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zoom RSS 『反アート入門』 読書メモ

<<   作成日時 : 2011/04/03 22:01   >>

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以前からずっと読みたいと思っていて、かなり前に借りたのだが、3・11を挟んで、ずっと読めなかったのをやっと読んだ。
でも、かなり興味深かったので、やたら長いメモになった。いつものことながら、自分用のメモなので正確さや品質は保証しません。(きっぱり)

著者は椹木野衣(さわらぎ のい)さん。
彼については、Wikiに簡単な説明もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%B9%E6%9C%A8%E9%87%8E%E8%A1%A3
ここでは「実証的な美術史とジャーナリスティックな解説の二極分裂に陥りやすい日本の美術評論界にあって、例外的にアクチュアルな視点を提供している貴重な評論家」と紹介されている。
(このブログの発表段階での記述)

椹木さんの短い記事のようなものは何本か読んだことがあったが、短著を読んだのは初めてだった。
この彼の視点で、丸木の『原爆の図』連作はどのように読み解かれるだろうか。すでに、どこかで書かれているだろうか。読んでみたいと思った。



読了してすぐの感想は以下。
===
本質主義的すぎるのではないか。アートや芸術に実態とか本質とかあるのだろうか。それは関係性なのではないか。対象と見るものの関係性の中にアートはあるのではないか。
===



この本はまず、「アートとは何か」という問いから始まる。そして、「アート」と「ART」の違いを説き、しかし、「ART」であればいいわけではない、という。その上で、その両方ではない「私たちの時代や素性にあった芸術のあり方を探してみたい」という。

さらに「美術」という語への違和感が語られる。その上で「芸術」に言及する。その移り変わりは巧みで、うっかり読んでいると、ごまかされそうになる。ともあれ、芸術はその「革命性」という側面から説明される。

そして、その4つの言葉(「アート」「ART」「美術」「芸術」)すべてに反する立場から話を進める、と前書きに当たる部分で書かれている。最後まで読んで感じるのだが、「反する立場から話を進めて」いるようには、あまり思えない。

さらに、この4語については、「きちんと使い分けることなく」出していくとしている。使い分けられているのではないかと深読みしたくなる部分は多々あるのだが、ともかく著者がそう書いている。

きちんと使い分けない理由がここには書かれていて「アートに関してはあまり定義に神経質になりすぎず、暫定的に考えていくほうがよい」からという。ぼくもそう思うのだが、著者こそがそこにかなりこだわっているように感じる。

どこまでいっても「しっくりくる言葉の次元はない」と著者はいう。そして、同様に、この世界との違和感・居心地の悪さこそが芸術においても本質的なことだ、それがなければ創作活動はなくなるだろう、と。

そこから「反アート」という態度表明につながる。それは安定的な予定調和の世界ではなく、「ものを作り出すことによって少しずつ自分の住処を変え、住処を帰ることによってわたしたちが棲むこの世界の手触りをそのつど、確かめ直していくことが肝要で」、この「反アート」という表明は、どっかにたどり着くためではなく、「不断に帰り続けるための欲望にもとづいている」という。「不断に帰り続ける」という表現にたじろぐ。


「門のまえで」についてのメモ、ここまで
===


ここから本文に入る。
===
第一の門
アートとはどういうものか
===

著者は本の冒頭近くで「アートをたしなむには、なによりもこのルールを共有し、それをもとに美を教授することで、わたしたちが生きるこの時代と、なによりもわたしたち自身の存在を肯定し、高く価値づけるために不可欠な営みである」と断言する。

その直前を読む限りでは、そのルールとは神と王から市民へと主役が移行していく西欧近代中心の歴史に沿ったものであり、「アートはとても血なまぐさい」という。そして、それを裏返せば「アートは現在に至るまで市民社会の誇りであり、アイデンティティでもあり、前の時代と以降の価値観とを、はっきり分けるもので・・・それなくしては、彼らの生きる時代の意味そのものが動機づけを失ってしまう、そういう鋭利なもの」という記述がなされているので、うっかりそのあたりで中途半端に読んでいると、また西欧近代中心主義の思想の中で埋没させられなければならないのか、と感じてしまうが、著者がこの本の結語に記述していることはそれとは反対の側にあるようなことだ。

「ルールはあり、それは誰もが手にすることができるもので、アートは本来理解可能なものだ」というのが、まず、この本の最初に前提として置かれているということは見ておく必要があるだろう。

==『第一の門』についてのメモ、ここまで==




===
第二の門
アート・イン・アメリカ
===

彼らは、その受容者たちから忘れ去られないため、作品を作るのと同等の努力を払って、・・・セレブレティとして、マガジンの表紙やグラビアを飾り、スキャンダラスな発言でアートシーンをかき乱し続けなければならないのです。
 その様は、一種のゾンビの群れであると言ってよいでしょう。
(略)
 ヨーゼフ・ボイスのような、戦後のアートシーンでもっとも神秘化され、尊敬された存在ですら、本質的にはウォーホルと大差はないのです。

 (略)

 アートといえども、近代以降はやはり社会の一部であり、その境界線をなぞりはしても、そこから完全に逸脱してしまうことはありません。逆に言えば、そこがアートの限界であり可能性
103ー104p

ウォーホルのキノコ雲作品 127p

===
冷戦期のソ連圏の美術というと、即座に社会主義リアリズムの絵を思い浮かべてしまい、退屈な具象ばかりではないかと考えてしまいます。が、こういう画一的な発想こそ、見直されなければならないのです。なぜなら、それこそが西側の美術教育の結果かもしれないのです。139p
===

面白い作家は確かにいたとおもうが、公式にその作家たちがどのように扱われていたか、例えば50年代に**さんが共産党員からいわれた話。そのことの問題。


冷戦の終了。アメリカのアート史観がくまなく世界を覆い尽くすこと。具体的には資本主義が、言い換えれば美術市場が世界中に行き渡るということ。151p


ハゲタカファンドと同様の「売り抜け」159p

===『第二の門、アート・イン・アメリカ』のメモ、ここまで===


====
第三の門 
冷戦後のアート・ワールド
====

「作らない芸術」 「もの派」170p〜


=====
第四の門 
貨幣とアート
=====

アートと投機マネーはよく似ている

芸術作品には適正価格がない。
使用価値にもとづいていないから。その価値は、市場での株式証券にとてもよく似ている。
199p

千円札を模写して一枚の絵画にすることで、紙幣と絵画の共犯性を見事に暴いてしまった赤瀬川原平・・・非常に高度な次元での国家的知能犯だった・・・。…こうした高度な次元で物質と形式が絡み合う非実態的な知のメカニズムこそが、アートの名に値する215p

マーク・シェル『芸術と貨幣』
「芸術作品と貨幣経済は同一の起源を持つ」鍵となるのは貨幣の起源としてのキリスト教。

パンが神の肉になるのと同様に、卑俗な物質が、その物質に留まらない非物質的な価値を運ぶ器になる。221p

大切なのは、芸術というものが、その背後に社会をまるごと抱え込みながらも、同時にそれと完全には重ねることのできない領域を残している、ということ…。法が社会秩序を維持する根拠であるなら、法に裁かれながらも、絶対的に重なり合わない領域を残すのが芸術の所業。その領域がいったいなんなのかを探求するのが、芸術についてのもっとも内密性の高い動機づけ。
 その意味で芸術は国家に統御しきれないもの。もし、できるとしたら、それは芸術ではない。芸術やアートは富や力の源泉ではなく、人間と根源的な関わりをなさなければならない。
231~232p

わたしが考えるハイデッガーの「人間」についての理解で重要な点は、人間とは「積極的なかたちではなけれども、なにはともあれ存在してしまっていいる」ということ。234p
 死はいずれやてくるのではなく、そこに自分を投げ放ちつつあることによってしか、そもそも人間は存在していない。それは人は未来に向けて生きているというのとも、人は過去を受け継いで生きているというのとも、人はただ懸命に現在を生きているというのとも、まったく違う異なる存在の在り様です。235p
===
わからん。未来に向けても生きているし、過去を受け継いでも生きてるし、現在も生きている。それらと違うという。「死に向けて自分を投げ放ちつつある」そのことによってしか人間は存在しないっていわれても、投げ放ってるつもりはないけど、存在してると思うんだけどなぁ。

===
「芸術やアートは、人間と根源的な関わりをな」すと言ったが、ともあれ、人間は誇らしく揺るぎない「いま」には基盤を置いていない。それは「いま」(そんなものはないから)を司る人知(国家や法)には最終的に基盤を置いていないということ。けれども、そのかぎりにおいて芸術アートは、西洋の文明が長く忘れていた自意識の以前にある「存在」の秘密に迫りうる

それはお金は汚い、だからそれに関わる芸術も汚いという次元の話ではなく、芸術と貨幣経済の長く密接な親近性に疑問を投げかかる。なぜなら、そこには「いま」がないから。もしかするとそれは、いまある芸術やアートそのものの廃棄にすら向かうかもしれない。
237p
===

ティクナットハンは「いま」を生きることの重要性を説く。ここでは、「いま」を生きることが否定され、その否定こそが芸術の新たな可能性をひらく、と言ってるように読める。やっぱり、わからん。

===『第四の門、貨幣とアート』のメモ、ここまで===




===
最後の門
アートの行方
===

ここでは「わたしたちにとってアートとは?」という形で、冒頭の「アートとは何か?」という問いが再び提出される。

ロンドンで生活して感じたこととして、伝統的なアートと最新の現代アートの間に根本的な溝がない、ということがあげられる。それはキリスト教でつながっているという。

セントポール・カテドラルと向き合うように立てられているテート・モダンという英国の現代美術美術館。そこは「西洋古来の精神を、ただし、昔のままの技法で再現するのではなく、21世紀という時代の精神や技術の発展に関してありうべきかたちを探り、洗練させて、一種のスペクタクルとして実現している」という。

日本の現代美術館がそのようなかたちでは存在していないことに触れた上で、「では、日本ではアートが社会に根づく余地はないのでしょうか」と問い、欧米そのままのかたちでは無理だが、この地ではこの地ならではのやりかたがあってよいはずとし、「肝心なのは、それをいまは失われた伝統へと一気に回帰しようとするのではなく、かつての画壇のように共同体に依存し開き直って固持するのでもなく、その在り様をきちんと考え、みなで共有すること」だという。242-244p

そこで、再びハイデガーが引用されるのだが、その前に、「伝統への回帰ではなく、その在り様を考え共有すること」ということに注目したいと思う。それはローカリゼーションが陥りがちな回帰思考への疑問でもある。しかし、「その在り様をきちんと考え、みなで共有する」などということが本当に可能なのか、だとすれば、どのように。

著者は現代の社会について、政治経済の難問に始まり、環境破壊、戦争の恒常化などを例に挙げ、その閉塞状況に希望や可能性を兆すのがアートの役割であるはずだが、そうなっていないと書く。それをハイデガーは「現況の根源的な原因を、古来社会以来、西欧において成立したキリスト教社会そのものが露呈する、一種の限界状況としてとらえ」る。また、それに対する「即座に有効な処方箋を求める渇望自体が、問題を抱えた社会に固有の特徴なのであって、そうしたその場しのぎ的な対処こそが元来はもっと長く大きな次元で働くべき抽象的思考を排し、結果として現在のような状況をもたらした」。だから、わたしたちがとり戻さなければならないのは「思索の余裕」だという。そして、ハイデガーの指摘する大きな構図として古代復興のイメージを描き出す。ハイデガーというより椹木=ハイデガーだろうが。
こんな風に書かれている。
==要旨==
ソクラテス以前のギリシャにおける真理は、現代のわたしたちが考えるそれとは相当に異なるはず。そうした古代の言葉の響きを詩作=思索を通じて取り戻し、そのことでわたしたちが社会の基礎としているありとあらゆる言葉の枠組みをいまいちど刷新していかないかぎり、本当のオルタナティヴは見出しえない。
==
246-247p

しかし、ソクラテスのギリシャに遡る作業もまた、西欧の枠組みだろう。ハイデガーを引用すると必然的にそうなる。
その限界こそが語られなければならないのではないか。


==
明治以降に普及した工学としての美術・芸術。それは西洋の進歩においつくためのもの、
芸術におけるこのような工学的態度に対して、まったく異なる姿勢を示したのが、大正末期における柳宗悦らによる「民藝」の運動。民藝は一般語になり、ふつうに使われるようになったが、もともとはきわめてラディカルな提唱を含んでいた。それは見る者による無媒介的で直線的な鑑賞を最大限重視する態度 269p
===

柳は、知識や文脈を排して「直観」で見た時に、自分が「これはいい」と思えたものは、どれもみな無名のものばかりだったと言う
270〜271p

民藝には大量生産の工業製品に対して、手作りの技芸を伝承した日用品というイメージがあるが、ここでの話はそれではない。
「民藝」とは大家の手によるものとか、歴史的に価値があるとされてるとか、そういう価値の峻別をいちど完全に均してしまうような、とても攻撃的な概念 271p

民藝の理解では、かたちに込められた心の記憶=手・仕事というのは、美術史のような教育的な知識のなかで尊重せよとされてきた偉大な個人による作品や作家性と、正面切って対立・・・。(略)平凡なものを平凡なものとして見過ごさず、そこに強い意味での「よさ」(平凡がいちばんいいよね、ということではなく)を見いだすというのは、実は至難のわざだから・・・。274p

この世の中で生命という現象に勝るものはない。・・・。これはよく言われるような、ありきたりのヒューマニズムにもとづくものではない。・・・。その精巧さ、潜在的な可能性、由来のわからなさ、端的に存在の在り様において、到底、一枚の絵が対比するものではない。
 芸術の限界を策定することによって、はじめて、その「よさ」というものも見えてくる・・。芸術は人間が作り出したものであり、そのことにおいてそれを超えるものではない。その超え難さにおいて芸術には「芸術の分際」というものがあり、それを正しく見いだすことが肝心・・。275ー6p

もしも宗教というものが、その直下にある不動の混沌を忘れ、崇拝の対象を見誤ることから世界化=権威化したのだとしたら、芸術こそ、そのくびきを解いて、もういちど世界のおそるべき姿を露にする役目を果たさなければなりません。285p

かねてよりわたしは、西洋のアートのように、ひたすら生産(むしろ創造と呼んだほうがいいでしょう)と永遠を目指すのではなく、こうした現れと消滅への志向から発するアートというものがあってもよいのではないか、とくに日本では、そんなアートが必須ですらあるのではないかと・・・。・・・。それらは西洋で美術やアートと呼ばれているものとは、少し異なったかたちで考えなければならない・・・。289ー290p

わたしたち日本列島に住む人には、あの山中や岩や石に面して「よそ」へ還っていくような体験というものが消し難く横たわっているのではないか。なにを美しいと思い、なにを「よいかたち」と思うかといった美的な価値判断の傍らに、そうした感触がいつも横たわっていたのではないか。それが、この国で欧米的な意味での美術やアートを受容することの困難さに、つながっているのではないか。
 この微妙だが変えられない価値判断は、その時々でこそわからないかもしれないが、少し間をおいてみるといつのまにか主調になり、わたしたちを強く規定している。・・・。わたしたちにアートがあるとしたら、それは欧米の価値観に追従するのではなく、案外そんなところから始まるのではないか・・。
 しかしなぜ、わざわざそれを「アート」などと呼ぶ必要があるのか、そうした感覚は・・・、伝統的と呼ばれるものによってこそ見いだされるのではないか。
 わたしはそうは思わない。・・・もっと反自然的な振る舞いを通じて、そこへと至らなければならないような状況がある。291ー292p

アートは限られ者だけに与えられた特権だという考えは根本的にまちがっている。それは
巧妙に作り上げられた罠。

しかしその嘘を維持してきたシステムは強力で、厳然とした現実になっており、そこでは嘘が嘘でなくなっている。

その状態を超えなければならない。

なぜなら、今日の人間にとって芸術という問題は人類の今後の在り様を左右する鍵と言うべき概念になりつつあるから。296ー297p

アートというものは、突き詰めて考えると、ひとりひとりの人間がいまここに存在しているという驚きそのもの。それはあらゆる統計的な考え方を排除。303p

ひっきょう、人生の至言などというものは「人はみなひとりで生まれてひとりで死んでいく」ことに尽きる。(だから個性ではなく孤生と書いたほうがよい)

そのような孤生の現れとしていま、わたしの念頭に漠然とあるのは、誰もが参加することができるような、なにか流動的な生そのもののような芸術・・・。実は西洋のアートに決定的に欠けているのはこの次元。304p

 各人がみずからの孤生と向き合うことの厳しさと甘美さは、これからの時を経て、さらに増していくにちがいない。そんな生の条件がアートの世界にも到来することを予感しつつ、その機が熟するのをわたしは切望している・・・。すべての人がアーティストであるという歯の浮くような台詞も、そのときはじめて、それが本来持つべき辞義を真に取り戻すことができるかも・・。

 それは、アートの名のもとに依然として成し遂げられずにいる、ひとつの待望ひさしい解放なのです。305p

===

この「待望ひさしい解放なのです」という文章で、最後の門は終了する。

この結語に著者の独特な観点が明確に現れているように思う。徹底した孤としての個へのこだわり。しかし、そこから解放に至るという願望にも似た著者の確信、これは何から導かれているのだろう。

ここまで読んで、この本は反アートではない。あるべきアートへの信仰告白じゃないかと感じる。ぼくは嫌いじゃないが。

孤にこだわる記述で、気になるのは『共同体』が、この著者の中でどのように位置付くのかということ。民藝的なものは、日本の濃密なコミュニティが生み出したものではないのだろうか。

====

『最後の門』の次に『門のあとで』という章がある

このエピローグのような部分では、主に岡本太郎がとりあげられる。

ここで岡本の「対極主義」という言葉が紹介される。それは理論的な体系ではなく、ある決断的な態度表明だと。
こんな風に書かれている。
===
美術と呪術のあいだの本質的な矛盾・対立は容易に解決しうるようなものではない。むしろ両者がにらみ合ったまま一歩も譲らず、妥協ではなく祝祭的な決裂が起こるような、そんな座に身を置くことを太郎は選んだのではないか。
===

この章の最後では、岡本太郎の生誕100年でなにをすべきか、という話になる。太陽の塔を爆破してはどうかと著者は真顔で問いかける。また、岡本の骨をロケットに載せて、太陽に打ち込んではどうかと提案する。

その行為にはなんの実質もなく、意味を欠いた行為だが、そんなことをする(考える)ことで与えられる経験の質というものが、狭い社会的な意義というものとは別に、たしかにあるのではないか、と問う。

そして、
===
もし思えるとしたら、アートの門を後にして、反アートの門をもとうに出て、その先の領域に踏み出しているのです。
===
と閉じられる。

この文章の閉じ方はどうなんだろう。ここで、著者に安易に同意してしまうのは違うと思うな。同意したものは「反アート」さえ、すでに超えているというような、冗談とも本気ともつかないような言説で、煙に巻くような閉じ方、ま、面白くはあるんだけど、釈然としないなぁ。


そして、あとがき

あとがきの冒頭に引用された「美術手帖」2009年3月号の文章 「アートにおけるゼロ年代を超える提案」という依頼に答えて書かれた文章とのこと。
===
 生真面目さや形式ばかりの社交から解放され、死と笑いを重視し、わたしたちの生を根本から見直すような芸術しか、要らなくなるのではないか。いずれにせよ、芸術は余剰だ。しかし、その余剰は、富と権威に飽いた者が死ぬ勇気もなく紡ぐ空虚な余暇のようなものであってはならない。芸術の種は、死が迫ってなお笑ってしまうような哄笑の苗床に植えられるべきである。
(中略)
 わたしは、アートが他の表現より優れているというような考えこそ、真っ先に捨てるべきだと思う。すべての芸術は、その手法と知恵をたがいに分け合って、新しい世紀の表情を作り出す必要がある。・・・
===
この引用の文章の最後に略した部分が書きたかったところかもしれないが、省略。長新太さんすみません。


===


ともあれ、著者のアートにこだわり、アートを超えようとする視点には共感できる部分が多い。
もちろん、共感できる部分が多いからこそ、違和感も少なくない。

彼の丸木についての言及をぜひ、聞いてみたいと思う。



追記
『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』(Chim↑Pom他)読書メモ
http://tu-ta.at.webry.info/201012/article_2.html
で、椹木野衣さんの《かつてエノラ・ゲイから見えた「空」》という文章を長めに引用している。


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