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zoom RSS 「哲学塾 共生から」メモ

<<   作成日時 : 2010/07/30 03:32   >>

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『双書 哲学塾 共生から』 川本隆史著 岩波書店2008年

カバーの袖とHPに記載されている紹介
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「共生」とは,異質なものと対立・緊張をはらんだ豊かな関係性をきずくことです.「共生」にはさまざまなモチーフがこめられています.孤独,ケア,教育,臨床,エコロジーという問題群から共生を考えます.補講では,「人間の権利」を再定義して人権概念の深化を試みます.もっとも現代的なテーマをやわらかい口調で説く倫理学講義.
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読書メーターにはこんな風に書いた。
「読みやすそうで読みにくく手強い本だった。予想外に時間がかかった。まとめれば、それなりに得るところはありそうだ。まとめないと忘れちゃいそうだけどね」

この本を読むことになったきっかけは覚えていない。
図書館にリクエストして借りたのは間違いないんだけど。図書館の返却期限をかなりオーバーしてもメモが書けなかったので、結局購入してしまった。


以下、抜書き&メモ

ダウン症の子どもが、発語訓練を焦る教師の前で突然セキこみ始めたという実例に竹内敏晴さんは以下のように書く「共生態としてのからだをもはや失っている大人にとっては、その意味は、了解不可能です。これはかの少年にとっては拒絶されたこと、むしろもっと強く言えば裏切りにほかならない。つまり、現代の話しことばというものは、共生態としてのからだそのものから発してくるのではなくて、共生態としてのからだの、死を意味している…」


井上達夫さんの『岩波 哲学・思想事典』での共生の定義
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この語が現在の日本で多用されるようになった背景・・・「調和や一体性の幻想が崩壊し隠蔽抑圧されていた対立が噴出する状況の下で、新たな共存枠組みを模索する問題意識が根底にある」だから「現代的意味での共生は、自他が融合する「共同体」への回帰願望ではなく、他者たる存在との対立緊張を引き受けつつ、そこから豊かな関係性を創出しようとする営為である」し、したがって「共生は異なるものの共生であり、差異への権利と対等者としての承認要求を統合する企てであって、被差別者の「同化」とは根本的に異なる」
===

この後で、花崎さんの「共生」についての理解が紹介され、最後に川本さんのパートナーとの手話表現での「共生」についての話で1日目の講義は終わる。また、参考として提示されている『現代倫理学事典』(弘文堂2006年)での栗原彬さんの定義の一端も興味深い。
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「強いられた共生」に発して「重層的な共生社会の構築」までを展望する一文
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と川本さんは紹介している。


まず、この1日目の講義で、「共生」という最近はどこでも見かける言葉が、実は一筋縄ではいかない、いろんな複雑さを含むものとして提示されている。しかし、同時に竹内敏晴さんが提示する共生態の話はもっとシンプルなものでもある。


2日めの講義のテーマは「孤独と共生」
ここで「共生」の切実な核を探すとし、石原吉郎さんさんが紹介される。

ここでの石原さんの引用からのメモ
(シベリアの強制収容所での食事の分配を通じて)「私たちをさいごまで支配したのは、人間に対する(自分自身を含めて)つよい不信感であって、・・・この不信感こそが、人間を共存させる強い紐帯であることを・・・まなびとったのである。」
「こうした認識を前提とした結束は、お互いがお互いの生命の直接の侵犯者であることを確認しあったうえでの連帯」

ここで主張される<共生>の機軸をなす「孤独」。
ここで川本さんは自分の問題として、この「孤独」を見過ごしがちだというのだが、だけど、こんな孤独を求められるのはちょっとつらいと思わないわけでもない。

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(生態学からきた「共生」と社会思想としての「共生」の区別)・・、石原はそうした「二つの共生」のいわば深奥に「孤独」を直観したんだと言えるかもしれません。
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「人間の間の深い連帯の可能性・・・を見失わないためには、人間はそれそれの条件的な、形式的な結びつきから一度は真剣に自分の孤独へたちかえって、それぞれの孤独のなかで自分自身を組みなおすことが必要」
「深い孤独の認識のみが実は深い連帯をもたらすものだという逆説」

「深い孤独と深い連帯の逆説」がもうひとつわからない。とりわけ深い孤独がわからない。石原さんのシベリア経験のような極限状況は誰もが体験できるわけではない。深い孤独は何から生じるのだろう。それは他者へのどのような視線とつながるのだろう。

この石原に学生が「じゃあ、どう生きればいいのか」と質問した話が紹介されている。
石原の答えは「日常生活をていねいに生きよ」。これへの川本さんの解釈は
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収容所体験を特権化することなく、日常生活を「ていねいに」、注意深く生きるだけでも、「共生」と「孤独」、そして「連帯」の困難さと喜びを深く味わうことができる。これが《共生の技法》なのだ。そう言いたかったのではないでしょうか。
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3日め ケアと共生

ギリガンの「世話の倫理」と「正義の倫理」

「正義の倫理」は公平・平等という価値を重んじ、
「世話の倫理」は応答性・非暴力を根本に据える。

この二つを統合するところに人間としての成熟がある。

具体的で倫理的な問題で、ここに含まれないものはないのだろうか。
「赦し」は後者のような気もするが、ジャスティスによる裁きの後でくるものかもしれないと思う。

アースデイに辻さんが正義を振りかざすと間違うことがある、自分としてはジャスティスではなく、フェアネスという言葉を使いたいというようなことを言っていたのを思い出す。

ジャスティスは裁きとセットになっている。確かにそこには間違いがある。
だからこれは耳障りのいい話だ。フェアネスが自然に立ち上がるのであれば、それに越したことはないかもしれない。そして、このフェアネスは正義との対比で言えば、ギリガンの「世話の倫理」にもつながるかもしれない。

しかし、裁かれなければならない不公正や不正義は存在しているようにも思う。

植民地政策への宗主国の行いは、やはり裁かれることが必要だし、植民地だった国家が形の上では独立した後も、新植民地主義の下で経済的な従属を余儀なくされている地域や国家がたくさん存在する。そこから収奪するのは現在では宗主国という国家ではないが、そこを根城にする多国籍企業など。南の地域の環境を破壊し収奪を続けることもまた、放置されるべきではないと思う。

そういう場面でも世話と正義の両方の倫理の統合が必要だというのは使えるかも知れないと思う。


4日め 教育と共生

浜田寿美男さん
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「共生とは、一つに観念であり、ことばである、これによって地球規模の共生―排他を、人はあれこれの側面で捉えることができたし、また崩れつつあるそのバランスを立て直すもう一つの科学を展望することも、ここから可能なはずである。その試みは、おそらく人類の死活にかかわる・・・。しかし、他方で共生とは、もう一つにはやはり人々が具体的に生きるかたちである。生活の遠近法のなかで、たがいの小宇宙をやりとりしながら、生き合うかたち。それぬきには、前者の共生の観念、または共生の科学も空しい」
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この整理はとても重要だと思う。そこから共生の教育が語られるのだが、それはパス。



5日め 臨床と共生

ここでも再び石原吉郎が引用される。それを川本さんは以下のようにまとめる。
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個々の名前をもった人間がそれぞれ「死んではならない」生命を生きている。「どんな生命もいつかは必ず死ぬものである」といった一般命題からではなく、そうした一人ひとりの生命の傍らに身をおこうとするところから始めないと、生死をめぐる議論は空回りしてしまいます
==
確かにそういうことはあると思う。そして、川本さんは以下のようにラディカルなことをさらっと書いている。
==
日本語の「生命倫理」は、脳死・臓器移植や遺伝子治療、新しい生殖技術にお墨付きを与える委員会の看板として通用しているだけかも知れませんしね。
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確かにぼくが知ってる限りでは、生命倫理が語られるのはそういう場面だ。それらは生命倫理が先鋭に問われる場ではある。しかし、毎日、何万人もの人が貧困が原因の栄養不足で、北の国では治療可能なちょっとした病気で殺されているということが生命倫理の立場から問われることはあまりない。
 問題が明確だから問われないのか、自分にとって切実でないから問われないのか。

 3秒にひとりとか4秒に一人とか言われる、その貧困に起因する死のひとつひとつに物語があり、悲しむ人が存在するのだが、生命倫理に関わる言葉はそこで何かの役にたつとは思えない。

この5日めの講義は「自己決定」の吟味からとりかかる。

その自己決定の論理から安楽死を肯定する松田道雄の長い引用があり、患者の自己決定権について説明されるが、それが死の自己決定という話まで延長する松田を川本さんは否定する。続いて死の自己決定論を批判する小松美彦さんが引用される。その小松さんが暴く「死の自己決定論」陥穽についての議論を、小松さんの意図はほぼ達成されていると賞賛しつつも、小松さんにへの不満にも言及する。

 川本さんは自分の立場を以下のように説明する。
==
 私としては、松田さん、小松さんそれぞれの言い分を理解した上で、かつ延命至上主義にも安楽死の容認にもはまらない仕方で自己決定論の真価を問い質していきたいのです。
==

そして、それを行うための確固とした足場の提供を立岩さんが「私的所有論」でしているという。立岩さんの出発点は川本さんは以下のようなところにあるという。
===
彼の出発点は、自己決定権を剥奪された女性や障がい者、患者が自己決定を要求することを是認しながらも、「自己決定と言って全てを済ませられない、肯定しきれないという感覚」も手放すまいとするところにあります。
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こんな風に人の出発点を断言しちゃっていいのかとも思うが、そんなには外れていないだろう。

そして、途中を飛ばして、彼が辿りついた境地を紹介する。

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 私ではない存在、私が制御しないものがあることにおいて、私達は生を享受しているのだと思う。…私は(私のような、あるいは、私のようでない、しかし私の意のままにならない)誰かがいることによって、生きている。ただ単に、他者があること、他者があることによって生きているという感覚があるのではないだろうか。(私的所有論106p)
===

そう、これ、そのままサティシュの本「君あり、故に我あり」じゃないか。こんなところで、サティシュと立岩くんがつながっている。

そして、立岩さんの意見がさらに紹介される。具体的な話として「出生前診断→選択的中絶をしないという選択を、現実的に存在させる」という対案が提示され、それは以下のような実質があるとされる。
===
 誰であれ生まれて生きることを、いやいやでもなんでも、私達が実質的に認める必要がある。産む側の当事者と生まれる者とが現実に暮らせるために、家族の扶養義務は制度的・実質的に、解体、あるいは大幅に縮小され、その義務は社会全体が負うことになる。このことを主張すること、そして質の決定に関与しない、選択をしないという選択があるのだということ、そのような選択が認められるべきことを主張すること、また、そのように考えない者がいることを事実として認め、それに論争をしかけていくこと。社会の全体的な決定として、政策として、これを推進することを批判すること、こうした選択が現実に行われる場、検査・医療の現場において、検査自体を含めいかなる意味でも義務ではないことをはっきりさせること。・・・それだけではなく、障害をもつ者が生まれると本人も不幸で社会も不幸だなどとどうしても思ってしまう医療従事者の考え方ではなく、・・・、それと対立する考えが伝わるようにすること、現実に障害があって生きていく生き方を伝えること。そのために、不幸であるという声に抗して生きている障害・病を持つ者の参与をこの場にそしてさまざまな場に求めること。(同417p)
===

続いて看護の話になり、池川清子さんを川本さんは紹介する。
(ここも面白いが飛ばす)

この日の講義の結語近くでレヴィナスが紹介され、川本さんは以下のように書く。
===
仲間でない人間との出会いと受容が、自分たちの生き方の歪みを反省させる契機ともなります。またさらに、他人が負う傷や苦しみに直面することで自分も傷つきますが、その場から立ち去らずあえて歓待性を発揮する。そうした「ホスピタリティ」や「ヴァルネラビリティ」(傷つき易さ)との密接な関連性が強調されているのです。
「<他者>が在ることの受容」や「個別性」、「歓待性」といった原理をしっかりと実践に組み込まなければ、臨床の場における<共生>も絵に描いたモチの域を出なのではないでしょうか。少なくとも、「自己」の成り立ちを不問に付したまま、自己決定権をパターナリズムへの対抗原理として振りかざすことは避けたいものです。
===

「ホスピタリティ」や「ヴァルネラビリティ」の問題は単にケアの場面だけでなく、社会運動、しいては職場や家庭での振舞いの中で問われているのだと思う。

あと、ちょっと面白かったのが、「臨床」ではなく、求められているのは「離床」だという指摘。




6日め
エコロジーと共生


疲れてきたので、メモ飛ばします。

興味深かったのは、岸由二さんのバイオダイバーシティーの訳語「生きものたちの賑わい」
「共に生きる人びとは、けんかをしたり、心配したり、愚痴を言い合ったり、慰め・励ましあったり、つまり存在を味わい、確認しあって暮らすのが普通だろう。共感的なナチュラリストのようなものとしての私は、そんな領域に作用するのと似た関心や欲求で、たぶん自然の中にもいるように思う」


森崎和江さん
===
私たちは近代的な観念である「自己」をどう越えて、「他者」とともに「類」を生きようとするのでしょう。私は、今は、人びとが「いのちを産む」ことを、いかに思想化するかが、その手がかりのひとつと思っているのです。もちろん、それは産まない、産めな個人をも含み、子どもも老人もそれを意識してこそ、生物一般を含めた自然の循環系を、生活思想とし得るのだと思っています。『いのちを産む』から
===

どちらも自然の循環系を、生活思想にしていくための考え方のようにも読める。

森崎さんにつなげる形でミースが紹介される。
『国際分業と女性』から5つの基本理念が取り出されている。
(この『国際分業と女性』の読書メモを二つも書いているのに、この肝心なことはメモしてなかった)
その5つ
1、商品経済と資本蓄積を拡大し続けるための搾取を正当化してきた植民地主義的な区分(男女間の、民族・階層間の、自然と人間の間の、精神と物質)を拒否・廃絶すること。
2、これまで分断されてきた私たちの身体の諸部分の間、人間と自然の間、女と男の間、社会の諸階層の間、諸民族の間に、非搾取的・非階層的な助け合いの関係を創出すること。
3、そうした非搾取的関係を通じて、私たちの身体と生に対する自律を回復すること。
4、無限の前進という考え方を却け、私たち人間が住む世界は有限であり、私たちの身体も地球も有限であるという考えを受け入れること。
5、あらゆる労働と人間の活動の目的を、富と商品の無際限の拡大にではなく、人間の幸福や生命そのものの生産におくこと。

そして、川本さんはこの3に注釈をつける。
「身体と生に対する自律」とはラディカルフェミニズム風の自己決定論に似ているが、ミースはこれを個人主義的・観念論的に解釈すべきではないと釘を刺しているという。そして、ミースによる「女性の自己決定の要求」批判を以下のように紹介する。
====
解放やユートピアを志向しているように祭り上げられていた「女性の自己決定の要求」は、現在では科学技術と多国籍製薬会社が共謀する「スーパーマーケットにおける選択の自由」(商品として並んでいる各種の経口避妊薬、避妊器具、中絶手術のどれを購入するかを選べるということ)へと還元されてしまい、「私たち自身の一部を他者が同時に決定すること、換言すれば、私たち自身が体現している《共生》(symbiosis)に危害を加えること」を正当化する口実へと成り果てた。
====
そして、このミースの《共生》の用法に言及する。彼女は女性解放運動などで共生が否定されてきたということを前提に、《共生》の積極的な面をすくい上げようとする。そのために「生き生きとした諸関係」(living relations)として、地球上の生命がお互いの生の営みをささえあうため、必然的に結びつきあっているさまという。


7日め 「あなたを苦しめているものは何ですか」

ここでは振り返りの後、最首さんが紹介され、続いてシモーヌ・ヴェイユの権利と義務の話になる。『根をもつこと』の冒頭部分
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 義務の観念は権利の観念に優先する。権利の観念は義務の観念に従属しており、それに相関・依存する。一つの権利はそれ自体として有効なのではなく、その権利と対応する義務によってのみ有効となる。・・・
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 ここは見落とされがちな部分だと思う。他者の権利を保障する義務を抜きにした権利主張をぼくもしてきたかもしれないと思う。

続いて他にもいくつかヴェイユの紹介をしたあと、
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3日目の講義の結びで、「ケア」と「正義」の両立・共存の道を探るという課題を提出しておきましたが、「注意力」(「ケア」と読みかえてもいいでしょう)と「正義」をつなごうとしたヴェイユとともに、「あなたを苦しめているものは何ですか」を他者への「内発的義務」として問い続けていくことが、ひとつの鍵になりそうです。
===

人間にそんな大変なことがほんとうに出来るんだろうかという思いにかられるが、問い続けることはできなくても、それを意識し、必要なときに思い出すことは必要かなと思う。

そして、この日の講義は吉野弘さんの『生命は』という詩で締めくくられる。

そこで、吉野さんは
・・・/生命は/その中に欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうのだ

と直観するのだが、それに続けて同時にこんな風にも書く。
===
世界は多分/他者の総和/しかし/互いに/欠如を満たすなどとは/知りもせず/知らされもせず/ばらまかれている者同士/無関心でいられる間柄/ときに/うとましく思うことさえも許されている間柄/そのように/世界がゆるやかに構成されているのは/なぜ?
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この7日目の川本さんの結語は
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「生命は/その中に欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうのだ」という直観を《共生》のほうへと歩み出ること
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補講 人間の権利の再定義

ここではまず、カール・レーヴィットが紹介される。で、具体的な引用箇所は飛ばすが、彼を援用して川本さんは《西洋出自の「人権」概念の「体得」および「再定義」に努めたいと思います。この手作業の道具がいま手元に三つ――人権の(1)訳し直し(2)見直し(3)編み直し――揃ってますから》と書き、それらに関する記述が始まる。

1の訳し直し、について

ここではアムネスティ日本支部主催のコンクールが紹介され、川本さんの訳も掲載されている。これもなかなか興味深いが飛ばす。

そういえば、数年前に定時制高校の人権教育とかに、知り合いの高校教員に頼まれて、車椅子に乗っている職場のボスを連れて行ったことがある。そこでぼくは人権を「人として大切にされること」という風に言い換えた記憶がある。言いたかったのは、「だから、人権っていうのはひとごとじゃなくて、ここにいる一人ひとりが大切にされなきゃいけない」っていうようなことだった。だって、定時制に通っている若い人たちが、すごく自尊感情を傷つけられているように感じたから。

で、ここにも同様の訳がでている。そんなに大きくは外れていないと今でも思う。

2の見直しではリチャード・ローティーという人が紹介される。ここで面白いと思ったのは、その人が《人権思想の基盤を「合理性や道徳性の本質についての理解」に求めてきた通説を見直し、「自分たちと異質な人たちの相違以上に、類似性のほうを重視する能力」を向上させる「感傷性の教育」と「悲しい、感傷的な物語」の意義を唱導する》という部分。ここで川本さんは「感傷性」の危なさも書いていて、「合理性の限界をわきまえつつも、それが自己理解を深め感傷性の暴走をチェックしてくれるよう、うまく操ることも可能」とし、「合理性と感傷性の『反照的均衡』を」という。

3の編み直しで川本さんは最首さんを援用して、以下のように書く。
===
 せっかく「感傷性」に着眼しながら、これを「悲しい感傷的な物語」の語りきかせに切り縮めたように思われるローティーに比べ、最首さんの「内発的義務」論はそうした感傷性を「人間の苦しみ」に向かって掘り下げ、さらに自分の権利がどれほど保護・尊重されているかを「見張っているかのような心的構造」を脱却する突破口をも指し示してくれるようです。
===

続いて川本さんはセンの権利論を紹介する。
片方に自然権としての人権とか、その現代版であるノージックの権利論を置き、もう片方に功利主義的な権利論を置き、その中庸をとっていると解説される。


もう疲れてきた。
この後の最後の注にでてくる反天連公開講座でのやりとりの話とかもメモしようと思っていたのだが、力つきたのでこのあたりでキーボードを叩くのをやめる、

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母と差別
注:筆者である私は、いかなる差別も認めない非差別・平等主義である。 私は差別を好まない。それは道徳的な観点ではなく、経済的な理由からである。この世の差別・被差別構造 において、金は、差別者から被差別対象に流れる。男から女、東京から地方、日本の高額納税者のTop30に はどんな傾向があるのか?日本の保釈金最高額は誰が払っているのか? 安易な差別意識が、被差別対象の利権の温床になる。 私の両親、特に母は差別主義者であった。日本には、出身地にまつわる様々な差別が存在するが、出身その ものよりは、一様な... ...続きを見る
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