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zoom RSS 野崎さんの報告について 追記

<<   作成日時 : 2009/09/01 04:41   >>

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野崎さんの報告要旨を読んで、触発されるものがあったので、あわてて忘れないようにメモを書いたのが
「はたして、ほんとうにそうか。」
http://tu-ta.at.webry.info/200908/article_18.html
なんだけど、確かにあわてて書いたメモだけのことはあり、あまりにも穴が多いような気がしたので、少し補足追記。

野崎さんは称揚されることを否定しているわけではない。そのことによって、人間の存在を肯定しようとする立場=属性主義を否定している。

「属性を、属性主義とは無縁なものに転轍する必要がある」という。

その人が何か出来るとかいうことで、その人の存在の価値が語られるというようなことはある。

まず、「存在を肯定する」とかいうのが、何か「上から目線」で気分悪い感じがないわけじゃない。「勝手に『肯定する』とか言うな」って言いたい気分はある。


野崎さんは書く。
===
「その人が在ることを肯定する」ということは、人間が存在することの基盤を、社会的属性にではなく、単に「その人が存在する」ことに求めよう、と言っていることになる。
===

人間が存在することの基盤ってナンだろうと思う。
(カレーをつけて食えばいいってわけじゃない)

基盤とか必要なのか。
生きて、存在してるから存在してるわけで、そもそも基盤とか求めなくてもいいじゃないか。こういう話がでてくる背景として、「何もできないんだから、医療費をかけるのは無駄だから、殺しちゃえ」という話がある。だから、「存在の肯定」とか、ちょっとわずらわしい感じの、そんな話が必要になったりする。

そういうことへの反論として、野崎さんは主張しているのだと思う。

何かができるとか、こいつはこんなにいい奴だから、というようなことを存在の肯定の根拠にするなって話なんだろう。

しかし、それはストレートに「そんな風に言っちゃうと消される人がでてくる」という風につながるのだろうか。

そのあたりが問題なのだと思う。


そう、さっきの話にもどるが、「存在することの基盤」とかが問題にされちゃう社会っていうのが、なにか違うんじゃないかと思うわけだ。

「生きていてほしい」っていうような単純なことを、医療費がどうしたとか、そのことで救われる別の命があるというようなことで、消さないで欲しいと思う。

なんだかんだというのだけれども、移植医療の推進はそんなことにつながりかねない感じがあり、いやだ。


だから、その人ができることとか、こんな人だからということを、ことさら、その人の存在の肯定の根拠にして欲しくないという感じ、そこのところまでの前提は共有してるんじゃないかと勝手に思っている。

で、その先での違和感について書いている。

「ことさら存在の根拠なんかにして欲しくない」とは思うのだが、自分の存在の根拠を「自分ができることやできないこと」あるいは「こんな属性をもった自分」に置くことは、間違っているのだろうか、とも思う。

もちろん、他人に言ってほしくないというのはある。だけど、捨てられない自分の属性はあり、それは、けっこう自分にとってはいとおしいもので、そのことと自分の存在の根拠みたいなことは、かなりストレートにつながっているようにも思う。


そんなことを考えた。
というのは、野崎さんの報告要旨の前半の部分にかかわる話だ。

要旨の後半には「同じ属性による共同性が強制されるような状態への拒否」というようなことも書かれている。生まれた地域や家の共同性というのは。どんなレベルであれ、アプリオリに存在している。それを人工的に作られた「国家」とかにつなげないで欲しいとは思う。また、地域や家の共同性を選びなおす自由もほしいと思う。

それが新しい親密圏とか、コミュニティの再生っていう話にもつながっていくのだと思う。

野崎さんは、「社会的な属性による紐帯も否定するものでもない」と書いた上で、「否定されるべきは、『同じ属性であるからこそ共同性が立ちあげられるべきである』という属性主義である」という。

その二つがほんとうにわけられるだろうか?
「社会的な属性による紐帯」は肯定され、『同じ属性であるからこそ共同性が立ちあげられるべきである』という回路は批判される。この二つの切り分けがどのように可能になるのだろう。

そして、この先で、再び『人間存在の基盤』という話がでてくる。
こんな風に書かれている。
===
属性主義への抵抗は、同じ属性であることによってその存在が承認されるという論理、つまり人間存在の基盤としての共同性を立ち上げるべきだという回路を批判するものなのである。
===

「同じ属性を持つと考えられるもの以外(あるいは違う属性を持つと考えられるもの)が否定されるということ」は否定したいと思う。しかし、さっきも書いたように同じ属性であるという共同性は存在している。地域や家族という共同性はどんなレベルであれ、ある。それを個人として否定し、捨てることもある程度可能だが、それは存在している。それはすでに立ち上がっていて、個人的になるだけそこから離れることはできても、消すことはできない。

そのことと『人間存在の基盤』というのがどうつながるのか。そこでわからなくなって混乱してしまう。

人間が存在する基盤に共同性はあるんじゃないだろうか。共同性がないところで生きていくのは難しい。

問われるべきは『同じ属性』かどうかを誰が決めるかという話じゃないかとも思う。

だから、「人間存在の基盤としての共同性を立ち上げるべきだという回路を批判するものなのである。その意味において、属性主義に対抗するのはディアスポラ性である」というときの、「その意味において」という前提が承服できないし、その上で「属性主義に対抗するのはディアスポラ性である」といわれても、「なんだかなぁ」と思ってしまう。

でも、そのことが、どのように「ディアスポラとしての障害」という話につながっていくか、どのように「こうした議論は、『障害はないにこしたことはないか』という疑問に側面から答えるもの」になるのか、興味は尽きない。

その答えは障害学会で、ということになるのかなぁ。

でも、もしこれが長い発表論文だったりしたら、ぼくには内容を読みこむことができず、理解できなかったと思う。短い発表要旨だから、勝手にイメージを広げることができ、触発され、楽しい。やぱり学会とか行けなくて正解かもしれない、なんて、ちょっと強がってみる。



すごく短い報告要旨にぼくは触発されただけで、ぼくの解釈がぜ〜んぜん外れているってことは、ありそうな話だとも思うので、ぼくが書いたこのいいかげんなメモだけで野崎さんの報告について、何かわかったようなつもりになるのは、とても危険だということはちゃんと書いておきたいと思います。


読み返してたら、その途中で疲れて、眠くなってきたので、最後まで読み返すのもあきらめて、ここでアップロードします。



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タイトル (本文) ブログ名/日時
Peter Singer がQOL指標に配給医療を導入せよ、と
NY Times MagazineでPeter Singerが配給医療制を導入せよ、と提言しています。 冒頭に書いている腎臓癌の例えが論旨を要約していると思うので、ざっと大まかに訳してみると、 ...続きを見る
Ashley事件から生命倫理を考える
2009/09/01 13:32

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内 容 ニックネーム/日時
Peter Singerが7月にNY TimesにQOLを指標に配給医療を導入せよという趣旨の論考を書いているのですが、その中に、ちょうどここの話に当てはまる部分があるので、以下に訳してみます。(前文をまとめたエントリーはTBしますね)

「四肢麻痺の生が四肢麻痺の無い生と同じくgoodであると主張するならば、四肢麻痺を治療することで得られる健康利益もないことになってしまう。事故で全身麻痺になった後に、脊髄損傷の治療研究をもっと進めるようキャンペーンを行ったクリストファー・リーブなどは、そんな考えを強く否定するだろう。障害者アドボケイトは、障害のある生も障害の無い生も等しくgoodであると主張するか、自分たちの障害への治療研究に社会からの支援を求めるのかの、いずれかを選ばざるを得ないように思われる。」

「障害はないにこしたことはないから、治療方法を模索するのであり、そうであるなら障害のある生は障害のない生よりQOLが低く、同じくgoodではありえない」というのと、属性主義というのとは、ちょっと距離があるような感じがして、周りとの関係においてよりも、むしろ障害者当人のQOLの問題として、突っ込みを入れて恫喝されている感じがするのですが……読ませてもらって、ぱっと頭に浮かんでSingerを穿り出してみただけなので、ズレていたら、すみません。
spitzibara
2009/09/01 13:28
cana は
おんなじ障害だから、友だちになろうよ と誘われると

逃げ出すタチです。

障害名はおんなじでも
あなたとわたしはことなるひと

そこをていねいにみないひとは
なにかあると

わかってくれない と
おこりだしてしまう可能性が高いからです。

女同士だから、わかりあえるよね というのも
キライです。

女だから
共通の体験をしていたり

共通の感覚をもっていたりすることは
たしかにあります。

けれど
それが語られることなく

〜よね と
押しつけられてしまう感性は

女って、こんなもの という
よた話とつながりかねない。

『五体不満足』を書いた著者が
障害者福祉の世界で活躍しなかった という

不満の声が
ねづよかったと、ききましたが

おんなじ障害者だから という
押しつけが

背後に
つよくはたらいているのを感じました。

きめつけや
おしつけが多いこの世間

それから
すこしでも自由でありたいです。
cana
2009/09/02 09:05

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