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zoom RSS 『<希望>の抑圧』に関連して

<<   作成日時 : 2010/09/02 07:10   >>

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「政治的空間における理由と情念」(齋藤純一)から考えたこと
http://tu-ta.at.webry.info/201008/article_13.html
にtoshiさんからコメントをもらった。
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ぼくのブログに「<希望>の抑圧」っていうのを書きました。tu-taさんのこの文章と若干関連するかもしれません。斉藤さんの議論を念頭に置いていないし、扱われている思想ともあまり関係ないです。あえていえば、社会運動は、理念や理論と利害と絶望とか悲嘆といったネガティブな情念の海に溺れているのに対して、何が必要かということを書いたので、tu-taさんの関心と重なるかもしれません。
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/
===
この記事のURLはこっち
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=81



問題意識はかなり近接しているし、『社会運動におけるポジティブな情念の必要性』という、感じてはいたものの、言葉にできていなかったことを想起させてもらった。

前回に続いて、ツイートしたものを再構成する。

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小倉利丸さんのブログから(ネグリなどの):<こうした思想や理論を読み、議論することと、これらの思想や理論が期待しているかもしれない実践的な行為へとぼくらを促す内的な衝動とが大きく乖離していて、実践なきオルタナティブの知識の集積という不均衡が広がっているように感じる>ぼくもそう思う
posted at 01:38:16

http://bit.ly/cSyompで「オルタナティブをめぐる問題のなかで、最大の問題は、これまで論じられてきたさまざまなオルタナティブを具体的に実現するための実践的な実体を欠いているという点にある」とある。まさにその通りだ。どうやって、それを実現するか、そこが必要だ
posted at 01:44:46

http://bit.ly/cSyompの『民衆の運動に欠けているのは、思想でも理論でもオルタナティブの提言でもなければ、運動の規模でもない。これらは、十分に満たされている…。欠落しているのはこれらの思想や提言を未来に向けて実践しうる<来るべき世界への希望>…』には違和感も(続く
posted at 01:51:05

続き)どこに違和感があるか。ぼくは「オルタナティブの提言」作りに関わっているのだが、その作成のプロセスに<希望>とつながる回路を持たせたい。確かに<希望>が必要だと思う。「希望とよびうる情動がオルタナティブの運動には欠けているようにみえる」と書くのだが、本当にそうか?(さらに続く
posted at 01:58:02

続き)参加者が「いつかは変えることができるかもしれない」という<希望>を潜在的にも持っているから、運動は細々とであれ、継続しているのではないか。さらに小倉さんは<理論や思想や政策提言の「確信」が希望に基づいていないために、確信は行動に媒介されないままとなる>と書くのだが(まだ続く
posted at 02:03:43

まだ続く)確かに「理論や思想」が行動につながらないことは多いのだが、それは<希望>の不在が原因なのだろうか。「行動への参加が変革につながる」という回路が見えないから、変革のための思想が消費されるだけで終わりがちなのだと思う。その回路を見せていく努力が運動の側には求められる。(続く
posted at 02:10:59

続き)その回路が見えないことを指して、小倉さんは<希望>の不在を主張しているのだろうか。「理論や思想に問題があるのでもなければ、運動論に問題があるのでもなく、主張されている事柄を希望の文脈で了解することを可能とするような感情の動員が抑圧されているから」これが小倉さんの主張だ(続く
posted at 02:14:23

続き)それに続けて小倉さんは「運動を成り立たせる希望を支える情動が、構造的に抑圧されているからだ」と書くのだが、その「情動」は運動論や理論と密接に影響しあいながら存在する。例えば「このように実現できる」という運動論や理論への確信と「参加して変革しようという内部からの情動」は(続く
posted at 02:19:13

続き)密接に影響しあっている。でも、以下の結語は共有できる。<希望そのものを再生する希望を獲得する…こと、このような希望を抑圧する現にある権力の問題に取り組むこともまた、対案や政策提言、あるいは思想や理論の輸入だけではなく、それ以上にオルタナティブの運動に必要とされている課題>
posted at 02:25:51

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ここまでが140文字ずつの細切れで書きなぐった雑駁な感想。
言いたいことが理解してもらえたらうれしいんだが、わかりにくいと思う。


社会運動に参加するきっかけは人それぞれだ。しかし、一般化できる部分もあると思う。
それぞれの人が、それぞれのレベルでの変革のための理論や運動論をベースに(それを意識していない場合もあるかも知れないが)しながら、いろいろなことを考える。
その思考に加えて、情念が「ある水域」を越えたときに自らが社会運動に参加するという選択になるのではないか。

この「水域」の高低もまたさまざまだ。
社会運動への参加のハードルと言えるかもしれない。
簡単に飛び込める人もいれば、相当に煮詰まって、それでも参加する決心できない人もいるだろう。

例えば、イラク戦争開戦時のデモ、あるいはチェルノブイリ直後の反原発集会。

その参加者の多さは、状況が情念の高まりを助けたといえるだろう。
しかし、背景には、さまざまな理論や運動論があり、それを組織化するための努力があった。

また、自らの利害に直結する社会運動の場合も参加のハードルが低くなる。自分の利害に直結する具体的な要求は情念の高まりを呼ぶ。しかし、その背景にも、その要求が理に適っているかどうかという「理論」が存在する。その前提と、情念の高まりは一体のものになり、ある社会運動への参加につながるのだと思う。


そして、前述の文章で小倉さんは<希望>の必要性を提起する。
もう、理論や運動論は十分なところまできているという前提に立っている。そこに不足しているのは「これらの思想や提言を未来に向けて実践しうる<来るべき世界への希望>」だという。

その希望をブロッホを援用して説明する。

「希望は、同じく、もっとも精密な情動のひとつとしてあらゆる気分を越えでるもの」であり、
「希望はうつろいやすいところがあまりなく、その志向の点できわめて特性があり、とりわけこれは気分や否定的期待情動にみられぬところだが、論理的・具体的な修正とい先鋭化の力をもっているからである」という。(「論理的・具体的な修正とい<う>先鋭化の力」と想像)

ブロッホはここで「気分や否定的期待情動」と希望を区別し、希望には「論理的・具体的な修正という先鋭化の力」があるという。
これも「情念」と「理論」が重なる場面だ。「こうあって欲しい」という気分を希望に転換するために「論理的・具体的な修正とい先鋭化の力」が必要になると言い換えることもできるだろうか。

「気分」には理論が不要だが、「希望」には理論も必要になってくる、ということだろうか。
「(こうあって欲しいというような)気分」と「希望」、これはぼくにはちょっと分けにくいようにも思える。瞬間、刹那ごとに存在する「気分」と時間の連続を必要とする「希望」という風にもいえるだろうか。



例えば、社会運動の文脈で言えば、「こうあって欲しいと思える社会」のイメージや具体的な要求があり、また、それは(長い期間がかかるにしても)実現可能であるという思いが希望につながるのだと思う。

あるいは「なかなか実現は難しいが要求することに意味がある」と考え、社会運動に参加することもあるだろう。その場合だって、「意味がある」ことの背景には「こうあって欲しい」あるいは「こうでなければならない」という思いがあり、「それは将来の社会変革につながるはず」という潜在的、あるいは顕在的な思いがあるのだと考える。


また「**は許せない」という思いに発する社会運動もある。そこには希望はあまりないようにも見える。しかし、「許せない」という思いの裏には「こうでなければならない」という規範が張り付いている。それは「こうあって欲しい」という希望の裏返した姿ともいえるだろう。



小倉さんの提起は刺激的だったので、あっちにいったりこっちにきたりしながら考えてきたが、<希望>が不足しているというのは確かにある。では、どうすれば<希望>が再生、あるいは創造できるのか。

小倉さんが書いているように希望を持ちにくくなっている構造がある。

そして、希望を取り戻すためには「人々が希望の未来を獲得するためには、奪われた自己の権利を奪い返すために闘うということ以外の選択肢はない」「希望そのものを再生する希望を獲得するということ」だという。希望がないから闘いに参加できないのだが、その希望を取り戻すために希望が必要になる。

そして、「希望そのものを再生する希望を獲得する」ために「希望を抑圧する現にある権力の問題に取り組むこと」が必要だという。それが具体的にどういう営為なのかが問題だ。

そう考えると、Another world is possible!「こうじゃない世界はありえる」という呼びかけは希望の呼びかけでもある。

希望を取り戻すために何ができるか。希望が権力によって見えなくさせられているだけだということを暴露し続けることは大切なことだろう。それをエンパワメントのプロセスと呼ぶこともできるかもしれない。そう、森田ゆりさんが主張する「自分の大切さ、自分が本来持っているパワーに気づくプロセス」だ。

社会運動がそういうプロセスを意識的に作っていくという水路は考えられなければならないかも知れない。

しかし同時に、小倉さんが書いているように理論やオルタナティブの提言はもう十分だということはないと思う。それは日々、更新されなければならない。それを更新していくプロセスもまたエンパワメントにつながるようなものとしてある必要があるかもしれない。

やはり「こうあって欲しい」というイメージを明確にしていくことは必要だと思うし、社会運動が広がり、変革を実現していくための運動の理論は必要なはずだ。


そのプロセスもまた希望を再生するプロセスとつながるように作ることも大切だろう。


P.S.

ブロッホと希望で思い出した。
希望をめぐるいくつかの話はこれまでも書いてきた。
2008年の年賀メールも希望に関して書いている。
http://tu-ta.at.webry.info/200801/article_1.html



『暗闇のなかの希望』でレベッカはこんなふうに書いていた。
==
・・・想像することや、希望を育むことで、変化ははじまる・・。
 ・・・希望は非常時にドアを破る斧。・・・。未来の向きを変え、果てしない戦争を終わらせ、・・・、貧しい人びとや底辺にいる人びとに対する虐待をやめさせるためには、すべてを賭けなければならない。希望は、単にもうひとつの世界が可能かもしれないということにすぎず、約束でもなければ、保証でもない。希望は行動を求め、希望がなければ、行動はできない。  16-17p
==
 ・・・、希望はただ待ち望むことではない。希望は、世界の本質的な不可知性、そして現在との決別を抱きしめることであり、驚きなのだ。・・・ 208p
===


しかし、ブロッホのこんな紹介も
===
ブロッホは、・・『希望の原理』において「偽りの希望は、人類最大の悪行のひとつであり、気力を奪うものであり、具体的に誠実な希望は、もっとも献身的な善行である」と断定し、・・・。偽りの希望を抱けば、剥奪されることにYESと言い、嘘がまかり通る世間を黙認することになりうる。・・・。根拠が薄弱な偽りの希望は、絶望からそれほど遠い存在でもない。どちらも麻痺させるからである。一方、絶望は解放の母にもなりうる。 30-31p
===

正直、ぼくの希望の根拠はけっこう薄弱だ。もしかしたら、ブロッホが戒めるニセの希望かもしれない。でも、それでもないよりいいとぼくは思うんだけど、どうなんだろう。

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はじめまして大絶画と申します。
復刊ドットコムにブロッホ著『希望の原理』の文庫化をリクエストしました。みなさんの投票次第で『希望の原理』が手軽に読めるようになります。投票にご協力ください。
なおこのコメントが不適切と判断されたら削除していただいてかまいません。

『希望の原理』投票ページ
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大絶画
2011/02/05 01:00

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