今日、考えたこと

アクセスカウンタ

zoom RSS 「ぷちナショナリズム症候群」メモ、2002年に書かれた不吉な予言と8年後

<<   作成日時 : 2010/05/02 06:02   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 2

読書メモ
===
ぷちナショナリズム症候群
若者たちのニッポン主義
香山リカ著
===

温泉でただゆっくりするのに、すぐ飽きてしまう堪え性のないぼくは、帰省して、近所の温泉で読むための本をブックオフの100円コーナーで探した。そこで選んだのが上記の本だ。

なかなかにおもしろく、温泉のなかでほぼ読み終わった。

読んでる最中に、この本の予言がかなり的確であることに驚く。8年前に新自由主義が日本にひどい状況をもたらすことをかなり的確に予言している。この本が書かれた2002年といえば、日本をひどいことにした小泉改革が吹き荒れる前の話だ。竹中平蔵が政府で大きな顔をしはじめたか、まだしていないかのこの時期に、竹中が対談で「金儲けはクリエイティブで楽しい」というような発言を引用し、それを危惧している。

小泉の新自由主義改革の破綻が明確になり、その後、誕生した安倍政権という明確なナショナリスト政権も破綻し、リーマンショックをきっかけとする大不況と派遣切りで明らかになった日本における階層化、「下流」の大量発生。そして、「在特会」という「ぷち」とは言えないナショナリスト・排外主義者が日本中で行動を起こしている現在、八年経った時点で、この本を読み返す意味があるように思う。

で、これって予言の本だなぁと思いながら、読み進めていたら、終章はほんとうに予言について書かれていた。

気がついたら、とても長いが内容のないダラダラしたメモになってた。



付箋を振り返りながらメモ

フランスと米国と日本のナショナリズムが比較される。ルペンが躍進したのはこの頃だっただろうか。

フランスの「底辺層・失業層」が移民が悪いという単純なロジックで極右への支持を固めるという状況について、その知識層は二重の反省状況に置かれているかもしれないという。それは過去への反省と、貧しい人が排外主義に走る現在への反省。その反省が現実の生活になにももたらしてくれないことへの反発。香山はそれを9・11をきっかけとする米国の愛国やスポーツに表現される韓国のそれとは異なるとし、ヨーロッパが得意としてきた理念や思惟は、その声に歯止めをかけることができるのか、と問う。

また、いままでみてきた米国・韓国・フランスのそれはと、斎藤孝からの日本語ブーム(もう去ったかな)や日本のサッカーの応援などにみられる”ぷちナショナリズム”にはかなり違いがあるという。

ずっと日本人は「日本は特別」という思いを抱いてきたのだが、しかし今まではなかった”ぷちナショナリズム”に至ってしまった原因として、社会状況をあげる。

それを精神科医として分析するなかで、「エディプスの葛藤の不在状況」が生じているのではないかと書く。

香山はこんな風に書く
===
・・・無意識の奥に抑圧されるまもなく、「あ、これは自分にはしんどいな」と思った瞬間にそれを人格から切り離してしまえば、コンプレックスすら成立することはない。
 そう考えれば、エディプス・コンプレックスの影が薄くなりつつあるのは、単に「・・・父親の権威が失墜した」などといった社会的な原因によるのではなくて、子ども側にそもそも何かをコンプレックスとして人格の内部に貯蔵するだけの心の体制が作れなくなったから、という本質的な心の変化が原因にあるのかもしれない。82p
===

従来なかった世襲などへの屈託のなさを例にそういわれるのだが、ぼくには日本の最近の若者はぼくなんかより、よっぽど何かをコンプレックス(劣等感という意味ではなく)として抱え込んでいるようにも見えるのだが、どうなんだろう。

ともあれ、二世が屈託なく肯定される社会は生まれながらの身分社会を肯定することにつながる望まれない社会だろうということで、この章は閉じる。

しかし、このエディプス不在説は次の章で、香山が北山修のそれへの反論を引用し、その否定を肯定することで、ちょっとわかりにくくなっている。

第3章のタイトルは
日本は「本当のことを言える国」か?

さきに紹介したように北山修はエディプスは世界に普遍的な現象で日本にもあるのだが、それを語れない構造があるのではないかと主張している。「それが天皇制や右翼的なものが語りにくいということと関係があるのでは」というような部分を含めて、もう少し長く引用しているのだが、これだけではよくわからない。(「みんなの深層心理」から)

ともかく、この章では「分裂」とか「解離」という精神医学の用語の説明があり、それが病理としてではなくカジュアルに若い人に使われているという。そこから若い人があっさり口にする「ニッポン大好き」を真意として鵜呑みにしてもいいのかという問いを立てる。

そして、この章の結語近くで、以下のように書く
===
 このように心理的メカニズムから考えても、さまざまな普遍的な原因、あるいはいまの日本でとくに広がっている原因などにより、「言いたいことを言う」とは非常にむずかしく、そうたやすく「日本社会は自由なのだから、そこでの人々の発言はその人の意志に基づいたホンモノだ」と言い切ることはできない。
===
と書く。しかし、難しい話だと思う。言いたいと思って言ってることが言いたいこととは違うとしたら、なにをどう判断すればいいのか。

第4章
進む階層化、変容するナショナリズム

この章では階層化の進行と各階層によるぷちナショナリズムの傾向の違いがテーマになる。

2002年の段階で、階層化の進行を指摘しているというのも、かなり先験的だと思う。

いくつかの例で階層化の進行を指摘した後、1960年代生まれの論客の現実主義の問題が指摘される。2002年段階では、ここに「若き論客」という見出しがつけられているが、八年経ったいま、それは言いにくいだろう。

まず村田晃嗣の改憲論が紹介されたあと、それは以下のようにまとめられている。
===
「私は戦争のことなど知らない。そんなことより、いまにも近隣諸国が攻めてくるかもしれないのだから、集団的自衛権の行使の禁止、などといった筋違いのことはやめてほしい」といったこの主張は、「戦時下の愛国詩暗誦運動なんて知らない。それより、いま、美しい日本語を暗誦して心身を鍛えた方がいいじゃないか」という日本語ブームや、「歴史のことなんてよくわからないけれど、いまニッポンチームを応援するための「「日の丸」」を振るのが、どこが悪いの?」というW杯サポーターなど、ぷちナショナリズムに傾いている人たちの動きとも、ぴったりシンクロしているのではないだろうか。115p
====

ぼくはこれらを「ぴったりシンクロ」と言ってしまっていいのかどうか、少し怪しいと思う。それぞれが香山の言う「ぷちナショナリズム」にまっすぐつながっているようには思うけれども。

次に紹介されるのが西部忠の「地域通貨の意義と可能性」

ここで香山は西部がさまざまな社会現象について、市場領域の拡大と非市場領域の帰結にすぎないという風に言い切る目の前にある現実をそのまま受け入れる態度を批判するのだが、彼がそれでいいと思っているわけではないという説も紹介する。このあたりの香山の記述にぼくはついていけない。とにかくその文脈で地域通貨が出てくるのだが、香山は、その論に従うと、大多数は地域通貨には向かわないだろうと批判する。

そして、この節の結語として、香山は以下のように書く。
===
・・・社会そのものやそこに生きる人々が・・・、目の前の現実を歴史という大きな時間の流れの中で考えたり、反省や懐疑の念を抱いたり、後悔や汚点として自らの記憶に刻んだり、といったことを回避する方向に進んでいる。そういう中では、いま起きつつあるぷちナショナリズムに対しての危惧や警戒もほとんど生まれないであろう。「ニッポン? 好きだよ。強い国になる? いいことじゃない」という屈託のない日本型のぷちナショナリズムを止める要因は、現在のところまったく見当たらないと言ってもよい。122p
===

さらに次の節では「ロー階層」がフランス型のナショナリズムにひきつけられていくのではないかという危惧が表明される。

八年後のいま、「ロー階層」は表面化し「在特会」などの排外主義勢力も顕在化してきた。現状ではそれが強固に結びついて、国勢選挙で一定の勢力を占めるという欧州でみられるような事態にまでは至っていない(東京都知事という姑息でひどい排外主義者はそれなりの支持者もいるが)。

この記述の後、香山は石原新党への危惧について語った後に、章の結語として、中間層が地盤沈下し、ナショナリズムへ向かい、「ロー階層」もそこになだれ込み、エリート層もそこに追随して、総ナショナリズム体制が生まれることを危惧し、その答えは以外に早く明らかになるのではないかという話でこの節を閉じる。

この八年間の小泉改革とそれを引き継ぐ自民党政権の悲惨な結果があった。安倍や麻生という最悪のナショナリストが首相の座についたりもしたが、小泉改革の悲惨な結果はナショナリズムを生むのではなく、少しだけリベラルで限定付きの福祉国家的政策をかかげた民主党政権を生むことになった。

米国経済の崩壊と巨大な中国マーケットの顕在化がナショナルな方向への転換を拒んだという側面もあるだろう。

香山が危惧したような悲惨な時期がくる予感はあり、教育基本法の改悪もあったが、その流れはいったん途切れた。

第5章
「愛国ごっこ」のゆくえーー三つのシナリオーー
ここでは本格的なナショナリズムに向かわせないための3つのシナリオがあげられる。

シナリオ@
鬱積した不満を祭りへ回収?

ここでYOSAKOIソーラン祭りが例に出される。そして、以下のようにまとめられる。
===
行き場のない若者のエネルギーが全体主義的な社会の形成に向かっていくのを一時的にくい止めるためには、ぷちナショナリズム的な「和」のブームや、ニッポンの要素を取り入れた祭りやイベントもしばらくは有効であろうしかし、これは何かのきっかけでフランス型ナショナリズムに転じていく危険性もはらんだ”賭け”でもある。
===

シナリオA
すべてから降りるという選択

ここで例にあげられるのが「きみはペット」という漫画。エリート女性がペットとして若い男性(モモ)を飼うという漫画なのだが、ペットの彼は階層を越えた存在として描かれる。モモのような階層からはずれた存在と結託することが、目の前に起きている現象を歴史につなげる視線を含んだ思考を成立させる可能性を持つのではないか、と香山は書く。また小倉千加子と上野千鶴子の対談での小倉の「理念的な理由から結婚制度の崩壊をめざすフェミニズム」と「自己利益を最優先させるあまり結婚制度の崩壊を生んでしまう新・専業主婦」が結託することが可能だという例を出す。

@とAは日本に蔓延するぷちナショナリズムをフランス型ナショナリズムに移行させない応急処置だという。

シナリオBは山崎正和の、このぷちナショナリズムはかっこよさを求めているだけなのだから、心配する必要はないのではないかという主張をとりあげるが、事態はそれほど楽観できないと香山は結論づける。

八年後の今、言えることは、それぞれの予想のような形で回避されたわけではないが、本格的なナショナリズムはまだ到来していない。ただ、小泉末期から安倍政権の時代は本格的にそういう時代がくるのではないかと予感されるような時代ではあった。新自由主義の破綻が明確になったことと、小泉以来の自民党政権のだめさに乗って民主党の政権ができたことが、とりあえず現状でそれを拒んだともいえるだろう。ただ、さきにも書いた「在特会」の登場や自民党の内部崩壊的状況は排外主義が勢力としてデビューする危険をはらんでいるが。

欧州のように排外主義の勢力が10%のとかの得票を持つ可能性があるのかどうか、あるいはそうさせない何かが可能なのかどうか。


終章 
歴史への責任ーーあるコラムニストの予言から

ここでは亡くなったナンシー関がとりあげられる。彼女は「W杯の時期が来るのが気が重い」としていた。彼女は大きなスポーツイベントで人がなぜか心ひとつに束ねられてしまいがちなのはわかっているが、2002年のW杯ではその束が太いから、気味が悪いと説明していたらしい。

香山は、その気味悪さを解説するのが言論人、知識人と呼ばれるものの役割であるはずだという。

W杯の応援が好きな後輩の話を聞いていると、束のなかが心地よいと感じているようだ。そこでは話が通じないだろう。今年はこれが書かれた年から8年後なのでW杯の年だ。岡田ジャパンが人気がないのが救いと言えるだろうか。いずれにせよ、最低限、ぷちナショナリズムと本格的なナショナリズムのつながりがちゃんと説明できないと、ナショナルチームが大好きな彼らを説得するのは難しいだろう。ぼくには荷が重い。

ぼくもまた、国民国家を自分の皮膚のように内面化させられているように思う。だから、ナショナルチームを応援したくなる気持ちはわからないでもない。もちろん、日の丸や君が代はうんざりだけど。国民国家を相対化できない限り、このナショナルチームに吸い寄せられる心情は否定できないのかも知れない。ナショナルチームという実体を持つ虚構。しかし、それは並外れた吸引力も持っている。

ナショナルチームへの熱心な応援が止められないのであれば、その虚構性とかナショナリズムに吸引される危険を説くのではなく、ナショナルチームの応援とナショナリズムを引き剥がすような努力のほうが有効なのかも知れないとも思う。

ここで香山は高村薫も例に出す。高村の『晴子情歌』についての以下のようなインタビューが引用されている。
===
 戦争の話をしたいのに、誰もそんな話には乗ってこないし、戦争のことも知らない。そして・・・、じつに無邪気な右傾化が顕著になっています。
 子どもの頃からたまりにたまってきた、この国への違和感、大人社会への違和感。そうしたものが、これまでわたくしに物を書かせてきました。『晴子情歌』はずいんぶん今までの小説とは外見が違いますが、根底にあるのは同じ違和感です。
===
 香山は、この違和感もナンシーの「気味悪さ」と共通項をもつという。さらに高村がミステリーを離れた原因として「無邪気な右傾化」などについて誰もそのことを語ろうとしない状況に業を煮やし、「小説家の義務、歴史への責任」をいう。

この本の最後に香山はナンシーの楽観的な予言を紹介する。香山が呼ぶ現状のぷちナショ状況に心配はいらないというようなことをナンシーが書いているのに対して、予言の結果は私たち次第だという話で閉じる。


向こう側の失点で日本のナショナリズムは本格化しそうになりながらも、本格化することなくこの本から8年が過ぎた。私たち次第という状況はそのままだと思う。





追記

どうでもいいような話なんだけど、どうしてかわからないがいつからか彼女の香山を「こうやま」と思い込んでいて、普通は「かやま」なのにおかしいなと思っていたら、奥付の著者のルビは「かやま」になってた。どこかでそんな名前の人に会ったような気もするんだが。





せられて、上記の記事が「面白いかも」って思ったら、この下にある「人気blogランキングへ」というのをクリックしてください。
人気blogランキングへ

クリックしてくれた人数のランキングです。クリックするとランキングのサイトに飛び、うんざりするような排外主義ブログのタイトルの山を見ることになります。こんなランキングに登録するバカバカしさを感じないわけでもないんですが、・・・
でも、クリックしてもらえるとうれしかったりもします。

人気blogランキングへ

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
別にナショナリズムについて心配しなくてもいいのでは?そもそもナショナリズムは今に至るまで高まっているようには思えません。
そもそも右傾化したというのも保守が言ってた訳ではないのでしょう?
単にリベラル的な言論に対し拒否感を持つ人が増えただけだと思います。
R2
2010/06/03 18:34
R2さん、コメントありがとうございます。
すごく遅れたレスポンスで申し訳ありません。まだ、見てもらえたらいいんですが。
2002年に拉致を北朝鮮が認めてから、ミサイル発射を経て、安倍政権に至る過程で、北朝鮮を敵とするナショナリズムは確実に高まったと思っています。それは「単にリベラル的な言論に対し拒否感を持つ人が増えただけ」というのとは違うと感じていました。もちろん、「拒否感を持つ人が増えた」という側面も否定できないとは思いますが。「リベラルな福祉国家」が否定され、ネオリベに行き、社会がかなり破壊され、それではだめだということが理解され始めたのが、現状の姿だと思います。しかし、そこから先の方向はまだ見えないままですが。
tu-ta
2010/06/07 02:25

コメントする help

ニックネーム
本 文

トップ頁の右上に広告が入るようになっちゃいました。それがいやな人はさらに追加してお金を払いなさいとのこと。というわけで、この広告クリックしないでください(なんて、けなげな抵抗)。==============ブログ内ウェブ検索

ブログ内 を検索
「ぷちナショナリズム症候群」メモ、2002年に書かれた不吉な予言と8年後 今日、考えたこと/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる