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zoom RSS 「政治的空間における理由と情念」(齋藤純一)から考えたこと

<<   作成日時 : 2010/08/26 01:47   >>

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「政治的空間における理由と情念」(齋藤純一)は「思想」(2010年5月号岩波書店)特集「情念と政治」収録されている巻頭論文。

その書き出しがとても興味深かったので、ぼくにしては、とても丁寧に読み始めた。でも、半分で挫折した。注をいれても、わずか20ページくらいの論文なんだけど。

というわけで、半分くらいのところまでの、読書メモと、その先で、読めなくなった言い訳が書いてあります。

じゃ、まずは読書メモから


冒頭で齋藤さんは以下のように書く。
===
 政治は、人の心に訴え、その心を動かすという要素を必ず含んでいる。そこでは、人の心に響かない言葉は無力であり、「情に訴える」言葉こそが重んじられる。しかし、他方で、人の心の動きは制御のきかないものとして警戒されてもきた。
===

そして、これまでプラトン以降の政治思想の伝統は情念の非合理性、暴力性をどのように制御するかという関心から、政治における情念の問題にアプローチしてきた、とする。しかし、情念の過少もまた民主主義の維持という観点から、問題である。それはデモクラシーの空洞化をもたらす。政治において情念は制御しながら喚起しなければならないものだというの前提として書かれている。

そして、「本稿の関心は、過政治化と脱政治化の間で情念がどのような作用をはたしているか、またはたしうるのかを検討することにある」という。

アブストラクト

2節
<デモクラシーの政治空間を「利害の空間」ではなく「理由の空間」としてとらえる>
「理由」には規範的に見て正当な理由だけでなく、人々の心を行為にむけて動かす理由も含まれている。

3ー4節
この二つの理由を区別しつつ、関係づけたヒュームをとりあげ、「情念による情念の統制」という彼の中心テーゼを検討。また、彼のいう「共感」が情念を反省化し、人々の視点を脱ー中心化する作用を明らかにする。

5節
ヒュームにおいて、規範が事実性と抗事実性の間に位置づけられていることの意義について考察

最終節
集団の形成(集合的同一化)における情念の機制について論じるとともに、政治的凝集制を解く情念の作用に触れる




二 規範的理由と動機づけの理由

===
<デモクラシーの政治空間を「利害の空間」ではなく「理由の空間」としてとらえる>
「理由」には規範的に見て正当な理由だけでなく、人々の心を行為にむけて動かす理由も含まれている。
===

政治思想の長い伝統は長らく理性と情念を二限的に配置。しかし、現代の政治理論はその二分法を問い直し始めている

主としてハーバマスらの討議理論が政治的意思形成をもっぱら合理的な討議の手続きに求めてきたことへの批判的な応答として。

討議理論は
===
・政治課程を利害調整の課程と解し、政治的空間を「利害の空間」に単純化するデモクラシー論を批判した。そうではなく「理由の空間」としてとらえ直されるべき、とする。

・政治的空間で競われるべきは利益というよりも理由。利害や価値観が異なる人々がともに受容しうる理由が、政治的意志決定を正統化するのがデモクラシーのあるべき姿とする。
===
この「討議理論」への批判は「情念の要素をきれいに払拭してしまっている」ということ

いくつかの批判が紹介された後で、斎藤さんは「それらが十分に光をあてていない問いに注目したい」という。それは
===
・人々がそもそも規範の正当性をめぐる理由の検討へ促されるのはなぜか?
・そして正当とみなされる理由が人々を行為に動機づけるためには何が必要か?
===
という問い。

討議理論を含む現代の政治理論は「動機づけの欠損」とでも呼ぶべき問題を抱えている。

それらは理性的な人間であれば、理性的に動機づけられるはずという想定に頼ってきた。


情念は政治の二つの局面において「動機づけの理由」に関与している。
1、私たちの関心を惹き起こすという意味での動機づけ。
関心のアピールはつねに正当化のプロセスに先行する。

2、行為へ促すという意味での動機づけ。
関心が惹起され、正当化のプロセスが始まり、それによって「規範的理由」が得られても、それを実現しようという情念がともなわなければ、私たちを行為へ促さない。

**この議論で利害はどう位置付くのか。情念を重視するあまり、逆に情念に一元化されていないか?と感じるのだがどうだろう。

ここで斎藤さんは
===
「正」「不正」という判断は人を行為に促すのは不十分で「善」ないし「悪」と感じられなければ行為の動機として不十分であり、言い換えれば「こうあるべき/あるべきでない」という規範的判断は「こうあってほしい/ほしくない」という欲求−嫌悪による支持を得るときに行為へと動機づけられる
===
と書くのだが、ここには違和感を禁じ得ない。正・不正だけで動けることもあれば、善悪を感じても動けない/動かないことはあるのではないか。斎藤さんと同様に言い換えると、「こうあるべき/あるべきでない」という規範的判断だけで動けることもあると思うのだが、「こうあってほしい/ほしくない」という欲求−嫌悪による支持があってもなお動かないこと、あるいは動けないことは十分にありえる。

人と行為に促す動機の説明としては、これは非常に不十分だと思う。

ここで、あの有名なヴェーバー言葉を思い出す。
====
 人間の行為を直接的に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍機(ターンテーブルのルビ)として軌道を決定し、その軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである。
===

そして、山之内靖さんのマックス・ヴェーバー入門にある以下の部分
===
 ヴェーバーによれば、市場メカニズムは、その存立が可能になるための条件として、内面的な――つまり、倫理的・道徳的な――動機づけが必要です。このようにヴェーバーの方法は、社会的行為の内面的動機づけに注目するものであり、そのために行為の理論と呼ばれています。また行為を動機づけている文化的意味への共感と理解を中心に組み立てられていることから、理解社会学と呼ばれることもあります。しかし、だからといって、ヴェーバーは外面的な客観法則を無視したわけではありません。むしろ問題の中心におかれていたのは、行為の内面的動機づけと外面的な客観法則との間の、複雑で時には逆説的でもある関連を解明すること、これでした。大塚久雄教授がヴェーバーの方法を「複眼的」と呼んだのは、そのためです。(『社会科学の方法』1966年)
====

動機について、情念にフォーカスしたいという齋藤さんの思いはわかるのだが、「利害関心」という要素を常に見ておかないと、リアリティは薄れると思う。



ある行為がどれくらい自らの利害と適合しているか、あるいは反しているかということで、動くためのハードルはすぐに変わる。

また、利害と適合していれば、不正あるいは悪と認識していても、そのように動くこともある。

考えるべきは、自らの利害と反しているにも関わらず、あるいはあまり一致していないにもかかわらず、動くときの情念の働きということになるのではないか。

あるいは情念によって、悪とわかっていても、そのような行為に導かれるということもあるかもしれない。

====

齋藤さんの論に戻ろう。
この動機付けの説明の後、齋藤さんは二つの英単語を持ち出す(ぼくは知らなかった)。

cognitive

conative

というわけで調べた
cognitive【形】 認識の、認知に関する cognitive ability認識能力

conative【形】《心理学》動能の、努力の、意欲の、働きかけ的な、呼び掛け的な * conative function 訴え機能

齋藤さんは情念はこのcognitiveな局面とconativeな局面の二つの局面において有効に働くというのだが、これもよくわからない。

続く3節ではヒュームの古典的な議論に立ち返って、判断形成や行為を位置づけるにうえで情念がどのように作用しているかを考察


三 情念による情念の制御

===
3ー4節
この二つの理由を区別しつつ、関係づけたヒュームをとりあげ、「情念による情念の統制」という彼の中心テーゼを検討。また、彼のいう「共感」が情念を反省化し、人々の視点を脱ー中心化する作用を明らかにする。
===

ヒュームは「理性は情念の奴隷にとどまるべき」と主張。
しかしそれは従来の主張の単なる反転ではない。理性だけでは情念は統御できない。立体的に分節化された情念によって情念が制御される、という主張。その立体的に分節化された情念とは、激しい(violent)な情念と静かな情念。両者の違いは
==
後者が「理性」と「反省」、言いかえれば、正しい事実認識と社会的に共有された判断基準の参照をともなう情念であるという点にある
==
と齋藤さんは解説する。


実はここまで読んで、もう息切れしてしまった。

以降、「反省」という作用の説明などがあり、その先も、ぼくには少し難しい話が縷々続いていくのだが、・・・。


ここまで、あんまり頭のよくない僕なりに、丁寧に読んできたつもりなのだが、読む気がだんだんうせてきたのは「利害関心」と「情念」の関係が齋藤さんのこの論文ではぼくにはよく見えてこないからだと思う。


興味のある人には残り半分も面白いかもしれません。ぜひ、読んでみてください。



前にも書いたように、ぼくも広い意味での政治における「情念」の役割にはとても興味がある。

それは人が「利害関心」を超えて、動くときにどうしても必要になるものだと思うから。

ぼくはヴェーバーが言っている<人間の行為を直接的に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍機(ターンテーブルのルビ)として軌道を決定し、その軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきた>というのが、だいたいその通りだと思う。(ただ、観念的な利害関心っていうのがよくわからないが)


社会運動は人に動いてもらうことを求める。それはときに自らの利害を離れることもある。もちろん、どんな場合でも「利害」は大切で長期的には利にかなうという主張の仕方はする。しかし、生きている間の利にかなうかどうか、確信が持てないこともある。

「こうあって欲しいと思える社会を実現したい」というのは、利にかなうことでもありたいと思うが、そこにはかなり情が入り込んでもいる。齋藤さんのこの論文の関心は政治における(理性・理念と対比した)情念に向かうのだが、そこに「利害」という要素をどう持ち込めるのかが見えないので、ぼくの関心はしぼんでいったのだと思う。

前からいろいろ書いているように、ぼくの関心は、どうしたら「世界像」というターンテーブルを動かせるか、という部分にある。

利害と離れてしまったところで、社会運動は成立しないと思うが、本当にこうあって欲しいと思える社会を実現するためには、短期的な利害を離れる必要があるときもある。

その利害と理念が錯綜した状況の中で、情念が生まれるようにも思う。そして、社会運動は錯綜した利害と理念と情念の海をおぼれないように泳いでいきながら、進めていくしかないのではないか。

そのように泳いでいった先で「世界像」を書き換えられているというようなことを求めたいと思う。

だから、ぼくが情念を考えるとすれば、利害・理念という変数の中で、社会運動的に情念はどのように使えて、どのように危険なのか、社会運動は情念という変数をどのように扱うことが求められているのか、というような話になると思う。



疲れたので、とりあえず今日もここまで

読み返すこともできずにアップロード。

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『<希望>の抑圧』に関連して
「政治的空間における理由と情念」(齋藤純一)から考えたこと http://tu-ta.at.webry.info/201008/article_13.html にtoshiさんからコメントをもらった。 === ぼくのブログに「<希望>の抑圧」っていうのを書きました。tu-taさんのこの文章と若干関連するかもしれません。斉藤さんの議論を念頭に置いていないし、扱われている思想ともあまり関係ないです。あえていえば、社会運動は、理念や理論と利害と絶望とか悲嘆といったネガティブな情念の海に... ...続きを見る
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内 容 ニックネーム/日時
ぼくのブログに「<希望>の抑圧」っていうのを書きました。つるたさんのこの文章と若干関連するかもしれません。斉藤さんの議論を念頭に置いていないし、扱われている思想ともあまり関係ないです。あえていえば、社会運動は、理念や理論と利害と絶望とか悲嘆といったネガティブな情念の海に溺れているのに対して、何が必要かということを書いたので、つるたさんの関心と重なるかもしれません。
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/
toshi
2010/08/31 08:52
toshiさま

レスポンス書きました。
『<希望>の抑圧』に関連して
http://tu-ta.at.webry.info/201009/article_2.html

読んでください。
tu-ta
2010/09/02 07:13

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