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zoom RSS 『美術館で愛を語る』読書メモ

<<   作成日時 : 2008/01/20 09:28   >>

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岩渕潤子著(2004年PHP新書)
『ニューヨーク午前0時 美術館は眠らない』などの著書もある著者、日本で美術館に関する本をいちばん読ませている人と言えるかもしれない。

ちょっと意外な組み合わせだが、原爆の図・丸木美術館の針生一郎館長も彼女の美術館に関する本を参照して美術館の経営・運営のありかたの話をしたりする。そんな針生さんの話を聞いていたので、偶然BOOK-OFFで見かけたこの本を買って読もうと思ったわけだ。

この著者のおいしいものを食べて、気持ちのいいホテルに泊まるとかいう話もたくさんでてくるこの本。「愛を語る」っていう切り口も嫌いじゃない。
この本で語られるのは大きな総合美術館の話が主で、小さな個人美術館の話はほとんど出てこない。そういう意味で、小さな個人美術館の運営にかかわるぼくが具体的な美術館運営関連の話で読むべきことはあまりなかった。しかし、前書きに書かれている美術館に関する問題意識は鮮明で、そういう視点があるからこそ、針生さんも引用したりするのかと思う。

その問題意識が鮮明に出ている部分を少し抜書き。

===
…私がそこで、「美術館に行くのは子どもの情操教育にとって不可欠であり、小さいときから美しいものを見て、繊細な心を育てることは、豊かな感情の発達のためにもっとも重要なことです」などと笑顔で答えることは許されない。それは、芸術を知らない人にだけかろうじて許される、たんなる言葉の羅列であって、何の意味もなさないのだ。安易に予定調和的な発言をしてしまっては、いままで何年もかけて世界中の美術館を何度も訪れることによって、ほんのわずかずつ、皮膚の穴から吸収してきた知識と体験を無駄にすることになる。(略)
 現代に生きる私たちが美術館に行くことの社会的な意味は、自分とはちがった人がこの世のなかにはたくさんいて、彼らは自分とはちがった世界を見ている……ということを知ることにある。世界は均質でも均一でもない。・・・36p

 作品を通じて表された作家の価値感、彼が置かれていた境遇、当時の歴史などが、たとえ同じ画家の作品だったとしても、作品の数だけの微妙な違いをもって存在しており、・・・(略)・・・。美術館とは、歴史を超えて、芸術家たちのそうした表現を集めた場所であり、そこを訪れる無数の人たちは、一点一点に異なった反応を示し、それを見たことによって、過去に思いを馳せ、未来のことを夢想すればよい。
 美術館とは、だれ一人、同じことなど考えてはいけない場所なのである。だからこそ、現代芸術を見て「理解できない」と思うのは、一つの正しい反応であって、理解できないことに理由を探して説明しようとしたり、理解できない自分に苛立つのは理不尽なことだ。
 自分がわからないからといって、子どもたちに見せることをやめたり、子どもたちがおもしろがっていることにとどまってはいけない。教養のあるオトナ、すなわち、多様な価値観に寛大な人ならば、・・(略)・・、たとえ理解できなかったからといって恐れることなく、つくづく眺めて、それから、「へえ、わからないな」といえばよいのである。見て、考えることから、すべては始まるのだ。  37p

 私が日本の美術館を嫌悪している、おそらく最大の理由は、本来、多様な価値観の器であるべき美術館が、何か均質的なものを醸し出す装置として、建物やその空間から、いやらしい圧迫感を漂わせているからではないかと思う。美術館の外観はそれなりに建築家の自己顕示欲が現れた造りになっているのだが、一歩なかへ足を踏み入れると、どこの美術館もみな同じような印象で、日本全国どこへ行っても「美術館はこんなもの」という、凡庸でおもしろみに欠ける空間になっている。 38p

 多くの日本人は、海外旅行をすると、不思議なほどよく美術館に足を運ぶようだ。そして、美術館を訪れたほとんどの人が、何を見たかはよく覚えていなかったとしても、その美術館について好印象をもって帰ってくる。いったい、それはなぜか。
 たぶん、それは、美術館を訪れている大勢の人たちがみな目を輝かせ、しあわせそうにしているからではないかと私は思う。 41p

===

美術館ってなんだろうと、あらためて考える。
はっきりしているのは単一の答えなんかないということだろう。ぼくにとって、あなたにとって、それぞれの美術館のありようがある。その問いは美術あるいはアートっていうのが何なのか、という問いにもつながる。

確かに著者が書くように、「子どもの情操教育にとって不可欠であり、小さいときから美しいものを見て、繊細な心を育てることは、豊かな感情の発達のためにもっとも重要なこと」だけではないだろう。ただ、美しいものを見て感じたい、感じて欲しいという思いもあるだろうが、それだけじゃないとぼくも思う。ま、ぼくは自分が芸術を知ってるとか、とても言えないから、何を言っても自由だということは喜びたいと思う。しかし、「私は芸術を知ってるから違うことを言いたい」と書ける強さはえらいと思わなくもない。

「現代に生きる私たちが美術館に行くことの社会的な意味は、自分とはちがった人がこの世のなかにはたくさんいて、彼らは自分とはちがった世界を見ている……ということを知ることにある」

それも美術館で見ることができる大切な価値かもしれない。しかし、そこに著者は価値を見出している。そのこともまた否定はできない。しかし、違和感は残る。

そもそも、美術館に行くことの社会的な意味は?というように問いをたてることに、どんな意味があるのか考えてみる。社会的な意味を求める立場を否定はしない。しかし、求めない立場もありうるだろう。どちらかと言えば、ぼくは社会的な意味を求めたりするタイプだし、やはり、そこに税金が投入されたりもするのだから、美術館の存在自体には社会的な意味づけが必要なのだろう。しかし、そこに行くという行為の社会的な意味は、それこそ均質でも均一でもでもなく、また、その違いを知るためにあるということではないと、ぼくは思う。

また、「美術館とは、だれ一人、同じことなど考えてはいけない場所なのである」とも思わない。同じことを考えることを強制されるのはまっぴらで、うんざりで、断固として嫌だが、同じことを考えてもいいはず。とりあえず、考えるということに枠をはめたくない。いろんな感じ方を枠にはめないために、そんな風に書きたくなる気持ちは、とりわけこの同質性を強制されやすい日本という社会のなかで、わからなくもない。

「見て、考えることから、すべては始まるのだ」とも著者は書くのだが、始まりは考えることではなく、感じることではないだろうか。まず感じること、そこをぼくは強調したい。確かに考えなければ感じることもできない人もいるかもしれないけれども。


そして、日本の美術館にもっと素敵な空間になって欲しいというのは、その通りだと思う。外国の美術館をほとんど知らないぼくがいうのも気が引けるけど。確かに日本の美術館は絵を見て感じたい人が自由に感じることを、ちょっと拒否しているような、ちょっと「お高い」感じが多い。そこは超えていく必要があるのだろう。



美術館に行くことの意味・・・・。
ぼくにとって、美術館は心のずっと奥のほうにあるものを揺すってくれるものを探しに行く場所、と言えるかもしれない。

こんな風なことを考えさせてくれたので、前書きだけでも、読んでよかったと思う。

時間がなくなったので、とりあえず今日もここまで。









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