「居るのはつらいよ」メモ(追記:6月7日)

「居場所の次」というワークショップで同じグループになって、偶然出会った東畑さんの本。ジャン・バニエが亡くなったころ読んだのだった。
ちょっと調べたら、とても話題になっていた。
そして、読んだ。すごく面白くて深い。

医学書院のHP
https://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=106574
から

居るのはつらいよ
ケアとセラピーについての覚書

「ただ居るだけ」vs.「それでいいのか」
京大出の心理学ハカセは悪戦苦闘の職探しの末、ようやく沖縄の精神科デイケア施設に職を得た。「セラピーをするんだ!」と勇躍飛び込んだそこは、あらゆる価値が反転するふしぎの国だった――。ケアとセラピーの価値について究極まで考え抜かれた本書は、同時に、人生の一時期を共に生きたメンバーさんやスタッフたちとの熱き友情物語でもあります。一言でいえば、涙あり笑いあり出血(!)ありの、大感動スペクタクル学術書!


このHPでの紹介の扱いを見ると、この本がすでに社会現象と呼べるくらいまで、ある世界では注目されているのがわかる。

また、序文も掲載されている。
~~~
プロローグ それでいいのか?

「おはようございます」
「ん。」
「今日も暑いですね」
「ん。」
「タバコ、おいしいですか?」
「ん。」
「今日はこれで何本目ですか?」
「ん。」

ヌシは多くを語らない。それどころか、極限まで縮小された最小の言葉しか語らない。
口を閉じたままでも発音できる「ん。」。それだけをかすかに漏らす。
それがヌシのほぼ唯一の言葉だ。

そこは喫煙室だった。
便所と隣接しているせいでジメジメと湿気ていて、外の光が差し込まないので薄暗い。
便臭と消臭剤、そして濃厚なタバコの匂いが入り混じっていて息苦しい。
ヌシは朝から晩までそこで座っていて、「うるま」と呼ばれる沖縄ローカルの旧三級品タバコを吸い続ける。
一日に三箱は安タバコを空けてしまう。
だから、喫煙室の主(ヌシ)。

「それでいいのか?」

声がする。いつもの声だ。
僕もタバコに火をつける。「ケント1」という銘柄だ。
タールが一ミリグラムしか入っていないからスカスカした味がする。
ヌシがうるまを吸って、僕がケント1を吸う。
何もすることがないし、何をしていいかわからないし、どこにも行けないから、時間をつぶすためだけにタバコを吸う。
肺が重い。

「それでいいのか? それが仕事なのか?」

膨大な副流煙によっていぶされてしまったからなのか、ヌシの顔は燻製化されている。
皮膚が硬くなり、表情はこわばる。瞳は膜がかかったようで、暗い。統合失調症独特の目だ。
その目が空気清浄機をにらんでいる。いや、空虚に視線を吸い取られている。
街で会ったら怖いだろうな、と僕は思う。

でも本当のところ、ヌシは優しい。
ヌシはタバコを最後まで吸い切らない。ちょっと残して火を消す。
そして、吸い殻を、脇に控えているヤスオさんに渡す。
ヌシは生活保護費でタバコを買えるけど、ヤスオさんは家族がお金を管理しているから、自分でタバコを買うことができない。
だから、ヌシはあえて吸える部分を残して、火を消す。
「ありがとうございます」
ヤスオさんは小さく礼を言う。そして、吸い殻に火をつけて、煙を吸い込む。
「ん。」
ヌシも新しいタバコに火をつける。

「それでいいのか? それは価値を生んでいるのか?」

「いや、優しいじゃないか」と僕は言おうとして、本当にそれでいいのかわからなくなる。
ヌシはタバコを吸い続ける。風呂に入らず、洗濯もせず、ときどき失禁をするヌシからは強烈な匂いがする。
僕はそんなヌシをじっと見つめている。
うるまの煙で薫習(くんじゅう)された僕のポロシャツからも嫌な匂いがする。
することがないから時間が進まない。肺だけではなく、時間まで重たくなる。
不毛な時間が僕らを浸す。
だから、流れを変えるために、提案する。

「タバコ、交換してみません?」
ヌシはふしぎそうに曇った瞳をこちらに向ける。少し考えてから、うなずく。
「ん。」

ヌシはうるまを一本取り出して、僕にくれる。
ヌシとこうして過ごしていることで得た給料で買ったケント1を、僕は一本手渡す。
うるまに火をつけて、煙を吸い込んでみる。
廃屋を燃やしたような辛みと、鉄のように重たいタールが、肺に流れ込んでくる。むせる。
「ゴホッ」
咳が止まらない。
「ん。」

ヌシはケント1をにらみ、火をつける。煙を吸い込む。
そして一瞬ぽかんとする。スカスカの味に失望したようだった。
つまらなそうに、雑に煙を吹かして、さっさと火を消す。そして、ヤスオさんに渡す。
「ありがとうございます」
ヤスオさんはポケットに吸い殻をしまう。ポケットはパンパンになっている。
死神のような煙がつらかったので、僕もさっさとうるまの火を消してしまいたかったのだけど、我慢して吸い続ける。

ヌシはふたたび、うるまに火をつけて、チェーンスモーキングに入る。
僕らはただただタバコを吸って時間を過ごす。
喫煙室に静寂が訪れる。

「ん。」
最小の言葉と最小のライフだけがそこに残る。

「それでいいのか? それ、なんか、意味あるのか?」

答えることができない問いを前に、僕は答えることを諦める。
「わからない、居るのはつらいよ」
だけど、声は問いかけることを止めない。

「それでいいのか? それ、なんか、意味あるのか?」

そう、この本は「居る」を脅かす声と、「居る」を守ろうとする声をめぐる物語だ。

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そして、目次
プロローグ それでいいのか?

第1章 ケアとセラピー ウサギ穴に落っこちる

第2章 「いる」と「する」 とりあえず座っといてくれ

第3章 心と体 「こらだ」に触る

第4章 専門家と素人 博士の異常な送迎

幕間口上 時間についての覚書

第5章 円と線 暇と退屈未満のデイケア

第6章 シロクマとクジラ 恋に弱い男

第7章 治療者と患者 金曜日は内輪ネタで笑う

第8章 人と構造 二人の辞め方

幕間口上、ふたたび ケアとセラピーについての覚書

最終章 アジールとアサイラム 居るのはつらいよ

文献一覧

あとがき



ぼくが読後直後に、読書メーターに最初に書いた感想とコメントは以下
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読んだ。面白かった。いろいろ書きたいことがある。ぼくの場合は自分から去るのではなく、外からの力でケアとセラピーの混ざった場所を去ることになったその時期に読んだので感慨もひとしおだが、この中身が本当に興味深かった。これからメモを書く。来月のたこの木の原稿もこれになるだろう。(追記:でも、ならないかも)
~~~~
ケアとセラピーをここに書かれているように整理すると、見通しがよくなり、自分の職場でのいくつかの問題にも気づくことが出来た。理念型としてのケアとセラピーを両極に置いて、その間のグラデーションで見ていくこと。ケアとセラピーを混同するが故の誤り。しかし、わかりやすいがゆえに、同時に、ほんとうにこの整理でいいのか、と問うことも必要だろう。それがこれからの作業になる。
~~~~
なにより、この本が魅力的なのは面白くて読書が楽しかったことだ。
~~~~

東畑さんはケアとセラピーの違いを提示することで、問題の輪郭をはっきりさせていく。 その力量はすごい。その明快さと話の面白さで、どんどん引き込まれていく。物語として読むのであれば、エンターテイメントとしても面白く、それでいいと思う。しかし、現場で使う理論としては、立ち止まってほんとにその整理でいいのか、自分の現場にあてはまるのかと考えることも必要だろう。そして、そのうえで使えそうだという感触が残るのだった。東畑さんも書いているように、両極の間のグラデーションで考えていくことが重要なのだろう。



以下、付箋にそったメモ

 だけどじつは、セラピーって心理士の仕事全体からすると、それほど大きな部分ではない。いや、それどころか、かなり小さい。これはカウンセラーを目指す若い人が一番驚くところなのだけど、心理士の仕事ぶ多くはセラピーではなく、ケアだ。
 ケア。それは日常とか生活に密着した援助のあり方だ。セラピーが非日常的な時空間をしつらえて、心の深層に取り組むものだとするならば、ケアは日常のなかでさまざまな困りごとに対処していく。深層を掘り下げるというよりは、表層を整えるといってもいいかもしれない。21p

「心の深い部分に触れることが、いつでも良きことだとは限らない。・・・何回かセラピーもどきをするなかで、ジュンコさんは・・・デイケアいられなくなった。49p

ジュンコさんが求めていたのは、セラピーなんかじゃなくて、ケアだった。心を掘り下げることではなく、心のまわりをしっかり固めて安定させて欲しかったのだ。50p


就労支援の現場で考えてみる。
居場所として、人と交わることができるようにすることはケア。
そして、そのまま就労に向かう準備をするのだが、これがセラピーかといわれるとあやしい。人と交わることができるようになり、職場での作業が安定して来れば、そこで就労へのチャレンジは可能になってくるからだ。


55pでは【心理臨床と「居場所」】が引用され、
https://www.sogensha.co.jp/productlist/detail?id=3739
居場所は古い日本語では「いどころ」であり、その「いど」というのはお尻の「おいど」で、その置き場所という意味もあったとか。

「こらだ」
中野久夫は心と体を分けておくのは、それが便利だからという理由にしかすぎない、と言っていた(81p)
とのこと。
そして、著者は「じつはそういう便利な状態でいられるのって、余裕のあるときだけだ」と書き、再び中野久夫を引用する。
〈こころ〉と〈からだ〉ということばを両方ともやめて、なんでもよいが「こ・ら・だ・」で両方あらわすとおかしなことになる。『看護のための精神医学 第二反』12-13p (この本では82p)

つまり、調子が悪くなって「おかしな」状態になるときというのは、心と体の境界線が焼け落ちた時で、こ・ら・だ・が現れると、自分がコントロールできなくなり、それが暴走し、それに振り回されることになる、というのだ。83p

誰でも多かれ少なかれ、こんな経験をしているのではないか。例えば恋愛感情が募って、前後が見えなくなるような状態とか・・・。こころがいつも体をコントロールしてくれていたら、こんなには失敗しなかっただろうなと思う(笑)。でも、だから人間は面白くてやめられないんだけど。

「専門家の仕事と素人仕事」という区分け
こんな風に書いてある。
 専門家の仕事は一定水準以上のことができないならば、しないほうがいい 。外科手術もセラピーも、未熟なものがやっていいことはない。うまくできなければ、相手に致命的な損害を与えてしまうからだ。そこにはリスクが存在している。だから、専門家にはトレーニングと経験によって、一定水準の質が求められる。
 だけど、素人仕事は違う。ヘタクソでも皿洗いはできる。 そして、誰も皿洗いをしないと、キッチンは汚れ切って、使用不可能になってしまう。・・102p


ここでは外科手術やセラピーが専門家の仕事であり、素人がやっていいことはない、とされる。それに対して皿洗いや運転業務は素人仕事でヘタクソでもできるとされている。この区分けには少しカチンときた。、あ。確かに素人に外科手術はやってほしくないけど・・・。

しかし、よく考えたら、セラピーってなんだろう。
小沢牧子さんは「心の専門家はいらない」って喝破したけど、どうなんだろう。いま、ぼくは「心の専門家」という感じの人のアドバイスの影響でいろいろ従来の直接支援の仕事から切り離されているのだけど、それはその人の技術が一定水準以上ではないからか、それとも、『心の専門家』という存在自体が抱える問題なのか、あるいは、その人自身の個性の問題なのか、不明。

「人は本当に依存しているとき、自分が依存していることに気がつかない」(114p)

依存労働は、脆弱な状態にある他者を世話(ケア)する仕事である。依存労働は、親密な者同士の絆を維持し、あるいはそれ自体が親密さや信頼、すなわちつながりをつくりだす。
(キティ『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』85p この本では116p)

 いろんな専門性を持ったスタッフがみんなで素人仕事をやるのだ。それはまるでセラピーとケアの水溶液のようだ。・・・・・
 ・・・心の深い部分介入できる専門家になりたいと思っていた。だけど、デイケアで働くと同時に外来でセラピーの仕事をするなかで、僕は「あえて」心の深い部分を扱わないセラピーをすることを 始めていた。精神病やパーソナリティー障害のような、 重篤なクライアントに対して、深いところを掘り下げるのではなく、日常を支えることに価値を感じるようになっていた。僕は部屋の入り混じったセラピーをするようになっていたのだ。119p


122pから始まる幕間口上「時間についての覚書」では線的な時間と円環的な時間についての記述。セラピーは線的な時間であり、ケアは円環的な時間だと言う。

最後に中井久夫の時間論に関するブログを引用したが、このコラムとそれは違いが若干ある。中井久夫は線的な時間ではなく、直線的時間と 記述しているようだ。このコラムで東畑さんはセラピーの線的時間を直線ではなく右から左にコイル状に流れていく時間として図示している。円環的な時間の図も興味深いのだが、文章では説明しにくい。

136pでは、デイケアは本質的に、宿命的に退屈であり、逆に言えば退屈はデイケアがデイケアであるために不可欠なことだ、とまで書かれている。主に精神科クリニックのデイケアのことを書いていると思うのだが、このあたりは経験が浅く、わかりにくい部分だ。忙しく仕事をさせるデイケアがあっても面白いかもしれないと思うのだがどうなのだろう。

141pでは「統合失調症の人なら「退屈」だいぶ治ってきたといえる」という 中井久夫を援用している。それは自我境界が閉じたことを示す達成だと書かれている。自我境界に欠損があり、常に何かの情報が自分の中に侵襲してくる状態がメンタルの病であるということなのか。もしかしたら、ちょっと近いものがあるかもしれないが、インターネットとか本とか映画とか、そういう刺激がないと退屈なのは事実なので、ぼくの自我境界も閉じていると言えるのか。しかし、瞑想の世界では何もないこと(退屈)に耐えられことが求められるんじゃなかったっけ?

152pではウィニコットという人の『遊ぶことと現実』という本から引用(53p)されている。簡単にまとめてしまえば、遊べないという状態の患者が治療者と一緒に遊べるようになればいいということだ。これなら、なんかできそうな気がしたりする(笑)。

 看護師たちにとっては、事件とは日常秩序の破壊で、できるだけ表示ないのが望ましいものだ。だから、平和を守るために、火消しに励む。
 だけど、心理士はちょっと違う。「カウンセラー」という言葉には、優しいイメージがあるかもしれないけれども、僕らは安定や平和だけを大事にしているわけではない。 それが貴重なものであることに異論はないけれども、ときどき平和が失われて、つらい思いをすることや葛藤することもまた、心にとっては重要であると考えている。
 ここにはセラピーの発想がある。ケアの基本は痛みを取り除いたり、やわらげたりすることだと思うのだけど、セラピーでは傷つきや困難に向き合うことが価値を持つ。しっかり悩み、しっかり落ち込む。そういう一見ネガティブに見える体験が、人の心の成長や成熟につながるからだ。野球がうまくなるために、苦しい練習が必要なのと似ている。
 だから、誤解を恐れずに言うならば、僕は事件が嫌いではない。というか、事件が起きたら、今まさに重要なことが起きている、と言う。おれも本気出さなくっちゃと、気合が入る。176p


191pでは河合隼雄が「先生のおかげで、私もずいぶん変わりました。変わるも変わるも360度変わりました」とクライアントからお礼を言われた話が紹介されているが、斉藤学は『ヘンでいい』でこんな風に書いている。『要するに、こんなヤブとも言えないドテ医者に自分のことをゆだねてもしょうがないと思うところから力が出てくるんだね』(124p)
で、河合隼雄が書いてるのも、もしかしたら、皮肉で「360度変わったら、もとに戻っちゃうという話じゃないか」と思ったのだけど、この文脈からは皮肉には読めない。

 ・・・この章では「援助者療法原理」とか「傷ついた治療者」とかそういう理論を参照して、「ケアすること」と「ケアされること」、ケアする人とされる人、ケアする部分とされる部分 をいったん分離したうえで、それがいかに分かちがたく絡み合っているかを考えてきた。だけど、僕らがデイケアウォッチングで観察してきたのは、 じつはそれ以前のことだったのではないか 。つまり、個々人の「する/される」以前に、 デイケアというコミュニティに必要性が生じて、それに対応するために自然とケアが生じていたのではないか。主体はコミュニティだったのではないか。221p
この 「主体はコミュニティだったのではないか」という部分がすごく興味深かった。これこそが向谷地さんが「場の力」と呼んだものではないか、そんな気がしてきた。

そして、東畑さんはこの話を「する/される」を超えた中動態の話につなげる。

幕間口上
「ケアとセラピーについての覚書」 266p~
 この本の本当の主役はケアとセラピーであり、物語やエッセイではなく、臨床心理学のガクジュツ書のつもりで書いていると著者は書く。臨床心理学のことはよくわからないが、これは面白い新しい知見なのではないかと思える部分は多い。

ここで「ケアとは何か」という問いが建てられ、「ケアとは傷つかないことである」とされる。
ニーズを満たすことが傷つけないことだと書かれたあと、以下の上野千鶴子のケアの定義が引用される。
依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係。(『ケアの社会学』42p この本では272p)
「規範的・経済的・社会的枠組み」がなくても、それ以外の条件が整えば、ケアはケアだろうと思うのだけど違うのかな?

276pには「ケアで変化するのは環境でしたが、セラピーでは個人が変化していくことが目指されされます」とある。ケアが社会モデルでセラピーが個人モデルなのか?
心理セラピーにはそんな側面があるかもしれないが、作業療法(セラピー)では、個々の作業能力を見たうえで、環境側の変化も含みこむということが求められる時代になっているのだと思うが、どうだろう。こんな風に極端な言い方は、確かにわかりやすいが、誤解も生む。

ここでふと思ったのだが、東畑さんはセラピーと書きながら、心理セラピーのことしか語っていないのだろう。理学療法や作業療法、言語療法は、英語ではすべてセラピーだが、東畑さんの視野には、それらセラピーは入っていないようだ。

また、精神や心理を対象としたセラピーでも、目指されるのは個人の変化だけではないのではないか? 環境の変化が必要なメンタルの不調は多いはず。そういう場合、ケアとセラピーの両方が必要ということになるのか。よくわからん。

こんな説明もある
 ケアは傷つけない。ニーズを満たし、支え、依存を引き受ける。 そうすることで、安全を確保し、 生存を可能にする。平衡を取り戻し、日常を支える。

 セラピーは傷つきに向き合う。ニーズの変更のために、 介入し、自立を目指す。すると、人は非日常の中で葛藤し、そして成長する。276p


277pには二分法が罪作りで、こぼれ落ちるものもあるとしながら、以下のような表がつくられている。

 ケア       セラピー  
傷つけない    傷に向き合う
ニーズを満たす  ニーズの変化
やってあげる    やらせる
 支える       介入する
  開放        閉鎖
  水平        垂直
  構造        人
 蓋をする      蓋を取る
  依存        自立
もっとあるけど、疲れた

そして、人と人が関わるとき、誰かを援助しようとするとき、それはつねに両方あり、デイケアにもカウンセリングにも両方あるという。つまり、人間関係の二つの成分であり、どちらを選ぶか、その都度、判断するものだという。臨床の極意とは「ケースバイケース」278pから

「ブラックデイケア」について二つの例が示されている。
ひとつは小林エリコさんの『この地獄を生きるのだ』(78-79p)から引用される
~~
 
長く通うあいだに、 高価なデポ剤をたくさん使うように勧めたり、デイケアをたくさん利用したくなるように食事を豪華にしたりしているのを見て、このクリニックの金回りの良さの謎がわかった気がした。このクリニックは経営がうまいのだろうが、経営のうまさがすなわち患者の満足度の高さにつながるというわけでもない。300p


もう一つ引用されているのがEクリニックについての記述。これは大田区での例ではないか。古屋龍太さんという人の文章。少し長いがそのまま孫引き。
役所の生活保護窓口にEクリニックの精神科ソーシャルワーカーが嘱託相談員として配置される。ホームレスなどの相談者が現れると、生活保護ケースワーカーがクリニック受診を指示し、生活保護受給と引き換えに通院が開始される。クリニック近隣にあるベニヤ板で仕切られただけの1~2畳程度のシェアハウスと呼ばれる場所に患者を住まわせ、そこから朝晩の送迎付きで毎日デイナイトケアに通わせる。デイナイトケアでは毎日卓球や室内ゲートボール、院内ウォーキング、テーブルゲームや映画鑑賞等の活動が漫然と組まれているが、活動時間は短く休憩時間が多い。患者が「基準外スタッフ」として介護を要する患者の世話や清掃を行っている。
 時給100円換算が労基法違反で訴えられてからは、患者の社会参加訓練活動として無給ボランティアになっている。本人の生活扶助費は、福祉事務所から直接クリニックに現金書留で送金され、クリニックの職員が日々の金銭管理と生活管理等を細かく行っていく。報道による発覚直後は、本人名義の通帳を作らせて、キャッシュカードと通帳を管理する方式に変更されたが、1日500円支給等の金銭管理は変わっていない。このため患者は、デイナイトケアに行かないと食事も取れず、薬も飲めず、お金ももらえない。デイナイトケアに通うことで、初めて生きていける構造となっている。日中はデイナイトケアからの自由な外出も出来ず、フロアによっては鍵のかかる「閉鎖型デイケア」もある。スタッフは長く仕事を続けるなら鈍感にならざるを得ず、これまでに多くのスタッフが抑うつ的になり離職し、毎年大量の若い精神科ソーシャルワーカーなを採用していた、等々。「精神科デイケアはどこに向かうのか」(『精神医療』第89号、4-5p)301-302p
 これを受けて東畑さんは、「Eクリニックが特段奇異なことをしていたようには思えない」 としながら、しかし、この「記述を眺めると、その「いる」が置かれている本体の文脈のグロテスクさに衝撃を受ける。 そこでは「いる」が経済的収益の観点から管理されているからだ」と書く。「いる」を支えるのではなく「いる」を強制するものとして機能し、「いる」が「閉じ込め」に変わっている。そして再び古屋さんの文章が引用される。
人権侵害と告発された精神科病院と生き写しの処遇が、街中のクリニックで行われていた。(同誌5p)303p

ここで非難されるEクリニック、関係者は誰でも想像がつくだろうが、僕はここにも真面目で前向きな人たちがいることも知っている。そして、送迎があることで助かっているクライアントもいないわけではないだろう。また、Eクリニックが主催している無料の講演会にも参加させてもらったこともあり、それは勉強になった。だから、この非難はかなり一面的だと思うものの、同時にこのように批判されてもしょうがない側面もあるのかもしれない、とも思う。 同時に、ここに書かれているように、精神科クリニックにおけるデイケアが「人権侵害と告発された精神科病院」と変わらないというのはEクリニックに限ったことではないのではないなず。そして、注意しなければならないのは、就労継続 B 型や就労移行もまた、それらとそんなに変わらない存在になってしまう危険があるということ、あるいはすでにそうなってしまっている部分もあるかもしれない。

給付や加算のことをまったく気にしないで事業所を運営できればいいが、そうはいかない。それを気にしていなければ事業がなりたたなくなる危険だってあるからだ。しかし、そこだけを見て、自分たちのところを頼ってきている人たちが、こうありたいと思っていることにどう近づけるかということを忘れては元も子もない。そういう意味で「経済的収益の観点」を一面的に批判はできないが、しかし、そこだけを見るのがダメなのはいうまでもない。

そして、Eクリニックを生活保護とセットにした管理を多くの善意の生保ワーカーは歓迎したのではなかっただろうか。そこには目に見える改善や安定があったのではないかと思う。そこに人権侵害ととられかねない話があったことに、どれだけの生保ワーカーば気づいていだろう。もし、自分がその場で仕事をしてたら、ぼくはそのことに自覚的でいることが出来たのかどうか、自信はない。

さらにデイケアでの「いる」の二重性に関して、東畑さんはこんな風に書く。
一方で「いる」はケアとして支えられるものであるけれど、もう一方では「いる」は経済的収益源でもある。それはデイケアに限らず、さまざまなケアする施設で生じている二重性だと思う。
 この二重性の後者が強調されるときに、 デイケアはアサイラムになる。アジールは容易にアサイラムへと頽落する。「いる」を支え、庇護する空間は、「いる」を強制し、監視する空間へと変貌する。すると「いる」のがつらい場所になる。・・・305p

支配や管理が大手を振るい始めると、そこは「いる」のがつらい場所になるのだろう。ぼくのところにもそんな危険はあると思う。

大田福祉工場がめざしたのは単なる居場所ではなく、就労につながる場所。
しかし、そのために、居場所、アジールであることがまず必要とされていた。
そこに安心できる場所があり、仲間がいること。
誰もが排除されない場所であること。

就労するために、そんなスタート地点を作ることがとても大事だと、運営する中で気づいていった。

そのことの大切さは何度でも強調されていいのだと思う。

パワーゲームが発生し、誰かを排除して成り立つ場所は危なっかしいと思う。

316p~東畑さんは「いる」ことの価値をむげに否定する人はいない、「いる」はとても大事だ、としたあとで、こんな風に書く。
~~~
 だけど、「ただ、いる、だけ」には確実に居心地の悪さがある。すぐには飲み込めない何かがそこにはある。「それだけでいいのか?」という声がそこにはつきまとう。その声が僕らを戸惑わせる。
 誰だ? 「ただ、いる、だけ」の価値を問いただそうとするこの声の主は誰なのか?

 会計だ。 この声は会計の原理から発せられている。317p


 だけど、「ただ、いる、だけ」に毎日一人当たり1万円近い社会保障財源が導入されており、それを支えることで自分に給料が支払われているという事実に向き合ったときに、僕らは居心地が悪くなる。会計の声は僕らを居心地悪くさせる。 318p


そして現に居場所型デイケアの診療報酬が削減され始めている、とのこと。
Eクリニックのことを紹介していた古屋龍太さんの同じ記事によると、「今後デイケアには、より明確な治療・リハビリテーション機能とエビデンスが求められてくる。ネガティブな抱え込みイメージを払拭し、障害福祉サービスとは異なるリハビリテーション機能と治療実績を示さなければ、デイケアももはや生き残れない」319p と書かれている。

そして、こんな風に書かれる。
 何が言いたいかというと、超シンプルなことだ。
 セラピーにはお金がつきやすく、ケアにはお金がつきにくい。これだ。
 会計の声が持ち込む市場のロジックは、セラピーに好意的でケアの分は圧倒的に悪い。  320p


さらにこんな風にも
 
このとき起きているのは倒錯的な事態だ。お店に並ぶはずもないのに、値段をつけようとする行為だからだ。
 このことをブルジュールという哲学者は、次のように表現している。
 「ケア」についてのイデオロギーのコンテキストを検討すれば、「ケア」の実践は、その倫理的特性が考慮されず、経済的収益性、管理経営の基準に従属させられていることがわかる。「ケア」のネオリベラリズムによる管理においては、「ケア」が体の問題、親密性の領域の問題であることが無視されてしまう。(ブルジュール『ケアの倫理』80p)この本では321p)


そして、その会計の声を、自らが内在化させてしまっているという指摘がある。

325pではこんな風に書かれている。
 ニヒリズム、こいつが真犯人だ。
「いる」の本質的な価値が失われているのに、ただ「お金ないから」という倒錯した理由で、「いる」が求められる。そのとき「いる」は金銭を得るための手段へと変わる。

 その極北に、「津久井やまゆり園事件」がある。・・・ その元職員は入所者を「心失者」と呼び。安楽死させることが会計的な意味での社会正義だと考えていた(いまでも考えている。引引用者注)。彼はケアすることの中に含まれるニヒリズムに食い破られたのだ。このニヒリズムの極致で「いる」は否定される。326p
それをニヒリズムとまとめてしまうことにも違和感が残る。
そもそもニヒリズムってなんだよと思ってググってみる。
Wikiでは以下のように書かれている。
ニヒリズム - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ニヒリズム
ニヒリズムあるいは虚無主義(きょむしゅぎ、英: Nihilism、独: Nihilismus)とは、この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である。
やっぱり違うんじゃないかな。

結語近くで東畑さんはこんな風に書く。
「ただ、いる、だけ」。その価値を僕はうまく説明することができない。会計係を論理的に納得させるように語ることができない。医療経済学者のようなことは僕にはできない。僕はありふれた心理士で、「ただ、いる、だけ」を公共のために擁護する力がない。官僚に説明できる力がない。結局のところ、僕は無力な臨床家なのだ。
 だけど、僕はその価値を知っている。「ただ、いる、だけ」の価値とそれを支えるケアの価値を知っている。僕は実際にそこにいたからだ。その風景を目撃し、その風景をたしかに生きたからだ。337p


自分なりに考えてみる。ふと思ったのは、精神医療としてのデイケアと、障害者福祉としての継続就労B型や地域活動センター。メンタルを病んだ人たちが元気になるためにそこに来るのだが、両方が重なる領域を持っていて、その重なる部分に関して、どう対応するのか、もっと積極的に重なって、協力し合うということができないかと思ったのだった。

そして、結語で書かれていることは、市場化(異常化って感じもする)の波にもまれながらも、エビデンスが、効率性が、どうのとか言わずに、まず、「いる」ことができる場所が必要なのだ。というような結論が別の表現で書かれているような気がした。少なくとも、ぼくはそう思うのだった。


追記(6月7日)
この本を読み、読書ノートを書き終えた後で、渡邊琢さんの前に読み終えていた『障害者の傷、介助者の痛み』の13章を読み、バオバブでのオープンダイアローグ(OD)の勉強会に参加したりしながら、ケアとセラピーのことをつらつらと考え続けている。さなざまな場所にケアとセラピーの抜き差しならない関係が張り付いているように感じた。ODという切り口でケアとセラピーを考えるのも有効ではないかと思った。

「オープンダイアローグの7つの原則」や「対話実践の 12 の基本要素」を見ると、治療という言葉が目につくが、そこで行われていることの大事な要素として、背景にしっかりケアがあることが見て取れる。

日本の現実をみると、治療は過剰に存在しているのに、ケアが不足しているから、メンタルを病む人が増え続け、なかなか回復がすすまないのではないかと思えてくる。すごく短い時間、患者の話を聞いて投薬の量を決めるような精神医療の在り方が問われる。ODで重要なのは、そこで語られる治療の方針以上に、そこに聞いてくれる人がいるということなのだろう。その人と人との関係の中でこそ、メンタルの病は癒されている。自他を傷つける激しい行動が止まらないときに最低限の投薬は必要かもしれないが、基本は人と人との関係性の回復であり、そこで一番大切なのは、治療ではなくケアなのではないか。

土台にケアがないのに、投薬とわずかな時間の診断での治療を繰り返しても、回復は遠いだろう。そして、ケアは1対1というよりも、なんらかのコミュニティの中で得られるのではないか。

この本で東畑さんがケアとセラピーの抜き差しならない関係を見事に楽しく、そしてガクジュツ的に論じてくれたことが、いろんなことの輪郭を明確にしてくれたように感じた。勘違いかもしれないが、それはそれでいいと思う。

そんなことを考えたのだった。









https://philosophy.hix05.com/Psycho/psycho08.linear.html
直線的時間と円環的時間:中井久夫の時間論

精神医学者中井久夫の「分裂病と人類」を読んでいたら、人類の歴史で時間観念が登場したのは、農耕文化の段階になってからだという記述にぶつかった。中井は、人類の歴史は狩猟採集の段階から農耕の段階に進んでいったと考えているのだが、狩猟採集の段階では、時間の観念はまだ成立していなかった、時間の観念が成立するのは農耕文化の段階以降のことだと言うのである。

もっとも中井は、狩猟採集段階の人類に、時間概念が全面的に欠落していたとは言っていない。欠落していたのは、われわれ現代人が当然のこととして理解しているような意味での時間概念である。それを中井は、クロノスとしての時間だといっている。クロノスとは、現在を中心にして、過去から未来へと直線的に流れていく時の流れのことをいう。それに対して、現在という瞬間にこだわった時間意識もないわけではない。それは、現在を中心にして、未来には開かれている。しかし、過去を含んでいないという点で、普通の意味での時間概念にはなりえていない。そのような時間を中井はカイロスという。

「狩猟採集民の時間が強烈に現在中心的・カイロス的(人間的)であるとすれば、農耕民とともに過去から未来へと時間は流れはじめ、クロノス的(物理的)時間が成立した。農耕社会は計量し測定し貯蔵する。とくに貯蔵、このフロイト的にいえば『肛門的』な行為が農耕社会の成立に不可欠なことはいうまでもないが、貯蔵品は過去から未来へと流れるタイプの時間の具体化物である。その維持をはじめ、農耕の諸局面は恒久的な権力装置を前提とする。おそらく神をも必要とするだろう」(中井「分裂病と人類」)ここで中井が、
「過去から未来へと流れるタイプの時間」といっているのは、直線的な時間、リニアな時間と言ってよい。そのような時間が成立するためには、時間が決定的に重要な意味を持つ事態、すなわち農耕の普及が必要だったと言うわけである。農耕とは端的に言えば、時間の管理なのである。

ところで、時間にはこのような「直線的な時間」のほかに「円環的な時間」があるというのが、今日の常識となっている。直線的な時間が、過去から現在を経て未来へと直線的に流れていくとイメージされているのに対して、円環的な時間は、時間の動きを直線ではなく循環としてとらえる。直線的な時間にあっては、未来は常にあらたなものの生起としてとして捉えられるが、円環的=循環的時間にあっては、未来は過去の繰り返しとして捉えられる。つまり、この世の中には、何も新しいことなどはおこらない。すべては、同じことの繰返しとして現れる。

現代の俗流時間論は、直線的時間観念をキリスト教的世界観と結びつけ、円環的時間観念を仏教やゾロアスター教など東洋的世界観と結びつける。また、直線的時間観念を狩猟・牧畜分化と、円環的時間観念を農耕文化と結びつける傾向が強い。そこで、キリスト教的世界観=直線的時間=狩猟・牧畜分化対東洋的世界観=円環的時間=農耕文化という概念のセットが出来上がる。

この俗流時間論を中井の時間論と対比させると、そこに大きなずれがあることがわかる。まず、中井は時間をリニアな(直線的な)ものとしたうえで、それを農耕文化と結びつけるわけだが、俗流時間論は、農耕文化と結びつくのは円環的な時間であって、リニアな時間は狩猟・牧畜分化と結びつくと見ている。

これには、時間の捉え方の相違が大きく働いているのだと思える。中井は、時間をリニアなものとのみ考えて、円環的な時間というものを考慮にいれていない。ところが俗流時間論にあっては、直線的な時間と円環的な時間の対立こそが、時間論の中心テーマとなる。中井は時間を大雑把に時の流れとして捉えるにとどまるのに対して、俗流時間論は、時間内部の分化に注目するわけなのである。

そこで、直線的な時間と円環的な時間では、どちらが本源的な時間なのか、という問題がひとつのテーマとしてありうるということになる。俗流時間論者の多くは、直線的時間をキリスト教文化と密接に関連付けて論じたうえで、その対抗軸として円環的時間を持ち出すケースが多い。であるから、このような文脈においては、円環的時間は直線的時間を批判するための対立軸として利用されることとなる。

こうしたシナリオにとって都合の良いのが、ニーチェの時間論だ。周知のとおりニーチェは、キリスト教的な直線的時間概念を粉砕して、それに代えるに循環的な時間概念を以てした。彼のいう「永遠回帰」とは、時間の円環的=循環的性格を現した言葉なのである。

キリスト教的時間観念の最大の特徴は、時間を有限なものとして捉えることである。時間には始まりがあり、かつ終わりがある。時間はそれ自体では有限である。無限なのは神だけである。無限な神が有限な時間を作り、それをある一定の時刻で終わらせる、と考えるわけである。それに対してニーチェは、時間には始まりもなければ終わりもない。時間は永遠に循環する。循環するある局面をとってみれば、それは円環として見える。円環は、すべてがそこから始まるスタート地点であり、またそこに戻ってくるゴールである地点を、同時にしかも至る所に内在させている。しかも、永遠に循環運動を続けていく。なぜなら、この世に神というものは存在しないのであるから、この世そのものが永遠でなければならないではないか。もし、この世が永遠でなく、有限なものとすれば、それに始まりのきっかけを与え、それを終わらせるものがなくてはならない。そんなことができる者は神以外には考えられない。だが、神は死んだのだ。そうニーチェは強調するわけである。



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