『差別はたいてい悪意のない人がする』メモ

差別はたいてい悪意のない人がする
見えない排除に気づくための10章

この本を出している大月書店のこの本のサイトは
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b585887.html

上記のサイトから、プロローグと目次が読める仕組みになっている。


プロローグの最後のほうには以下のように書かれている。

差別に関する本の執筆を追えるいまこの瞬間にも、私は相変わらず差別についてよく知っているとは言いきれない。それにもかかわらず、私たちをとりまく社会を理解し、自己を省察しながら平等へのプロセスを歩みつづけることは、自分は差別していないという偽りの信仰よりも、はるかに貴重だということだけは明らかである。13p


「トークニズム」という言葉を知らず、この本を読んで初めて知った。25p
https://tesolblog.com/tokenism/ にわりと詳しい説明がある。


以下は福祉とか呼ばれるようなことに関わっている人間がちゃんと自覚すべき話だと思った。

何かを施すことができる資源を持つ人は、善意のもとにそれをしたい。それは、 自分が優位にある権力関係を揺るがすことなく「いい人」になれる方法だからだ。 このような順位を見せつけるためのチャリティーや政策は、ただの善良な行為ではない。こちらが相手をどう思うかによって施しを与えられるべきか否かを決められ、資源を所有する側が完全にコントロールと権限を持つ、ある種の権力行為である。29p


31pからは白人であることの特権の例を盛り込んだマッキントッシュ氏の論文が紹介されている。

そこに挙げられているのは

・私の外見が魅力的でないとしても、それは大きな問題ではないし、なんでもないことだと思える。

というようなもの。

など、いくつもの特権者が気付きにくい例が引用されている。


37頁からは「損失回避バイアス」の説明があり、そのなかで、

「すでに特権を持った側の人間にとっては、社会が平等になることが損失として認識される」38p

と記載されている。


授業で長距離バス(この本では「市外バス」と記載されている)への障害者の乗車について議論したとき、ある学生が書いたこんな感想が挙げられている。

「障害者がバスに乗ると余計に時間がかかるから、その分、追加料金を払うべきではないでしょうか」

そして、どうしてこんな風に考えたのかという考察があり、以下のように書かれている。

この学生は、最初から非障害者にとって有利な速度や効率性を基準にすること自体が「傾いた公正性」であることを認識できなかったのである。39p


59頁からは複合差別について描かれる。ジェンダー、国籍、経済的な豊かさ、という軸が複雑にからんだ差別がありが、その

「多重性について考察してみることで、自分が差別を受ける側にもなるが、差別する側にもなりうるということを、ようやく発見できるのだ」(63p)

とある。


以下はタブーとユーモアについて。お笑いの差別的なネタ、80年代に全盛だったと思う。その例は、先日読んだかなり以前に書かれた赤坂憲雄さんの『排除の現象学』にも、ビートたけしの本から引用されていた。そして、ここでは以下のように書かれている。

・・・誰かが差別的な冗談を投げかけると、差別お気軽には使ってもいいという雰囲気が作られる。その結果 、規範のた・が・が緩み、人々は自分の中の偏見を簡単に表出し、差別を容認したり、容認するような行動をとるようになる。これを偏見に基づく規範理論と呼ぶ。

 ユーモアには、タブー視された領域の封印を瞬時に解き放つ効果があるという意味だ。この際、規範からの逸脱行動は、ユーモアというフィルターを通じて「遊び」または「いたずら」という名目で認められる。あくまでも軽いやり取りに過ぎないのだから、真剣に受け取るのはかえっておかしいとみなされるのである。ユーモアは、このように禁忌とされた領域を行き来することから、権力に挑戦するような風刺も可能にし、社会はその価値を認める。しかし、 禁忌の扉が開かれた方向に弱者が立っていた場合、そこでは残酷な遊びがはじまることになる。94p

また、侮蔑的ユーモアについては、それが強者から発せられるか、弱者から発せられるかという権力関係に注目することが必要だという指摘が102-103pに記載されている。


142-143pで紹介されている、ある中学生の言葉

「終礼後、先生が”多文化の人は残って!”と言ったことがある。私たちにも名前があるのに”多文化”と呼ばれた。まるで私がなにか過ちを犯したかのような口調だったので、すごく傷ついた」


190頁からはLGBTとの連関でのトイレ設置に関する話がある。既存のトイレの看板を「みんなのトイレ」にするのではなく、すべての多様性を「包含」する普遍性が必要であり、その研究が求められていると書かれている。世界ではすでに実験が始まっており、ヨーロッパやアメリカでは「オールジェンダー・レストルーム」というトイレが設けられているとのこと。そのトイレと男女別のトイレの関係とかレイアウトはどうなっていて、どの程度、普及しているのかは不明。知ってる人に教えて欲しい。


本文の最後(エピローグのすぐ前)には、以下のように書かれている。

だれもが平等を望んでいるが、善良な心だけでは平等を実現することはできない。不平等な世界で「悪意なき差別主義者」にならないためには、慣れ親しんだ秩序の向こう側の世界を想像しなければならない。 そういう意味で、差別禁止法の制定は、私たちがどのような社会を作りたいかを示す象徴であり宣言なのだ。たんに法律の制定という結果だけではなく、 ここ10年あまり、 いや、それよりずっと前から、差別や平等について論争し、悩み続けた結果としての決断であるからだ。差別禁止法を制定すべきか否かをめぐる論争を終え、どうやって平等を実現するかについて語ろう。ハンナ・アーレントが言った通り、私たちが集まって決議をおこなうとき、いま・ここの場所で、はじめて平等は実現される。219p 

ほぼ、その通りだと思う。この法律がこの本が書かれた後、韓国でこの法律がどうなったか、残念ながら知らない。

人権委員会「差別禁止法、議論されず遺憾…」=韓国

配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/964f52681717693d10642a92d55cf3e9b69c0862
を見ると、2021年11月の段階ではまだ制定されていないようだ。

ただ、アーレントの引用の「決議をおこなうとき」という訳はちょっと不自然。何か違う訳語がありえたのではないか。もともと、どんな単語が使われていたかわからないので、なんとも言えないが、「熟議を尽くして何かを決定するとき」というような話ではないかと思う。あるいは平等のためには決定さえいらないのかもしれない。熟議のプロセスだけあれば、平等は実現できるのではないか。



この本が韓国では16万冊売れたとのこと。日本との人口の差を考えると、この倍と考えてもいいかもしれない。





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