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zoom RSS 「 ナショナリズムとジェンダー」読書ノート

<<   作成日時 : 2007/02/21 03:40   >>

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はっきりわからないのだけれども、おそらく2003年頃の読書ノートから。
もしかしたら、もう既にブログに掲載済みかも?

===
ナショナリズムとジェンダー
上野千鶴子 青土社 1998年
連れが大田区で借りたものを読み始めたら止まらなくなった。


1、序――方法の問題

「言語論的転回点 linguistic turn 」以降の社会科学はどれも、「客観的事実」とは何だろうか、という深刻な認識論的疑いから出発している。・・。歴史に「事実」も「真実」もない、ただ特定の視覚からの問題化によって再構成された「現実」だけがあるという見方は、社会科学の中ではひとつの「共有の知」とされてきた。社会構築主義と呼ばれるこの見方は・・・。 12p

<<「客観的事実」などないと後段で言っているのに、「客観的事実」とは何か、から出発しなければならないのか?問いの末に出されなければならない結論>>

・・。「歴史の偽造を許すな」・・・という掛け声がある。・・・。だが、「事実」はそのまま誰が見ても変わらない「事実」であろうか?
 ・・・。「事実」を「事実」として定位するもの、・・はそれを構成する視点にほかならない、・・・。社会的構築物としての「現実」とは物質的なものであり、わたしたちはそのなかで正統性を付与されたものだけを「事実」と呼び慣わしてきた。
 女性史にとってこの問いは核心的である。・・・、男仕立ての書かれた「正史」の背後に、いかに女にとっての「もうひとつの現実を構成するか――70年以降、第二波フェミニズムのもとで成立した新しい女性史の試みは、この課題に答えることであった。・・。
 このことを「慰安婦」問題ほどドラスティックに示した例はない。・・・。・・変化したのは事実の捉え方


2 戦後史のパラダイムチェンジ

断続史観 「抑圧から解放へ」の発展史観
連続史観 丸山などの日本人観
この両方の史観は戦後体制の正当化のために戦時体制を逸脱と見る。
ネオ連続史観(山ノ内靖) 3つの論点
 1、戦時体制は近代化プロジェクトの連続上に
 2、革新の主要な変数は国民国家に。
 3、「日本特殊性」論を超えた世界史的な比較を可能に。
  両陣営における「戦時動員体制」の重要性
21p

80年代になってから「国民国家」が分析概念に
「国民国家」の相対化は、目の前で巨大な国家が崩壊することを通じて、近代が「市民社会」という自律的な領域を成立させたという通念に反して、国家の肥大化した役割と「市民社会」の自律性を疑わせるという逆説的な働きの中から生まれた。22p
<<国民国家はほとんどの場合、その「崩壊」という局面で語られてきたのは、その通りだ。>>

国民国家を鍵概念として論じると、「経済的資本主義・政治的民主主義・市民的個人主義」の三点セットで語られてきた「近代化プロジェクト」をその西欧中心主義から引き離し、比較史を可能にする・・。23p

西川長夫
国民国家とよばれるものはすべて共通の性格と構造を持っており、個々の国民国家はそれぞれが一つのバリエーションにすぎない(・・・)。わたしは国民国家はのり越えられるべき歴史的産物であって、いま国民国家を論じることはそれをのり越えるべき方法の模索につながると・・。
「日本型国民国家の形成」

 ここでわたしは、・・・それに「ジェンダー」の変数を付け加えたい。
24p

わたしの古くからの読者のために補足しておけば・・・。・・・。わたしの分析の中では国家が過小評価されていたと、今になって振り返ることもできる。25‐6p

3 女性史のパラダイムチェンジ

 戦時化の「女性の国民化」については80年代以降、・・・。「国民国家」と「ジェンダー」の変数がその時期になってようやく「発見」されたからでもあるが、同時に、「近代化プロジェクト」がその限界をあらわにしたからこそ、初めてこのふたつの変数が可視化された・・。

後に検討するように「反省的女性史」が、何を「反省」の対象にするのかで問題の捉えかたは大きく違ってくることになる。


高群について述べる中で
==
ところで、近代の言説史が明らかにするのは「田園の思想」こそは、ありもしない過去をノスタルジーの対象として創出することで生まれた「近代」への反動思想であり、その限りでほかならぬ近代の産物である。50p
<<「田園の思想」が何をさすのかぼくにはわからないが、仮にそのようなものがあるとすれば、それは近代の思想ということができるだろう。しかし、それは「ありもしない過去をノスタルジーの対象として創出すること」とは限らないのではないか。イリッチを激しくつぶした上野さんは、サブシステンス志向の強力な対抗軸だろう。(ところが、どうも上野さんはイリッチをつぶした頃の上野さんではないらしい。末尾に補足をつける。()内は2007年ブログに掲載するに当たっての補足)>>



ここで見てきたように、近代総力戦が「女性の国民化」を図ったことに対して、フェミニズムの思想家たちはなんらかの意味で歓迎を示した。・・・。
 ここで忘れてはならないのは、「女性の国民化」プロジェクトは、当時の女性活動家たちにとって少しも「逆コース」でも「反動」でもなく、「革新」と受けとめられていたことである。62p
<<上野節全開。だから嫌われるんだろうけど、けっこう好き>>

「思想の保守性と行動の革新性――ファシズムとは、そういうものではないか」と加納は書く。だが、もうひとつ留保を加えれば、ファシズムの思想は決して「保守的」なものではなかった。「国体」というイデオロギーでさえ、いまだ実現されざる未完の「国家プロジェクト」の別名として「国民」の前に現われたのではなかったか。その「国体」を伝統の名で粉飾するレトリックに欺かれて、後世の歴史家はそれを「保守思想」と呼ぶのだ。
66-7p
<<保守ではなく、反動でもなく、植民地主義とでも言えばよいのか>>

総力戦という「公領域」のかつてない肥大の時期にあって、国民国家のジェンダー編制を再編するオプションは二とおりのものがある。ひとつは「性別役割分担」を維持したまま私領域の国家化をめざすこと、もうひとつは「性別役割分担」そいのものを解体することである。前者を「ジェンダー分離型」、後者を「参加型」と名付けておいた。このジェンダー戦略のオプションは女性解放の二つの路線としても「平等か差異か?」の対立として、久しく争われてきた。 67p

フェミニズムは文化被拘束的


「国家」の限界と「天皇制」の悪は、歴史によって事後的に宣告されたもので、そのただなかで生きている個人がその「歴史的限界」を乗りこえられなかった、とするのは歴史家としては不当な「断罪」ではないだろうか。・・・鈴木の女性史がすぐれた・・・つつも、しばしば「告発」史観と呼ばれるのは、このいわば歴史の真空地帯に足場を置くような超越的な判断基準のせいにほかならない。 82p

 (戦争への)女性の加害責任を問う反省的女性史観は、いったい何を「反省」の対象にしているのだろう?――その範囲を問うことで、反省的女性史が「一国史観」の限界を超えることができるかどうかが問われることになる。3つの派生的な問い
1、あの侵略戦争への反省  戦争一般への反省かどうか、よい戦争と悪い戦争の区別は?
2、女性の国民化を支持して、国民国家の行う戦争を支持するのか、女性の国民化そのものが批判の対象になるとすれば、どのような根拠で女性は国家を超えるのか。また、日本の「反省的女性史」の「加害者史観」はその問いを射程に含むのか
3,参加型と分離型の評価
 参加型でも男性を規範とした人間モデルのもとでは女性の再生産機能は「逸脱」にしかならない。

「女性の国民化」という問題構制はそれ自体のなかに解への可能性をはらんでいる。90p

それが国民と女性の背理を一挙に照らしだす。

女性の国民化というパラダイムが可視化してみせたのは、第一に「女性」が「国民」ではなかったというあまりにもあからさまな事実、そして第二に「女性の国民化」のために「国家」が直面したディレンマ

「フェミニズムは国家を超えられるか?」という問いを立てたとき、私は「フェミニズムはなぜ国家を超えなければならないのか?」というまことに素朴かつ根源的な問いに直面した。わたしはフェミニズムは国家を超えなければならないと考えるし、超えることができる、と思っているが、その理由はいまや明らかである。フェミニストの「国民国家」分析は、近代・家父長制・国民国家の枠のなかでの「男女平等」が原理的に不可能だということを証明したからである。

「近代化プロジェクト」は「女性問題 woman quetion」を生みだした当の原因にほかならず、フェミニズムはその歴史分析のなかで、近代化の枠のなかではこの「女性問題」の解決が不可能であることを証明してきたのである。その意味でフェミニズムは近代の産物でありながら、近代を超える射程を持っている。「女性の国民化」をめぐるフェミニスト分析が示すのは、「私領域」のジェンダー分析から始まったフェミニズム研究がついに「公領域」のジェンダー分析にまで及んだという事実である。

「女性」の解体を。そしてそれは「男性」の解体と同じことでもある。フェミニズムが近代の産物なら、近代とともにフェミニズムの命運も終るはずだが,フェミニズムは近代をくい破って生まれた「近代の鬼子」であった。フェミニズムによる「ジェンダー」という変数の発見は、ただそれを解体するためにだけある。

<<ここにはどう国民国家を超えるのかという問いへの答えはない>>

===転載ここまで===

上野さんの「転回」については 「境界線を破る!」読書メモにも少し触れたが、95年に森岡正博さんがエコロジーと女性−エコフェミニズムという文章で書いている。以下に部分引用しておこう。

==
…一九八三年に出版された、青木やよひ編『フェミニズムの宇宙』に、青木やよひは「女性性と身体のエコロジー」という論文を書き、エコフェミニズムの立場を鮮明にした。(中略)
 青木のこの論文が、日本におけるエコフェミニズム宣言であった。この論調は、あきらかに一九八〇年初頭の英米でのエコフェミニズム運動の盛り上がりと呼応して生じたものであろう。しかし、この青木の論文は、当時論客として登場しはじめていたマルクス主義フェミニスト上野千鶴子から痛烈な反論を浴びることになる。上野は、青木のような「女性原理」派フェミニズムが、既存の男性文化を相補的に補完するにとどまってしまう点を鋭く指摘し、「女性が「男のよき左手」になることに、男性が反対するはずもあるまい」(上野 一九八五年:一五五頁)と切り捨てた。これをきっかけに、いわゆる青木―上野のエコフェミ論争が生じたが、実りある結論が導かれたわけではなかった。むしろ、この論争を通じて、エコフェミは反近代主義・母性主義を導く危険思想だという雰囲気がフェミニズム陣営に共有され、これ以降八〇年代後半にかけてエコフェミニズムが一種のタブーになった感すらある。そのあいだも、海外では、エコフェミニズムは着々と議論を積み重ね、論文集や教科書が出版されるようになっていた。この数年間のブランクは、日本のエコフェミニズムにとって大きな損失であったのかもしれない。
 日本のこのような状況は、一九九三年ころまで続く。九三年にイギリスのメアリー・メラーの『境界線を破る!』が翻訳されたころからふたたび状況は変わりはじめる。海外の書物が翻訳されるようになり、海外のエコフェミニストを呼んでの会合なども開かれるようになる。一九九四年四月には、エコフェミニストであるマリア・ミース、メアリー・メラーらを呼んでシンポジウムが開催された。その司会には、青木やよひ、上野千鶴子らが当たっている。上野はその会議のレポートで、ヨーロッパのエコフェミニズム運動を評価し、環境問題に対する女性の闘いこそ今後のフェミニズムの重要課題であると述べている(上野 一九九四年)。上野千鶴子のこの「転回」によって、日本でもふたたびエコフェミニズムの議論は活性化しはじめるであろう。それにしても、一九八〇年代半ばから約一〇年間の空白期間を許してしまうこととなった日本のフェミニズムの屈折、とくにそれが「母性主義」に触れたときに見せる屈折については、改めて深い考察を加える必要があると思う。
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