『なぜリベラルは敗け続けるのか』メモ

なぜリベラルは敗け続けるのか

岡田 憲治 著


タイトルは前から気になっていた。そして、著者の話は隣町珈琲で聞いたことがあったので、興味はあったが未読だった。おおた社会福祉士会の会長に紹介されて読了。印象は軽いがテーマは深いと思う。

この本ではヴェーバーにはまったく触れられていないが、書かれていることの多くはヴェーバーが言う人を動かすのは利害であって、理念ではないという話でもある。どっちが得なのかで人は動く。基本的に利害が動機で行動するって話。同時にヴェーバーは【「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍機(ターンテーブルのルビ)として軌道を決定し、その軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきた】ともいう。しかし、ここには「世界像」の話はない。それが軽い印象を与えるのだろう。 

そして、理念と利害の弁証法的な関係もあるはず。利害を動機にして行う行動が理念を形成することもあるだろうし、人を動かすのは基本的には利害というものの、基本以外の部分で、時に利害を超えた理念によって、やむにやまれぬ行動を起こすこともあるだろう。

とりあえず日本の戦後史の大きなトレンドで考えても、リベラルは負け続けている印象はある。ぼくの知る限りでは、55年体制の成立以降、短い例外的な時期を除いて、保守・自民党が勝ち続けている。とはいうものの、世界的に人権概念が広がり、進化する中で、ヒューマニスティックな権利は日本社会でも、世界の流れに乗って、広がり深化している。

ここで岡田さんが言うところのリベラルとは何か、というのも一筋縄ではいかない話だ。ま、この本で書かれているのは、とりあえずリベラルと呼ばれる人たちくらいの理解でいいのだろう。  

冒頭を読み返すと、ここで岡田さんが例に挙げているのは、第二次安倍政権発足以降の話。安倍政権末期の時代の空気が色濃く反映しているのは間違いないだろう。そこで民主主義の破壊がどんどん進行しているのに、リベラルの側が安倍政権にダメージを与えるような目に見える有効な反撃ができてなかったのは事実だ。しかし、その安倍政権は自らの無茶苦茶さゆえに自壊したと見ることもできるが、それに抵抗する底流のような運動あり、それがボディーブローのように効いて、安倍や菅が政権を投げ出さざるを得なくなったという側面も見て取れ、そういう意味でも単純に「負け続け」という話ではないようにも思う。確かに表面的には負け続けていたのだけれども。

ここで岡田さんが繰り返すのは「オトナになれよ」という呼びかけだ。彼がそれを自戒を込めて語っている部分はとても共感できる。ここで書かれているように、理念を軸にした硬直した対応が負けを生み出している側面は否定できないように思う。原則を述べるだけでは事態が動かない例は多数、存在していた。そして、事態を動かすための工夫が足りない部分も少なくなかった。

 ここでは明示的には書かれてないような気もするが(読み飛ばしてるだけかも)、大切なのは違う意見の人の話をちゃんと聞くこと、耳を傾けること。それはオープンダイアローグのようなやりとりでもあるかもしれない。そこにデモクラシーのコアがあるようにも思う。そのような成熟したやりとりを出来る限り増やしたいし、増やす努力をしていきたい。その成熟したやりとりが出来る環境をどう形成できるのか、というのが大きな課題として浮かび上がる。

 長いスパンで考えると、それは教育の問題でもあり、そこに教育の大きな目標があると言えるかもしれない。長期的とはいえ、すぐに着手して欲しい課題だ。 そして、この時代状況に対して短期的には何ができるだろう。

 理念で人が動くなどという幻想を捨て、人は利害で動くという話を冷徹に見ていく必要がある。じゃあ、ばら撒き・利益誘導でいいのか、と言われたら、それも違う。表面的な利害ではない、その人にとってのほんとうの利害は、こうあって欲しいという理念と一致すことがあるのではないか? 人は理念によってではなく、利害で動くという話を政治において、どう考えるかというのも、大切な話だということを、この本から気づかせてもらった。その話が直接的に書かれているわけではないが。

 別の話だが、岡田さん、ほぼ同じ世代と思うのだけど、最悪の活動家にしか、出会えなかったのかと感じた。 しかし、俯瞰してみたとき、ここで描かれている最悪の活動家と自分をわかつ壁はそんなに高くないかも。もう少しましだったような気がしてるんだけど。



以下、ふせんに沿って
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政治において勝つということは、「どれだけ汚れなき道を歩むか」ではなく、政治における「己の仲間をどれだけ増やすことができるか」という一点にかかっている・・・。
34p

確かにそういう面はある。

そして、この両者のねじれが重要なのだと思う。後者に力点を置けよ、というのが岡田さんの主張だが、そこに「ねじれ」があることを忘れて、後者に力点を置いたのが利益誘導の政治と言えるかもしれない。そのマイナスもあるはず。そして、そこだけに力点を置く政治が横行したことを、どう克服するかという視点も大切だと思うが、この本では、「リベラル」が前者ばかりを大切にして、後者をおろそかにしてきたというのが主眼だ。大切なのは、そのパランスをどこでとるのか、という話ではないかと思う。

 そして、人それぞれ、そのバランスの支点は異なる。理念にこだわりすぎると、いつまでも勝てない、という話はあると思うが、こだわらなさすぎると、どこまでも堕落するという危険もあると思う。

98頁から書かれている、アカデミズムは何が正しいかを延々と議論できるが、政治はどこかで「エイヤっ」と決めなければならない、という話は面白かった。確かにそうだ。

そして、政治における議論の目的としての、「お互いの分岐点を確認し」「反対派の人たちに『この議論は意味があった』という気持ちを残して上げること」(103P)という話。それは議論のプロセスの中で、歩み寄れる場所を探すという話でもあると思う。そのプロセスを大切にするという部分が民主主義の要ではないか、と思う。

オープンダイアローグでの、結論を出すことでなく、対話の継続が目的だという話と似ている部分と異なる部分があり、興味深い。政治における対話では、どこかで結論を出したり、出した結論について話をし、場合によっては訂正することが必要となる。しかし、同時に対話すること、そのものの重要性もあるのだと思う。

132頁からは1990年のPKO法案をめぐる予備校での集会のやりとりが紹介される。昔の闘争の話ばかりをする講師に反発した予備校生からの質問があり、その質問した予備校生に「勉強が足りないんだ」「先行する戦後の闘争が」とか「もっと勉強してから来なさい」と言ったらしい。その最悪の発言をしたとされる左翼の評論家のことも個人的に知っているので書きにくい部分もあるが、ここは著者の、あんな形で疑問を持った若者に対応すべきではない、という意見のとおりだと思う。ビギナーズ『全学連』の著者と言えば、あの人だよなぁ?

しかし、最後の「土井たか子委員長から電話がありました」と興奮して報告したという下りが、にわかに信じがたい。彼がそんな風に言ったのかどうか聞いてみたいところ。いまの彼からは想像しにくい。



190頁以降では「政治家のステージと、市民運動のステージ」という話。

それぞれが異なり、異なった振る舞いが求められるという話が書かれている。当たり前と言えば、当たり前の話ではある。これに続く【第9章 なぜ私たちは「協力」しあえないのか】も含めての話だが、ぼくは政治家の側の説明責任について、もっと書かれるべきなのではないかと思った。 市民運動がそれについて理解すべき点はあると思うが、参加型の政治をめざすならば、政治家が市民が参加できる形態を積極的に準備することが求められているのだと思う。


【第10章 現実に立ち向かうための「リアリズム」】

一般的に「オトナになれよ」って言われるときは、清濁併せのんだ『オトナ』になって面倒臭いことをやり過ごせる要領のいい人間になれ」という意味で使われることが多いが、岡田さんも「大人になれ」と言いつつ、自分が言いたいことはそういうことでなはい、と書く。

「既成事実屈服主義」と「現実主義」は違うという主張だ。ここで岡田さんが主張する現実を変えるための現実主義という問題提起は大切だと思う。これはコミュニティ・オーガナイジングにもつながるものがあるかもしれない。

219頁にある岡田さんの信念に関する考えた方も大切だと思う。

・・私が考える信念とは、謙虚な自己懐疑と丁寧な自己確認の繰り返しによって維持され、成長を促されるものです。ざっくり言ってしまえば「 ほんとうにそれでいいのかなぁ」と「やっぱりそうだよな」の間で振り子のように揺れるものが、信念や思想というものです 。
 これは、「思想に筋肉がつけられる道筋」と言い換えてもいいでしょう。

221頁の後半は鶴見俊輔の文章の引用だと思うのだが、この組版だと、どこからどこまでが引用で出典は何かというのがとてもわかりにくい。最後に参考文献があり、そこに鶴見俊輔の本が1冊だけ(『新しい風土記へ 鶴見俊輔座談』)があがっているのだけど、これに続く部分にそのことは記載されている。ともあれ、こんな文

 自分はこの戦争が正しいと思った。

 しかし、 おびただしい数の人間の生活と人生を奪い、政治的にも道義的にも敗北したことが明らかになった。マッカーサーがやってきて、新しい民主主義が導入されるだろうが、「それと自分の関係」をどうやって結びつけていくべきかは、もう一度新しい価値や制度とすり合わせをしながら積み上げるしかない。それはかならずしも自分の思いと整合しないものを突きつけられる作業だが、己の思想へのギリギリの誠実さは、最低でもこうする以外には担保されようがない。221p

そして著者の岡田さんは【そういう視線を下げた深呼吸が「思い」を血肉化させることにつながると思うのです】と書く。


222頁から

思想には「学びほぐし」の連続が必要だ

という節がおかれている。

著者の岡田さんは【そういう視線を下げた深呼吸が「思い」を血肉化させること】、その作業を「学びほぐす(unlearn)」ことだと書く。

アンラーンという言葉を岡田さんは鶴見俊輔がヘレンケラーから受け取った言葉だと書く。(『新しい風土記へ 鶴見俊輔座談』から、とのこと)

「学びほぐす」とは、一度は身につけた信念を現実との葛藤の中で解きほぐして、もう一度また新しい認識へと昇華させることです。繰り返し、「本当にそれでいいのだろうか?」と己に問い、「 かりに現実がもっと厳しく矛盾していても、自分はその考えを手放さないだろうか?」と問い続けることで、人は思想をより強靭なものにしていけるというのがヘレン・ケラーの言いたかったことです。222-223p

アンラーンと言えば、楠原彰さんの『学ぶ、向きあう、生きる 大学での「学びほぐし(アンラーン)」──精神の地動説のほうへhttps://tu-ta.at.webry.info/201307/article_1.html を思い出す。

で、この読書メモを読み返したら、楠原さんがアンラーンについて書いた部分をメモッておらず、自分で調べたことだけ追記で触れている。以下の通り。
~~~

2021年2月追記

たこの木通信の『ほんの紹介』

に掲載するにあたって

https://tu-ta.at.webry.info/202105/article_4.html

アンラーンを調べた

(書き始めたものの2月にはコンプリート出来ず)

この本のサブタイトルは

「学びほぐし(アンラーン)」


英語の意味は英辞郎によると

~~~

unlearn

他動

1、〔学んだことを意識的に〕忘れる

2、〔知識・先入観・習慣などを〕捨て去る

自動

知識を捨て去る

~~~

世の中で身に着けた窮屈な「こうしなければならない」といような価値観を捨てて、考えてみようってことかと思う。

何を生かして、何を捨てるのか難しいけど。

もしかしたら、積極的にlearnに対抗するというような意味もあるのかと思う。

楠原さんがアンラーンについて、どんな風に説明していたか、読書メモに書いてないので、もう一度、楠原さんの本にあたってみたくなっている。

岡田さんは、上記のヘレンケラーに学んだという部分に続けて、【「学びほぐし」とは、必然的に止まることのない、ダイナミックな行いであり、その行いを続けている限りは、自分はそうそう世界によって変えられないということの保証にもなる】と既成事実に屈服したり、無節操に転向したりといいう、この少し前に書かれている話に対比させる。

1945年の敗戦を境に軍国主義者からの急な変身とか、全共闘世代の転向が、そこでは想起されているようだ。


学んだことを疑い、「ほんとにそれでいいのか」と問い、ほぐして、自分のものにしていく作業の大切さを「アンラーン」という言葉を通して書かれていて、それは間違いなく大事なことだと思う。

与えられたルールや、行政が決めたことを、あるいは職場で上司が決めた決定を、不服に感じながらも、決められたことだからと、受け入れてしまうというような態度が、日本社会には多すぎるんじゃないかと、ほんとうに思う。 もちろん、ぼくがそこから自由だと言うつもりはないが、それにしても、易々と受け入れちゃうのは、やっぱり違うと言いたい。


225pから始まる「信念が支え、でもそれに引きずられない政治」という節では、そのような個々の「気持ち」を大切にすることこそが、政治に関わるモチベーションであるべきだといいつつ「しかし」とつなげる。そこがこの本の焦眉なのだろう。以下のように書かれている。

 しかし、大事にしたい「気持ち」を実現し、それを他者と享受するためには、自分の気持ちそのままにいるのでは他者と力を合わせることにはなりません。冷静に状況を把握し、政治の非情さと無慈悲さを、人間の条件として受け止めながら、苦悩と発見の往復運動に支えられた信念に基づくリアリズムを抱え持つことが必要です。226p

それに続けて、「信念を維持しながら、既成事実に屈せず、信念に殉じる」という現実と闘うことを放棄した「敗北主義」も否定される。それは、「自爆上等の明日につながらないナルシズムだ」という。

これらのこと、言うのは簡単だが、選ぶのはそれなりに困難だろうと思われることが求められているようにも思う。


そのうえで、セカンドベストを選ばざるを得ない苦渋の選択をする中で自分が鍛えられる、と岡田さんは書く。書くのは簡単だが、セカンドベストを選ぶ中で、大切なものを見失う例も少なくないのではないかと思う。そのあたりの葛藤をどう維持するか、そして、信念を曲げずにいられるか、という部分が非常に困難で微妙な部分だと思う。

岡田さんが書いていることはおおむね賛同できるのだが、彼が言うところのほんとうの「現実主義」と「既成事実屈服主義」を分かつ壁はとても薄く、容易に後者に引きずられがちな現実を、どう考えるかという課題が大きいのだと思う。


次の「思想を行動へと翻訳するということ」(227p~)という節で岡田さんは、それがどんなに出来の悪い仕組みでも、「延長を含めて120分戦った後のPK戦での薄氷の勝利」くらいのギリギリ感で、デモクラシーを思想として信奉している、と書く。手間暇がかかる、しょうがない仕組みだが、これを選ぶしかないという部分でそうだと思うし、それをうまく表現していると思った。

さらに、人は政治的判断をかならず間違え、失敗するのだから、

それを振り返り、未来に活かすために、ものを言う空間を自由に風通しよくしておき、あまり見たくない失敗の事実もきちんと記録し、どのような決定であっても「それは自分がもたらした決定だ」ということをハートに刻みつけて、その教訓を現在と未来の人間が共有できるようにしておくことが絶対に必要です。(227-228P)

と書かれていて、これもそうだと思う。

この確信が「学びほぐし」のなかから生まれたと、続けて書かれている。今はおそらく揺らがないと岡田さんが確信して書いているのだと思うし、ぼくも、ほぼその通りだと思うのだけど、それにしても、ほんとうにそれでいいのかと問い続けることもまた、必要なのだろう。

236pには官僚が能力を発揮する人たちだと書かれているのだけど、安倍政権のものとで、能力のある意見する人たちは追いやられて、就職先としての人気もなくなり、そんな風に言えない状況になりつつあるんじゃないかと思う。


ともあれ、【岡田さんが言うところのほんとうの「現実主義」と「既成事実屈服主義」を分かつ壁はとても薄く、容易に後者に引きずられがちな現実】と書いたが、この区別はやはり、とても大切なのだということは理解できる。しかし、書いたように、現実主義を言う者たちが既成事実に引きずられがちなのも事実だ。いろいろ考えさせられる記述は多く、考えさせられもしたのだけど、その一線を超えるか超えないか、どう見極めるか、ぼくには肝心だと思えるその部分の記述が弱いなぁと感じたのだった。

メモ、ここまで

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