『普通の人々』と社会変革、内山節さんに触発されて

時代を読む(2018年12月23日東京新聞朝刊)
内山 節
『普通の人々が主人公の社会とは』

の結語部分をフェイスブックに書き出していた。
https://www.facebook.com/notes/%E9%B6%B4%E7%94%B0-%E9%9B%85%E8%8B%B1/%E6%99%AE%E9%80%9A%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85%E3%81%8C%E4%B8%BB%E4%BA%BA%E5%85%AC%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%A8%E3%81%AF%E5%86%85%E5%B1%B1-%E7%AF%80/2066630680084105/
これを偶然読み返した。

このコラム、いろんな人の琴線を動かしたようで、検索するといくつかでてくる。
(一番、下に張り付けた写真はそこから借りた)


そして、いま、思いついてコメントを書いた。
~~~~
ふと思う。
ここで内山さんがいう「国民感情」はどのように形成されているのか。
 
「人間の行為を直接的に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない」とヴェーバーは書いた。
 
 国民感情もまた、利害関心に導かれて、形成されているのではないだろうか? この利害関心の判断の根拠はマスコミや口コミ。マスコミが政府の意図を忖度して、意図的に垂れ流しているとしか思えないような中国や韓国への否定的な感情をあおる報道が背景にある。

 中国や韓国の人たちのために損をさせられていると思わされ、それたの国への好ましくない感情が醸成される。それが事実であろうとなかろうと。

 中国や韓国が悪いという物語が入りやすい物語なのか?

実際に人々に損をさせているのは中国や韓国ではなく、いまの世界のシステムであり、そこに組み込まれた日本社会の在り方なのだと思うが、そんな面倒な話は人々の気持ちに入りにくい。
  
そして、解決策として内山さんは

「普通の人々が社会の主人公になる仕組みが生まれないかぎり、解決されないだろう。理性による支配ではない共同の仕組みを、私たちは見つけ出さなければならなくなった」という。

普通の人々が主人公になる共同の仕組みが欲しいとぼくも思う。しかし、これを言っただけでは足りないことがたくさんありすぎるとも思う。普通の人々の感情は表面的な利害に流されやすいと思う。自分を見てると、それがわかる(笑)。

だから、流されないためにどうするか、そういう仕組みが必要になる。

「熟議民主主義」というのは一つの答えだと思う。しかし、「熟議」はそれなりに面倒で、その必要性がどのように普通の人々にいきわたるか、という問題もある。それは内山さんが否定した【理性による支配】とも親和性が高い。
否定されるべきは【理性】ではなく【支配】なのだろう。
 
ヴェーバーは上記の部分に続けて、こんな風にも書いている。
しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍機(ターンテーブルのルビ)として軌道を決定し、その軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである。


 
花崎皋平さんはかつて「生きる場の哲学」で人間の二つの価値軸について書いた。

【自由の拡大】と【類的共同性の回復】

そして、前者が肥大化した近現代から、後者を強調する社会を呼びかけた。【類的共同性の回復】という価値軸の側に社会を引き戻す形での世界像の転換が求められている。問題はどのようにそれを実現するかという話でもある。政治権力を暴力で転覆させるというような物語は通用しなくなっている。
 
共同性を回復させるような小さな場をたくさん作りだすこと。
誰もが排除されない共同性が求められる。
 
その道のりは気が遠くなるほど遠く、成功するかどうかもおぼつかないが、それを暗闇の中の一筋の光として、絶望すべき状態をちゃんと絶望したうえで追い求めていくしかないのではないか、といまは思う。

現存する巨大なシステムは揺るぎないようにもみえるが、その足元はかなり浸食されつつあるのではないか。巨大なシステムを維持しようとする側の有能な人たちもまた、自らの足元の危機に気づき、それへの有効な対処を探し、実行している。それは【普通の人々】の利益になることも多い。
 
利害は単純ではなく、相当に入り組んでいる。それぞれの思惑を利用し、利用されながら、時代は進んでいるようにも思える。

残念ながら、大きなことはできない。しかし、小さな声を積み重ねることをあきらめたくはない。

何度も書くが、「そんなことできっこない」とあきらめて生きるより、できないかもしれない小さな可能性を信じて生きるほうが100倍楽しいからだ。

道は遠いし、ゴールはあるのかどうかさえ見えないほど遠い。しかし、一歩だけなら自分で進むことはできる。ときに後戻りすることもあるだろう。疲れるし。疲れたら、そのときは休めばいい。
そうして、一歩一歩進むことを楽しみたい。楽しくなければ、しょうがない。
 
小さな営みの中で、いろんな人とつながる楽しみがある。それがなければ、歩き続ける事なんてできない。
いっしょに楽しめる人とつながりながら、歩いていくことで1mmだけでもゴールに近づければそれでいいのではないか、とも思う。


画像

https://ameblo.jp/tousekitetsu/entry-12427877702.html から借りました。

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