「オープンダイアローグがひらく精神医療」メモ

「オープンダイアローグがひらく精神医療」メモ

斎藤環著 日本評論社 2019年7月

出版社ホームページ
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/8069.html
から

内容紹介

「開かれた対話」を通じて精神疾患にアプローチする。この画期的な手法であり思想を、日本に導入すべく奔走する著者の最新論集。

目次

1 オープンダイアローグの可能性

 1 オープンダイアローグ

 2 こころのトポスはどう変わったか

 3 「開かれた対話」と「人薬」

 4 反‐強度的治療としてのオープンダイアローグ

 5 心理職とオープンダイアローグの可能性

2 オープンダイアローグの現場から

 6 オープンダイアローグによる統合失調症への治療的アプローチ

 7 アウトリーチとオープンダイアローグ

 8 “コミュ障”は存在しない――開かれた対話と「コミュニケーション」

 9 「ほめる」こととリフレクティング

3 オープンダイアローグを読む

 10 SF的視点が可能にした精神医療への批評
   宮内悠介『エクソダス症候群』

 11 二人であることの病? 青山七恵『繭』

 12 ポリフォニーを“聞き流す” 坂口恭平『家族の哲学』

4 人間回帰としてのオープンダイアローグ

 13 オープンダイアローグがひらく新しい生のプラットフォーム 
   村上靖彦×斎藤環

 14 オープンダイアローグの日本への導入に際して懸念されること


最初の感想
ODの可能性を読ませてもらった。精神医療は変わるはずだし、変えなければならないと思った。それが具体的に読み取れる内容になっている。ラカンの話など、面倒なところはほぼ飛ばして読んだ。

次の感想
著者はこのシステムに魅せられ、入れ込んでいるのだが、気になるのは始まってから40年にもなろうとし、結果も出しているこの仕組みが、いまだにフィンランドの一地方のものとして紹介され、他国はおろか、フィンランド全土のものにもなっていないということ。ここで斎藤さんが書いているような、「ある意味劇的な効果」があれば、もっと急速に広範に広がってもいいのに、と思うのだった。
 確かに、主流の精神医療がOD的な手法に変われば、それはその生まれたところからずっと続いてきた精神医療の大きなパラダイムの転換をもたらすことでもある。既存の価値のもとで治療し、その仕組みで食べてきた人たち、つまり普通の精神科医やそれをとりまく業界が抵抗するのは当然と言えるかもしれない。

それぞれ独立した論文がもとになっているので、ダブりは少なくないが、頭の悪い僕には繰り返し読まされることは悪くはなかった。

~~~

以下、ふせんに沿って

治療やセラピーにおける1対1という面接のスタイルのほうが特殊なのだと、斎藤環さんは書く。個人精神療法というずーっと続いたフォーマットの優位性は個人情報保護くらいしかないという。8p

13pではODの徹底した包摂性が紹介される。斎藤さんが体験させてもらった1時間余りの治療ミーティングで話された内容は、福祉サービスに関連することがほとんどで、こんな風な話を日本の医療関係者に対応しない、と斎藤さん。「その徹底した包摂性」に感じ入ったとのこと。13p
 しかし、それは本人の回復にとても大切な話なのだと思う。そういう課題を含めた包摂性を持ったことが問われているはず、しかし、だからこそ転換が難しいと言えるのかもしれない。
 斎藤さんも次のページで岩手県沢内村を例に、医療・保健・福祉が一体であるべき、しかし現状のサービスは、敷居を高めに設定して、そこを自力で超えられた者のみを”支援してあげる”という弱所選別型のサービスになっているのではないか、と書く

また、ここで斎藤さんはオープンダイアローグとは・・・精神病に対する治療的介入の手法/システム/思想である。(14p)と書く。前のオープンダイアローグとは何かで書いていたのと少し違うのではと感じた。あそこでは療法というより、哲学とか思想とかいうのを強調してたんじゃなかったかなぁ。

「ODの可能性に魅せられている、精神科医として衝撃的だったのは『対話』で急性期精神病が改善・治癒するという事実をつきつけられたことだ」(15p)

と書かれている。

 著者がこのモデルの健全さの根拠としてあげるのが、ケプロダス病院のベッド数。80年代には300を超えていたのに、現在は22とのこと。そして、こんな風に書かれている。

 ケプロダス病院が30年かけて達成してきたように、地域密着型の相談システムをしっかり利用することで治療サイクルを回転させ、その結果として入院の必要性を縮小していくこと。このモデルならば、日本でも応用が可能なはずだ。そこには「いかなる入院の薬も徹底排除」というイデオロギーはない。私が魅了されたのは、ODにおける「入院が薬物は必要最小限度しか用いない」という”現実性”のほうである。16p

ODの優れているところはいくつかあるが、あまたある精神療法の中で、もっとも「相互性」に開かれているという点がまず挙げられる。ここで相互性というのは 、「変化の双方向性」を意味している。16p


卓越した臨床家やカリスマ精神科医などではなく、ひたすら「まっとう」でありたいと願うこと。ODの思想は、そうした医師の良心に”刺さる”思想なのだ。17p


 医師としての私自身は、けっして薬物を否定する立場ではない。しかし30年近く薬物治療を続けてきて思うことは、薬物には精神疾患の本質的部分を変える力はほぼない、ということだ。17p

また、対話で寛解した場合は、寛解の時点で治療は終了できるが、薬物の場合はなかなかそれが終えられない、と斎藤さんは書く。17p

ODに関して野口裕二さん「ネットワークをチームで修復すること」と簡潔に言い表した。つまり

 患者は人間関係のネットワークの中で病んでいる。ここまではおなじみの発想だ。ただし従来の家族療法では、なかなか家族も外側にまで広がりをもてなかった。家族以外の友人知人、固く言えば「社会関係資源」を活用していこうという発想は、その意味で「コロンブスの卵」には違いない。18p

チームの長所は個人精神療法の問題点と対比すればわかりやすい、

・個人精神診療は権力関係になりやすい(っていうか、ほとんどそうなるとぼくは思う)

・「転移」(治療者に向けられた恋愛性転移感情が典型)が生じない。(斎藤さんは転移を用いる精神分析ってだめなんじゃないかみたいなことを書いてる)

・密室化しないので相互チェックが働く、医師はおかしいことをやったら指摘できる。

・”治療的民主主義”が自然に機能する。(ODの手法のチームならということだろう)
(20-21P)

上記はぼくが読んで適当にまとめたもの。本にはたぶんもう少し厳格に、こことは違うように書かれている。


リフレクティングに関して書かれたところで、そうだなぁと思ったのが以下

リフレクティングを通じて私が理解したことは「患者の目の前で話し会えないような情報にはろくなものがない」ということだ。23p


「見よう見まねでもなんとかなるのがODの美質」(24p)

とあるが、ODをそんな風に考えていない関係者もいるみたいだ。斎藤環だから、そう言えるという話も聞いた。


27~28pではSSRIがうつの患者を増やしているのではないかと斎藤さんは書く。
さらにSSRIの問題をいくつか書いた後、うつ病の根本的理論とされていた化学的不均衡理論にも疑義が提出されていて、ファイザーやサノファイなどの大手の製薬会社が、神経科学研究施設を縮小、あるいは完全に閉鎖し、新薬の開発をストップしているとのこと。そして、こんな風に書いている。

 先に述べたとおり、薬物治療を含む身体療法が早晩行き詰まるか頭打ちになるであろうと筆者が予測するのはここに述べたような根拠に基づいている。私見を補足しておくなら、精神疾患を成立させるメカニズムの複雑さに対して、身体療法の根拠する原理は、あまりにも単純すぎるのである。29p


しかし、同時にこんな風にも書いている。

 こうした筆者の立場は生物学主義の全否定ととらえられるかもしれないが、必ずしもそうではない。筆者はさしあたり薬物療法を臨床上必要不可欠なものと考えているし、使用する以上はその有効性は副作用の機序について無知でいることは許されない。・・32p

33p~はマインドフルネスについての記述。認知行動療法(CBT)からマインドフルネスへという流れがあり、その受容は代替療法としてではなく精神医療の主流で高く評価されているとのこと。34p 
また、マインドフルネスとの関連で、DMN(デフォルト・モード・ネットワーク)という自己認識や見当識に関する脳領域の活動、それは何もしないで安静にしているときに活動を準備しているような部位、に関しての記述がある。38-39p

 再び「発達」について考えてみよう。この障害は器質的・先天的なものとされているが、安定したエビデンスは存在せず、確定診断のためのバイオマーカーもない。ただ「発達障害の器質因」という広く支持された仮説があるばかりだ。ならば発達障害の問題を生物学的にのみ扱いうるか、という問いには、多くの専門家が「否」と答えるだろう。必要なのは彼らの認知特性に基づいた「療育」、すなわち治療的視点からの療育の方針なのだ。ここではコミュニケーション、さらに限定すれば対話が治療の武器となるのだが、ならばそれは純粋に心理的立場と言いうるのだろうか。

 もちろんそうではない。発達障害の心理はおそらく器質因によって独特の歪みを帯びている。それゆえ単なる心理療法に効果はない。むしろ彼らの認知特性を受容しながら、そこからの発達可能性に期待をかけるのだ。ここでは当然のことながら、心理面と生物学的な側面の両面が考慮されている。ならば、それは折衷的立場と言いうるだろうか。確かにそう読んで悪い理由はないだろう。

 ただし、筆者の臨床時間に即して言えば、治療者の意識は常にその両面を往復しているわけではない。面接と対話を重ねる中で「この患者は脳が7割、心理が3割」といった漠たる理論が形成されていく。つまり複数の立場、理論を編み上げるようにして、その患者向けのオーダーメイド理論が作られていく。少なくとも筆者は、初診で確定診断をすることはまれになった。もちろん「当たり」はつけるし、とりあえずの治療方針は定める。しかしその後の診断を確定させるものは、あくまでも患者本人との「対話」である。45-46p

 ここに器質と心理の関係がかなりわかりやすく表現されている。そう、この視点が大切なのだと感じた。 

 精神医療における「開かれた対話」こそは、キュアとケアを架橋し、自己決定と自立を促し、健康を生成するための最大の契機となることを、いまや筆者は確信している。 53p

「キュアとケアを架橋」することがすごく大切なのだと思うし、それがなかなかやられていない日本の精神医療の現実があるのだろう。そして、知的障害とされる人たちとの関連でも「開かれた対話」が有効なのではないかと直感している。知的障害が軽度で、どちらかと言えば発達障害的な側面でトラブルがあり、会話が普通に成立する人の場合はもちろんだが、会話がなかなか成立しない人に対してもダイオロジカルな態度で対応することによる変化があるのではないか、時間がかかるかもしれないが効果があるように感じている。


3 「開かれた対話」と「人薬」

 長らく内科モデルを志向してきた精神医学は、徐々にその限界を自覚するとともに、”つまるところ人間は人間によってしか癒されえない”という単純な事実が繰り返し再確認され 、現前性や身体性、 関係性などの治療的意義が再評価されるであろう。文章ではそうした要素の総称として「人薬」を用いることにする。 55p

人薬の出典は相田監督の映画『精神』とのこと。

 人薬のメリットとして、高度な専門性を必要とせず、低コスト(人によってはタダ)で 利用できることが挙げられる。しかし反面、長い孤立や引きこもりを経てきた人にとっては、通常の治療以上に敷居が高くなる場合もある。つまり新たな人間関係を築くほうが、治療を受けるよりもはるかに困難である場合が少なくないのである。 56p

60-62p超ざっくり要約

・モノローグの病理性に対してダイアローグの健康さが対比される。

・集まって対話するだけではダイアローグは成立しない。

・問いかける以前に重要なことは、可能な限り当事者や関係者が安心して対話に参加できる条件を整えること。

・ODでは、あえて診断や評価には踏み込まず、曖昧な状況を曖昧にしたまま対話によって支えていく。

・診断名をつけず、ずっと曖昧なまま。その曖昧さ、不確実性を支えるのが、繰り返されるミーティングと継続的な対話

・ほぼ毎日10日~12日

・メンバーの役割や社会的階層は重視されず、全員の話が許容され傾聴される

・この雰囲気が安全感を保障する

・どんな治療手段が採用されるべきかについては対話全体の流れが自然な答えを導くまで先送りされる。

・患者が幻覚や妄想について語り始めても、否定したり反論したりせずに傾聴し、その体験についてさらに詳しく尋ねたりする

・ODが目指すのは、対話によって新しい現実を作り出すこと

・具体的には、会話の中で新たな言葉を生み出し、象徴的コミュニケーションを確立すること

・そうすることによって患者は健康なアイデンティティと物語を取り戻し社会とのつながりを回復する、とされている

・このとき、患者の病的な発語の中に潜んでいる、メンバー間で共有可能な発話を導き出すことが重要

・患者と家族、または関係者、そして専門家との親密なやり取りを続けていく中で、次第に病的体験の意味づけがなされ、苦悩を言い表すための言葉が創りだされていく

・このとき危機的状況は、患者と社会の関係性を再構築するための貴重なチャンスとなる

・有意義な会話を生成していくためには、治療チームは、メンバーの発言を丁寧に傾聴すると同時に、その全てに応答しなければならない

・その応答は、相手の発言内容に即しながらも、更なる別の問いかけの形を取る必要がある

・これはモノローグを脱してダイアローグを必然的に志向する存在とみなされているため

・多声性概念において、意味は語り手と聞き手のやり取りの中でしか生じない

・その意味で、人々の語ることに耳を澄まし、対話の行間に見え隠れする感情や感覚にやり取りに注意を向けながら、言葉を生み出していく姿勢が求められる。

・患者の苦しみに「声」を与える言語は、こうしたやり取りの中から生まれてくる

・ODは診断や治療を直接の目的としない

・家族療法の発想に基づいてはいるものの、家族の病理構造に注目したり、その構造を変えようと介入したりしない

・ODの空間では、ただ「複数の主体」の 「複数の声」がポリフォニーを形成し。それ自体が治療の資源となる

・対話における質問や応答は、こうしたポリフォニックな対話システムがうまく作動し続けることを目指してなされる

・専門家が作動全体をコントロールするわけではない

・対話の目的は、単純な合意や結論に至ることではなく、安全な雰囲気の中でメンバー相互の異なった視点が接続されることが重要

・合意や結論は、いわばその過程の副産物であり、症状の改善もまた、同様の位置付けとなる 



6 オープンダイアローグによる統合失調症への治療的アプローチ

 ・・重要な原則の一つは、「患者本人抜きではいかなる決定もなされない」ということである。薬物治療や入院を含む、治療に関するあらゆる重要な決定は、本人を含む全員が出席した場面でなされる。本人不在で治療方針が決められることはない。スタッフだけのミーティングやカンファレンスも開かれない。 OD においては、障害者権利条約で歌われている ”Nothing about us without US” の原則が自明の前提となっているのである。 99p

101pにはODの12原則が新しい訳で書かれている

①ミーティングには2人以上のセラピスト 、クライアント、家族とネットワークメンバーが参加する

②開かれた質問をし「今日は何から話しましょうか?」など)、クライアント質問には必ず応える

③今この瞬間を大切にしつつ、複数の視点を引き出す(ポリフォニー)

④幻覚や妄想を否定せず、異なった視点を「接続」し、体験を「共有」「交換」する

⑤症状ではなく、クライアントの独自の言葉や物語を強調する

⑥ミーティングにおいて専門家同士の会話(リフレクティング)を用いる

⑦リフレクティングでは本人の努力を評価しつつ、

 今後の方針について意見交換をする(評価や方針はここで伝達される)

⑧透明性を保つ=重要な決定は本人の目の前で行う

⑨「変化」や「改善」を目標としない

⑩不確実性への耐性

⑪ミーティングの継続性、連続性を保証する 

⑫問題発言や問題行動には事務的に対応しつつその「意味」に注意


・・・リフレクティングの持つ意義は、ネットワークのメンバーの内的対話を活性化することにあるとされる、診断や治療方針についても、専門家が患者に一方的に押し付けるのではなく、目の前で専門家同士がやり取りする姿を観察しながら、患者が主体的に方針を選択することが容易になる。

 以上の対話の流れを、簡単にまとめる。まず、対話によって信頼関係と安全保障感を確保し、問いかけと応答によって「病的体験」の言語化と共有を試み、リフレクティングにおいて評価と治療計画についての意見が交換され、その過程から患者にとって適切な決定がおのずから導かれる。対話は「変化(改善)」を意図してなされるわけではないが、よい対話の持続があたかも副産物のように改善や治療をもたらすというイメージである。101-102p


「急性期には窓が開いている」(ケプロダス病院スタッフ)

介入を拒まれることの懸念に関して、上記の話が紹介される。つまり

 急性期であるからこそ、一気に患者本人の懐に入り、同時に家族とも治療関係を作り上げることが可能となる。その意味でODは、急性期ですら実施できるというよりも、急性期だからこそ介入が容易になると考えられる。 103-104p

そして、直後に慢性期の統合失調症に成果を上げつつある事例が紹介されている。

 おわりに (注:この文章の)

 オープンダイアローグには、現代の精神医療のあり方に大きなパラダイムシフトを迫る思想的・臨床的な可能性がある。それはポストモダンの思想に依拠した「人間」と「主体」の復権である。この手法/システム/思想は、わが国の精神医療が地域移行を進めていくうえでも、有力な支柱のひとつとなり得るだろう。111p

ここで斎藤さんはODが現代の精神医療のあり方に大きなパラダイムシフトを迫る思想的・臨床的な可能性があり、これが地域移行を進めていく上でも「有力な支柱のひとつとなり得る」と控えめに書いているが、この本の全体のトーンは、ODこそが精神医療を変えていく突破口であり、そこから大きな変化につながっていくという感じだった。


7 アウトリーチとオープンダイアローグ

この冒頭で筆者は厚労省の数値目標に言及していてる。
そこで厚労省は2018年度~2020年度の3年間で、14年現在で18万5千人いる1年以上の長期入院患者を最大で3万9千人減らす目標だ。
参照:精神科への長期入院3.9万人削減を目標 厚労相、20年度まで 

2017/1/9 20:53 日経 https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG09H2R_Z00C17A1CR8000/

18年度が終わった段階で、どれくらい減っているのだろう?
しかし、こんな計画を決めてるのに、14年度のデータしかないって変じゃないか。

ともあれ、ここでも新聞記事でも「厚労省はGHなどを整備して地域で暮らせる人を増やす方針とある」のだが、著者は、地域移行を強力に推進するうえで不可欠なのは、GHというよりも、「ACTなどのアウトリーチを主体としたサービスであろう」と書く。112p

著者はACTは精神障害とともに生きることの支援という側面が強いのに対して、ODは直接的な目標が治療だとは言わないが治療の側面が強いと、その違いを説明する。しかし、ODのアイデアには、はACTに限らず、アウトリーチに応用がきく要素があるとしている。116-117p

 ODの重要な原則の一つに「心理的継続性」がある。これは要するに、同じチームメンバーがあまり間を空けずに継続的にミーティングを開く、というほどの意味である。ちなみに急性期の場合、こうした関わりに要する期間は最長でも10~12日間ほどである由。

 この原則には、明示されてはいないものの、いくつかの重要な要素がある。その一つが「現前性」である。治療チームのメンバーは、なによりも、「その場にいる」ことが重要である。なぜか。言葉のみならず患者の身体にも同調をする必要があるからだ。OD で言う対話とは、まず第一に「声」を響かせることであり、感情を通じて身体をその場に同調させることである。つまり Skype などで参加しても治療的な意味はないということになる。それゆえ、ここで言う「心理的継続性」は、「現前性の連続」と言い換えてもよい。130p


OG による治療にはもう一つのステップがある。それは感情や体験の「共有」である。先に述べた言語化は、こうした共有の準備段階として出されているようなところもある。私自身が治療の中で経験しつつあることだが、幻覚や妄想ですらも、深く共有されることで改善し、あるいは消失しうる。 それはすでに確認済みの臨床的事実である。問題はその理由で、セイックラ自身もこの点についてはまだ十分に理論化し得ていないように思われる。 しかし確実に言いうることとしては、この共有に際してもまた、対話の場に声を響かせ、身体を同調させることが重要であるということだ。

 ミーティングの原則としては、この他に「傾聴」と「応答」がある。患者の話に耳を傾けるのは当然としても、傾聴一辺倒だけでは足りない。患者の全ての発話に対して応答を返すことが必須とされている。決して発話を孤立させないことで、安心できる雰囲気を醸成し、先日した言語かと体験の共有をさらに深めていくことが可能になるからだ。さらに言えば、ここには健全な「相互性」がある。この相互性ゆえに、治療的変化は患者にのみならず、治療者の側にも及ぶのである。131p


9 「ほめる」こととリフレクティング

うれしい報告が聞けたときはほめる。これは臨床家に限らず、多くの支援者と呼ばれる人たちがやっていることだ。ここで興味深い記述があった

 ただし、ここで注意すべきなのは、こちらが喜びすぎないことだ。不登校児が投稿を再開したとして、担当医がそれを喜びすぎたらどうなるか。ひきこもり青年が1年ぶりに散髪に行ったとして、そのことを絶賛したらどうなるか。容易に想像がつくように、彼らは失敗を恐れるようになる。再び学校を休んだら、またひきこもってしまったら、担当医はどんなにがっかりするだろうか、そのことで腹を立てはしないだろうか 。そうした不安や恐怖を呼び覚ましてしまう可能性があるのだ。思春期事例に限った話ではないが、「患者の行動に一喜一憂しすぎない」は治療者のみならず、家族への要請でもある。133p

そして、斎藤環さんは、「いい大人」が散髪に行ったぐらいで絶賛されたら、「馬鹿にするな」どうなるのは当然のことだ。と書くのだが、ここは相手によって微妙な さじ加減が必要な部分でもある。無条件に絶賛する、ほめちぎる、喜ぶ、ということが有効な場合もあるのではないだろうか、と思うからだ。

どんなに嘘くさくても、ほめ続けるのがいいと、前にべてるの家のSSTに関して、向谷地さんが書いてたなぁ。どうなんだろう。

とはいうものの、斎藤さんが書いてるように「他者性が高い」人からほめられると、よりうれしいというのはあるかもしれない。(134p)

また、他者性の基準は「希少性」であり、「ほめる」行為の希少性を高めればいい(135p)、というのも、そうかと思った。



 12 ポリフォニーを“聞き流す” 坂口恭平『家族の哲学』

 たとえば、患者が妄想を語りだしたとしよう。治療チームは、患者の語りを否定したり批判したりすることはしない。患者の経験したことについて、更に質問を重ねていくのである。たとえばこんな風に。

「私にはそういう経験はありません。もしよかったら、私にもよくわかるように、あなたの経験についてお話ししてもらえますか?」

 このように問いかけを重ねながら、さらに詳しく妄想を語ってもらうのである。通常の精神療法では「妄想を強化する」という理由でタブーとされるやり方だ。しかし治療チームは逆に考える。妄想はモノローグ、つまり独語の中で強化され、ダイアローグに開くことで解放される。ならば妄想に対して関心と好奇心をもってダイアローグに開いていけば、妄想が解放されることもありうるのではないか? この、およそ精神医学内部ではありえなかった発想が実践され成果をおさめているというのだ。

 そのためにはまず「治す」という発想から自由になる必要がある。治す、すなわち「妄想を取り除く」という目標に固執すると、どうしてもやりとりは「議論」や「説得」に傾きがちだ。重要なことは妄想の語りを核として、その周囲に複数の「声」が生成繁茂していくような 、ポリフォニックな空間を拓くことなのである。164p

 ここで坂口の記述に戻るなら、「聞き流す」とは、相手の声を、その言葉の意味や内容にとらわれず、あたかもポリフォニックな音楽であるかのように聴くこと、とも言えるのではないか。一人なのにポリフォニーとは奇妙な表現だが、 ここは、坂口屋「体の動き」の大切さを述べていたことを思い出そう。人は声のみならず表情や仕草といった身体表現を用いて、おのれの「思考の巣」を開示しようとする。ODにおいても重視されるのは「沈黙を含む言語的なメッセージに波長を合わせる」ことだ。ここには、しぐさや行動、息づかいや声のトーン、表情、会話のリズムなどが含まれる。セラピストにはそうしたメッセージへの高い感受性が求められるのだ。 165p

ポリフォニックな声の中には、聞きたくない声もあるのではないだろうか? 耳障りな聞きたくない声は出さない、というようなルールが作られたら、それは自由な空間ではなくなるだろう。そもそも、ポリフォニーには美しい調べ、みたいなイメージがあるが、それはノイズとどう違うのだろう? また、日本のように同調圧力が高い社会で、治療チームもそれに影響されて、ポリフォニーではなく、ハーモニーになってしまう危険も強いのではないだろうか。さらにポリフォニーだけれども、主旋律がとても似ていて、ハーモニーとの見分けがつきにくいとかいうこともあるかもしれない。

そして、これを書いて、思ったのだが、「ノイズ↑」と「ノイズ→」の違い。最後の「ズ」を上げるか下げるかで意味が変わってしまって、誤解を生む。ぼくがここで書きたかったのは、語尾を上げる方の「「ノイズ↑」。音楽ジャンルの「ノイズ」をイメージしている。

しかし、同時に語尾を上げない「ノイズ→」がミーティングで出されることもあるだろう。当事者からのそれは当然あるものだろうが、治療チームのメンバーが「ノイズ→」を出すことはよくないだろう。そのあたりはトレーニングで防ぐということになるのだろうか?


4 人間回帰としてのオープンダイアローグ

 13 オープンダイアローグがひらく新しい生のプラットフォーム 

   村上靖彦×斎藤環

173pで斎藤さんはACTを厚労省も推進したいのだが、いまひとつ普及しないが、ACとODは相性がいいことがわかってきて、それを組み合わせれば、急性期患者も慢性患者も地域で対応できるかもしれないと書く。

そして、ACTの実践が着実に成果を上げていることがもう少し共有されれば、一気に広がるのかもしれない、しかし、ACTが広がれば必然的に病床数を減らすことになってしまう、これが精神科病院が積極的に取り組まない理由になっているのではないか、とも書かれている。

興味深いのは、慢性期の統合失調の病像は長年の収容主義がもたらしたものである可能性が高く、もし、最初から薬も使わず、入院もさせないで統合失調症を見ていたら、まったく異なった経過になるのではないか、という指摘。「中野久夫さんが指摘する通り」と書かれている。175-176p

ODの手法がインパクトが大きかったのは、「急性期に対話で介入したら直ってしまいました」というエピソード 182p

「ちゃんと聴いていないだろう。 聴いていれば了解できるはずだ 」ということです。 了解不可能というのは単なるレッテルであって、 たいていの妄想は成り立ちをちゃんと聴いていけば「了解」できます。今は精神科医の姿勢も徐々にオープンになっているのと並行して、患者さんの妄想も軽くなってきているので、両者が割と一致しやすくなってきているのです。184p

急性期の統合失調の人とあまり関わったことがないが、こんな関りで話ができるようになるとのこと。そういう人と従来の方法で関わっている人には信じられないようだ。そんな話を複数の人から聞いた。

ここでの対談相手の村上さんは例の森田ゆりさんの MY TREE という虐待加害者のグループ回復プログラムのフィールドワークを2年前からしている、とのこと。
これについては以下に読書メモを書いている。
『虐待・親にもケアを』 https://tu-ta.at.webry.info/201808/article_3.html

・・・統合失調症と診断された人で「親に毒を入れられている」と訴えるケースがありました。よくよく聴いていくと、かなり抑圧的な親の下で暮らしていて、宗教的な葛藤もあったりする。「これだったらそういうことも考えるだろうな」と思わざるをえない状況があるということがだんだん見えてきました。「『親が毒を入れる』だとか『通りすがりの人が自分の笑い話をしている』だとか、そういう話ばかりしているので困りました」と言われたら。10年くらい前の私だったら「これは了解不可能だし、暴力があるケースだから、いったん鎮静のため隔離・拘束せざるをえない」と判断したでしょう。しかし、話を聴いていくと、だんだんそこが解体してきて、患者さんの怒りが整備されていく。まだ症状は続いているのですが、妄想以外は普通のひきこもりの人みたいな感じ――ひきこもりの人も親を結構怨んでいますからね――と変わらなくなってくるのです。190p

OD、斎藤学との雑談から耳に入ってきた(209p)とのこと。学さん、すごいです。

セイックラについて、斎藤環さん

「思想としては、緩い人だけれど、こういう人の方が治療はうまいんだよな」と思って読んでいくと、実践に関しては圧倒的に説得力があるのです。209p


現前性・現場性・固有性の擁護・・・。オープンダイアローグはそれを強力に言ってくれたところが嬉しいところです。オープンダイアローグはネット上では展開できません。「その場にいる」ことが不可欠です。217p


14 オープンダイアローグの日本への導入に際して懸念されること

OD導入が要請するのは、ほとんど「精神医学のパラダイムシフト」に等しい変化であり、全く異質な治療文化であることを踏まえずに表層的な技法論にとどまるのであれば、 ODが本来持っている可能性は減殺されてしまいかねない。220p

これはありそう。

組織のあり方 

 筆者の懸念は、ODが日本の精神科病院の組織文化と大きく齟齬をきたすのではないか、というものです。

 ケプロダス病院では百人近い職員のほぼ全員が、家族療法の研修を受けた自律したセラピストである。ミーティングにおいては、すべての治療スタッフが、フラットな立場で治療ミーティングに参加する。それ言えここでの禁句の一つは、ヒエラルヒーを意味する敬称、「先生」である。

 もちろん精神科医にしかできない薬物療法や、行動制限といった業務もあるため、その意味では完全に平等というわけではない。しかしたとえば、治療ミーティングに精神科医が必ず参加する必要はないし、看護師だけのチームで OB がなされる場面もある。・・・、これがために、スタッフ一人当たりのケースロードは20人程度と、日本に比べてはるかに少なく、余裕を持って治療に取り組むことが可能になっている。

 こうしたことが実現するためには、精神科医を頂点とする病院組織のありようを大幅に見直す必要があるが、この改革が最大の難所となるかもしれない。220-222p


ぼくは実現のために必要なのは、やはりお金だと思う。従来型の治療方法が儲かるのであれば、なかなか変えられないのではないか?

また、ODは短期の治療が前提だという話に続いて、斎藤環さんは以下のように書く

・・・、長期化の要因のひとつは薬物療法である。薬物が治癒を阻害する、という意味ではなく、薬物療法においては終結時期が見えにくくなる、という問題である。統合失調症の寛解維持を目的とした薬物治療には、ここまでで終結すれば安全にやめられるという目安がない。生涯にわたり予防的に服薬を続けることが最も安全である、と信じられているふしもある。 しかし OD には、予防的 OD は存在しない。寛解したらミーティングはそこで終了である。 ・・・、ケプロダス病院で・・・「もし再発したら?」・・・一人の看護スタッフはこともなげに応えた。「またすぐミーティングをすればいいのです」と。225p

これはすっきりしてる。

急性期の「不確実性」に対して日本の精神医療はどう向き合ってきたか、多くは隔離拘束、すなわち行動制限と身体拘束によって、である。近年、精神科病院における長期に及ぶ身体拘束の急増が問題視されつつあるが、この風潮に対抗するうえでわれわれが獲得すべき資質が「 不確実性への耐性」にほかならない。226p


・・・、OD の歴史において、「クライアントのことについて、スタッフだけで話すことをやめる」というルールが導入されたことが意義はきわめて大きい。 ルールが決まった1984年8月27日を、オープンダイアローグが始まった日と見なす見解もある。 229p

最後にこれが書かれているように、ここが大事で、そしてやられていない部分だと思う。それはキュアの領域だけでなくケアの領域、いわゆる「支援」の領域でもいえるのではないか。別の場所で決めて、本人に押し付けるようなことが横行しすぎているのではないか、自戒を込めてそう思う。

以前書いた『オープンダイアローグとは何か』メモ
https://tu-ta.at.webry.info/201605/article_2.html


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