今日、考えたこと

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zoom RSS 能力に応じて働くということ

<<   作成日時 : 2006/07/17 10:38   >>

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去年9月に障害学のMLでのやりとりをここに記録した。

障害者の就労の位相をめぐる考察への違和感
http://tu-ta.at.webry.info/200509/article_12.html

「障害者の就労の位相をめぐる考察への違和感」について
http://tu-ta.at.webry.info/200509/article_13.html

障害者の就労の位相をめぐる考察に関するやりとり続き
http://tu-ta.at.webry.info/200509/article_15.html

いま、読み返すと、とてもわかりにくい。
これを読んで、どんなことが語られていたかを、理解できる人がいたら、それはとてもすごいことだ。でも、読んでもらえばなんとなく感じることはできると思う。

この9月の議論を受けたおまけもある。

「『障害者の就労の位相をめぐる考察』への違和感」へのふぐさんのコメントについて
http://tu-ta.at.webry.info/200512/article_1.html


今日、ぼくが転載するのは、この9月のやりとりの
http://tu-ta.at.webry.info/200509/article_15.html
に掲載してある「否定性の重層性というか複数性について」という問題の提出の仕方に関するレスポンス

名称部分とかを変えて部分的に転載

==以下、転載==

Thu, 22 Sep 2005 05:56:23


Mさま、レスポンスありがとうございます。

> tu-taたさまの
>
> >  もちろん、「***ができないこと」もその主体にとって、捨てられない一部な
> > のだから、それを無下に否定して欲しくはないという感情はあるし、それはそれで
> > 大切なことだと思います。それが多くの場合、社会のありようで不便でなくなる部
> > 分はとても多いものの、それでも不便だという意味での否定性は認めつつ、だけど、
> >
> > それ以上に否定しないでくれ、というような否定の複数性というか、否定性の中に
> > も、肯定しえる部分と、否定したい部分があるのではないでしょうか。(これはい
> > ま、思いついたことですが)

>
> この文章を読んで
> 「できないことで得た自由というのを
> あたしは、最近の暮らしで
> 大切にしているな」と思っていることを
> お伝えしようかな と思いました。
>
> 端的にいえば
>
> お勤めができないほど重い障害だから
> 暮らしをたのしむという自由を得ている

読み返してみて、こういう受け取られ方もあるんだなぁと感じ入っていました。
お伝えしていただいて、ありがとうございます。いろんな意味で否定性の中の肯定的な部分はありえますね。たとえば、状態が悪いときを経験したことがあるMさんにしか見えない視点があるということも、そのように言えるかもしれません。


ただ、「働く義務」主義者のぼくはこのMさんの書き込みを見て、例えばMさんなら、自宅でPCに向かって、あんまり締め切りのきつくない仕事とかなら、可能なのではないか、そういうことを合理的配慮というふうに考えられないかと思ってしまうわけです。
 問題はその「合理的配慮」とかいう奴を誰が決定するか、そに狭い意味での当事者(つまり本人)が参加できるか、また、本人が決定に参加するためのサポートに本人が納得する人をつけることが可能なのかどうか、ということかなぁと思います。
そんなことを考え始めると、やはり労働をシェアできるところを広げていくというのは、コストパフォーマンスも悪いものになるから、という反論もでてくるのか、と考えたりしています。

 「能力に応じて働き、必要な人が受け取る」という主張はけっこう昔からあったのかと思うのですが、この主張について、最近は立岩さんがめだっているようですが・・・。(他にも言っている人がいるのにぼくが知らないだけかもしれません。)
これは、ぼくもたぶんそういうことが必要なんだろうと思うのです。ただ、この「能力に応じて働く」ということの具体的な中身はあんまり考られてこなかったのではないでしょうか?「必要な人が受け取る」という部分はベーシックインカムとかの考え方もでているようで、いろいろ考えている人はいるみたいです。ではその前にある「能力に応じて働く」ということに関して障害者が能力に応じて、合理的な配慮を受けながら働くシステムが具体的にどのように構築できるのでしょう。

 確かに労働をシェアできるところを可能な限り広げていく、という考え方は一人歩きし始めるととても危険かもしれません。実際、働く場所が用意されていないにもかかわらず、働かないことを非難されるというようなことは横行しているわけです。「合理的な配慮」というよりも「納得の出来る配慮」を欠いたまま、「あなたも働かなければなりません」みたいなことだけがのさばるというのは十分に想定できることです。
 しかし、その危険に配慮し、慎重に、「能力に応じて働く」場所を拡大していくことは可能だと思いたいし、そこを追求したいとおもうのです。少なくとも日本の現状では広げる余地はまだたくさんあるはずだと考えています。

 それはMさんの暮らしを楽しむ自由を少し奪うことになるかもしれませんが、やはり、可能な範囲で労働をシェアしていくというようなことが必要なんじゃないかと、考えてしまうのが、「働く義務主義者」の悲しい性なんです。

==転載ここまで==

この「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という前者の部分をできるだけ拡大していきたいというのがぼくの主張だ。制度をなんとかすれば、もっと広げられるはずだ。労働という苦役を含む行為をできるだけシェアしたいと思う。「働く」という行為がなくなると「必要に応じて受け取る」ことも不可能になる。
 それぞれの人がどのように「働く」という行為に就くことを可能にするのかということを、まず考えたいと思う。そのことにコストがかかっても、それが必要だということを軸に考えていきたいと思っている。それを「存在の肯定」という問題の立て方と矛盾しないような形で展開することが可能ではないかと直感するのだけれど、まだ論証できているわけではない。




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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
tu-taさん、お久しぶりです。
ここにコメントを採用していただいた
かつての M です。

このやりとりのとき
「あたし、はたらいていますよ」と
コメントを返したのを
覚えていらっしゃいますか?

暮らしをたのしみ
人生をたのしむということが

なぜ生きなくてはならないのか、わからず
つらくてつらくて
混乱ばかりしていたものとしては
はたらくのと同じくらい意味のもつものだ

あのときは
そういいたかったのではないか と
思い返しております。

あれから一年
少しずつ、ひとびとのあいだに
でてゆけるようになって
思うことは

わたしが暮らしをたのしみ
人生をたのしむこと

それを分かちあうと
たのしむひとがいる
よろこぶひとがいる
わたしに会いたいと思うひとがいる

そして
わたしが暮らしをたのしみ
人生をたのしむことで
生きがいを得ているひとがいる

それが
いまのわたしの存在意義なのだな と
いうことです。
--つづけますね--

Cana
2006/07/18 08:51
わたしはいま
自閉症とよばれるひと
知的障害者とされているひとと
交流する場をもっておりますが

NO! でしかコミュニケイションができなかったひとが
わたしと話すことで笑顔がでて
「ありがとう」と
みなに伝えられるようになったこと

こだわりのきついとされるひとが
わたしのつくる料理を、たのしみにして
自分から取り分けてくださること

わたしのうたを、たのしみにしてくださること

三歳か四歳の男の子が
わたしとだと、手織りの体験教室を
一時間も集中してたのしむこと

そういう体験をつうじて
はたらくということの概念について
とらえ直しが必要だと感じております。

たとえば
わたしの料理は、オカネにならない
わたしのうたは、オカネにならない

重度の知的障害のひとと
コミュニケイションができたとしても
それは、オカネにならないし
評価されたとしても
わたしは、たぶん
オカネに換算しないでしょう。

--つづけます--

Cana
2006/07/18 08:56
オカネにしないということからすれば
わたしは、はたらいているとはいえないかもしれない

けれど
生きるよろこびを分かちあう体験をつうじて
わたしは、ひとびとに
誰にもできなかっただろう
よろこびを、伝えることができている

それは、やはり
意義ある活動ではないか と。

ここで
その結論をださないでおきますが

もうひとつ
はたらくということを
別な角度から、とらえなおしてみますね。

--つづけます--

Cana
2006/07/18 08:59
福祉にたずさわるひと
医療にたずさわるひとに
なぜ、職があり
はたらくことができるのか

福祉の対象者
医療の対象者がいるからです。

障害者が、ひとの手を借りて生きざるを得ない存在だから
障害者福祉で食ってゆけるひとがいる

病者がいて、患者がいるから
医療従事者が、職を得ている

そういう意味で

なにもできないひとがいる という
存在意義を
見つめなおす必要があるだろう

人間存在は
本質的に共同存在である というのは

この点からも
くみ取れるのではないか。

福祉従事者に、医療従事者に
はたらく場を提供しているということで

障害者は、病者は、患者は
りっぱにはたらいているではないか

人間の存在意義は
多様で、ゆたかです。

従来の資本主義で
偏った能力しか評価しない
能力主義のなかで
はたらくということを考えると

大切なものを
見失ってしまうのではないでしょうか。

--おしまいです--
Cana
2006/07/18 09:04
Canaさん、とても素敵なコメントありがとう。
本当はここに掲載する前に承諾を求めるのがスジでした。ごめんなさい。

書きたいことがたくさんあるので、そのうちトラックバックとして、別の記事でCanaさんへのレスポンスを書いてみたいと思います。


tu-ta
2006/07/18 18:55

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