こう側を意識するためには、それが障害をマイナスイメージと象徴的に捉えた写真であると認識すること、そして、多くの人にはそのマイナスイメージしか見えない、という認識が必要なのではないかと、これも根拠なく直観的に感じたのです。根拠はないので、間違っているかもしれません。


~さらに追記~
写真だけでなく、すべてのアート作品は、作られたものと見る人の関係性の中にその価値が存在していると言えるかもしれません。
作品が発信するメッセージをどう受け取ることが出来るか、そこで受け取るものの多くは言語化できずに、ただ、心が動かされるということであるかもしれません。しかし、見る人のなかの何かを動かす、作品と見る人の関係性こそが作品を作品にしているのではないか、とも思うのでした。これも根拠はないのですが。


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