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<<   作成日時 : 2010/09/05 02:49   >>

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某巨大SNSに書いたものを転載してて、思い出した。
最近、そういえば、死刑のことも書いてた。ってわけで、こっちも知り合いの知り合いの日記に書き込んだものからの転載



==以下、転載==

コメントしたくなりました。おじゃまします。

「抑止効果」については議論があるようですが、ぼくが見た限りでは抑止効果があるという意見のほうが根拠は薄いように感じましたが、議論があるというのは理解できます。


やはり、大きな問題は遺族の報復感情だと思います。死刑には反対だけど、敵討ちは認められてもいいのではないかと大真面目に語っている人の話しも聞いたことがあります。

犯人が死刑にならなければ、納得できないという遺族の声は確かにリアリティがあると思います。

自分の身近な人が殺されたと想像してみることは必要なことかもしれません。

そのとき、どう感じるか。たぶん、ぼくにもすごく大きな報復感情は生じると思います。想像でしかないですが。

そこへの感じ方がさまざまな意見の分岐になっているのでしょう。

どうしても死刑になってもらわないとおさまらない、という感情もありえるだろうと思います。

しかし、ぼくは、もし、自分のとても大切な身近な人が殺されたら、それを償ってもらうとしたら、一生、その罪と向き合って死ぬまで反省し続けて欲しいと思います。

そして、その犯人が死刑になっても、満たされるものは何もないような気がするのですが、どうなんでしょう。

死刑という形で、自分が犯した行為に向き合うことを中断させないで欲しいです。

同時に、どうすればその反省を強要できるのかは、また、難しい問題です。 いま、納得できるような答えはありませんが、どうしたら、犯人に自らが犯した行為と向き合わせることができるのか、そこがポイントで、それは彼の生を奪ってしまっては達成できないのは確かです。

ぼくはもし、ぼくの大切な人が殺されたら、その犯人が犯罪と向き合わないで、死刑という形で終わらされることのほうが、納得できないだろうなと思うのです。

死ぬことで、そこから逃げるなんて許せない、とも思います。



==転載ここまで==


先日来参照している、小倉さんはこんな風に書いている。

彼の8月27日のブログ
正義の限界を自覚せず、正義を手段に暴力を正当化する権力ほど危険なものはない
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=80

ここで書かれている以下は明快な論理だ(以下の引用では改行位置変更)
===
・・・。少なくとも、人類の長い歴史のなかで、犯した罪と刑罰との間に客観的なバランスをとるような暴力の均衡関係についての普遍的な原理は、未だにみいだされたことはないと僕は考えている。近代における刑罰は、復讐のためでも「目には目を」として暴力の均衡を実現しようとすることを基本的な基準として採用しているわけでもない。

むしろ国家による処刑は、官僚制に支えられた大衆民主主義国家がみずからの権力を物質的な<力>として表現する象徴的な意味しかない。このような象徴的な権力のために、人の命を奪うことは残酷である以外にないと思う。被害者の感情を国家は代理する素振りをみせはする。しかし、国家の制度を担う誰もそのような感情を代理できるはずはないのである。にもかかわらず、代理できるかのように装い、処刑を正当化するのは、欺瞞というしかないだろう。

(略)

・・・、いくら容認できると感じる暴力であっても、自分が実際にその暴力を振るう側の人間になれるかと自問すれば、すかさず「できない」という答えが自分のなかから返ってくる。しかし、もし自分が刑務官として、三つのボタンのうちの一つを押す「仕事」を命じられたらどうだろうか。その命令に従ってしまうかもしれない自分がいるということを感じないわけではない。

たぶん千葉法相も役割としての暴力の行使であったからこそ二人を処刑できたのではないかと思う。怒りが欠落しながら怒りを代理すると称する権力が振るう暴力は、実はもっとも残酷でもっとも歯止めがきかない。なぜなら怒りは必ずいつかは暴力という形をとることにはならないところに収束する(消失するとはいえないとしても)。これは「怒り」であれ「悲嘆」であれ激情がたどる必然的な経過だが、逆に、怒りのないところで振るわれる暴力は、暴力を抑止する内的な抑制がそもそも欠落している。千葉法相はこのような意味での暴力に加担した。これはそれ以前の鳩山や長勢といった大量の処刑を行った者たちと変わるところはない精神性といえる。(これはだれもが持ちうるもっとも残酷な精神性だということも自覚すべきだ)

しかし、他方で、死刑廃止は冷静な議論が積み重なれば必ず到達しうる結論だと思う。それをさせずに、センセーショナルな犯罪と復讐の感情劇に仕立てることで、権力はみずからの暴力を正当化しているにすぎない。正義の限界を自覚せず、正義を手段に暴力を正当化する権力ほど危険なものはないのだが、その権力を民主主義は下支えしてしまう。だからぼくは、「民主主義の残酷」と言うのだが。

==小倉さんのブログからの引用、ここまで==


これを読んでのコメント
===
ぼくは「センセーショナルな犯罪と復讐の感情劇に仕立て」られた物語にかなり取り込まれているのですが、「復讐の感情劇」をどう超えていくのか、そこに「民主主義」が抱えている問題もあると思います。それはそれで、かなり重たい課題です。復讐の感情が死刑制度を支える大きな根拠になっている現状に何を持って対置できるのでしょう。

先日から考えている政治と情念の問題にも重なるかもしれません。

===

「センセーショナルな犯罪と復讐の感情劇に仕立て」られた物語に取り込まれている自分への自戒は必要だと思ったのだが、その<「センセーショナルな犯罪と復讐の感情劇に仕立て」られた物語>に人々の意識が向かっているときに制度を変更するのもそれなりに努力がいる話だ。

多数派と呼ばれる人々のその感情を背景に制度が存在しているのだと思う。しかし、この「多数」を「多数」として形成させている背景にはマスコミなどの力も少なからず影響しているように思える。光市での事件の被害者の夫の雄弁な姿にひかれる人は多い。死刑の存続を望むかどうかというアンケートの設問の方法にも問題があるのではないかという話を聞いたことがある。

小倉さんは「被害者の感情を国家は代理する素振りをみせはする。しかし、国家の制度を担う誰もそのような感情を代理できるはずはないのである。にもかかわらず、代理できるかのように装い、処刑を正当化するのは、欺瞞というしかない」と書く。しかし、実際に現在、死刑制度は「被害者の感情」というのを大きな根拠として成立しているように思える。裁判という制度を通して、被害者の報復感情を表現するために死刑という制度が存続しているように見えてならない。近代法の精神とかいうのをぼくは知らないので、そこから見てどうなのかという議論はぼくにはできないのだが、死刑判決というのは実態として、被害者の報復感情の実現として存在しているように思う。

本当にそれでいいのか、ということが問われているようにも思える。

それを問うために、広範なな議論が必要なのだと思う。千葉大臣がその制度への問題提起のために処刑にサインしたとするなら、一部の密室での議論ではなく、広い議論を準備すべきだと思う。死刑制度の是非を問うわかりやすい資料を作成すればいい。そこには、死刑に反対する人の意見もそこに含める必要もある。

その議論が続いている間は執行を停止せよ、というのは一つの選択肢になりえるんじゃないかと思う。


「正義の限界を自覚せず、正義を手段に暴力を正当化する権力ほど危険なものはない」と小倉さんは書く。
そういうことはあるかもしれないと読み飛ばしていたのだが、「正義の限界」というのが実はぼくにはよくわからない。また、「正義を手段に」という部分もよくわかっていないが、正義の実現が必要だということで犯罪に対して懲役や拘留という暴力を行使するのが権力の仕事でもあり、ぼくはその必要性は認めないわけにはいかない。

確かに、これが行き過ぎると、大変に恐ろしいことになるわけで、そのためにそれが本当に「正義の実現」かどうかを検証するシステムとして3段階の裁判制度や再審制度が準備されている。憲法は国家によるさまざまな権力行使への規制として存在している。それが制度としてどの程度正しく機能しているか、はなはだ疑問ではあるが。



小倉さんは「民主主義の残酷」という。残酷だけれども必要な民主主義でもある。民主主義のダイナミズムをどう味方にするかというのは社会運動のひとつの課題だ。

ぼくは自分のことをピープルだと自覚していうのだが、かなり多くのピープル(それが過半数かどうかはわからない)は現状では凶悪犯罪は許せないと感じ、それに極刑を求めているようだ。また、そのように思わせる日本のマスコミの世論誘導もあと思う。

そして、これが云いたいのだが、ピープルにとって(というより、ぼくにとってといった方がいいかなぁ)崇高な理念よりも今日のごはんが大事だ。親しい人との快適な暮らしが大切だ。でも、同時に隣の人が痛い思いをさせられていたら、それも気持ちよくない。そんなピープルの民主主義とは巨大な選挙区で国会議員を選ぶことではなくて、政治をもっと身近な地域社会にひきつけ、そこから発想することだろう。そこでは直接民主主義が復活する余地があるはず。

しかし、同時に、手の届かないグローバルな企業のための取り決めが、日々の生活に影響する現実もある。グローバルなシステムを変えていく努力もまた問われている。「どのように」という部分で、なかなか答えはない。NGOなどの市民社会セクターと呼ばれる人たちが代表権を持っているわけでもない。かといって、従来の国家間の取り決めは植民地主義の影響を根強く残し、人々の生活に犠牲を強いてきた。ここでもローカルに直接影響を受ける人の声が反映されるシステムが必要なのだろう。それがどんな形になるかはわからないが。


残酷なものにもありうる民主主義と、わたしたちはどのように向き合うことができるのか、課題は山積している。


と、中途半端なことを書き連ねて、今日もここまで。









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tu-taさん、コメントいつもありがとう。ブログで言及した『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観てください。ついでに、同じ監督の『ドッグヴィル』も。理性は感情に敗北し、誠実さや他者への配慮といった良心は、傲慢な権力の暴力によってしか実現できない、というフォン・トリーアの絶望的な人間への眼差しが、僕には沢山のことを考えるきっかけをくれました。
ありがとう
2010/09/05 03:34
どうもです。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と『ドッグヴィル』、どこかで借りて見ることにします。見つからなかったら貸してください。
tu-ta
2010/09/20 00:04

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