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zoom RSS 『発達障害チェックシートできました』メモ その3

<<   作成日時 : 2011/07/06 08:25   >>

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『第3部 同化と異化の共存という課題』
まず、このタイトルが興味をそそる。

以下、また、中途半端なところまでのメモ。


2.「発達障害」を かんがえる

LLページから

(「はったつしょうがい」を どうやって かんがえたら いいのでしょう)

・・・「だったら、『ふつう』になれるように、がんばればいい」って? たしかに、こうした かんがえかたをする人は、いまも おおいかもしれません。でも「そんなの おかしい」と、かんがえた人たちもいます。「しょうがい」をもたない人たちは、 がんばったり、がんばらなかったり できます。でも、「しょうがい」をもつ人たちは、いつも すごく がんばらないと、世の中で、おいてきぼり に されてしまいます。それは、ちょっと しんどすぎる。そんなに がんばらなくても、「ふつう」に 生活できるような 世の中にするのが、わたしたち みんなの 責任じゃないかと かんがえたのです。そんな人たちが、「障害学」という もののみかたを うみだしました。

わたしたちのつくる チェックシートは、この「障害学」から まなんでいきます。「はったつしょうがい」とされる人の おおくが、「おちつきが ない」「ひとの きもちが わからない」 (略) でも、「おちつきが ない」のは、「元気で よく うごく」ってことです。「ひとの きもちが わからない」ってことは、「かってに ひとの きもちを きめつけない」ってことに つながります。・・・95p


====

LLページを写すのは大変なので、途中で挫折。ともあれ、障害学をこんな風に説明できるのだなぁと思った。読んでみたら、なんともないけれども自分で書くのは大変だと思う。


再び抜書き

===
・・・
この「問題のあるこども」としての「多動児」から、「障害をもつこども」としての「発達障害」へのパラダイムシフトは、学校における当該児を排除/叱責の対象から除外することに貢献したが、「特別扱い」が必要な「異質な存在」としての居場所を提供してしまった観がある。「ふつう」のこどもとして叱責されることと、「異質な存在」として配慮されることの、はたしてどちらが当該児にとって幸せなことなのであろうか。いや、そもそも「多動児」が「多動児」として際だってしまう原因は、現代社会が「多動」をうけいれにくい社会になっていることにあるという事実を考慮すると、「発達障害」とは、ほんとうに「障害」なのだろうかという疑念が生じる。しかし、この問いが成立するためには、「障害」と規定されるものの存在が必要である。では、この「障害」とはなんであろうか。97p

===

「はたしてどちらが当該児にとって幸せなことなのか」という問い。重い。合理的な配慮という言説の危うさも、このあたりと関連しているようにも思う。

===
・・・。しかし、先の「障害学」的観点を考慮にいれれば、教師が学校制度の枠組みからはずれていると考える生徒を「発達障害」とカウントすることは、ある意味、妥当なのかもしれない。もちろん、「妥当」であると認定するためには、その後のフォロー、つまり「はずれている」から「障害者」とレッテルをはって放置したり、排除したりする対象にするのではなく、「はずれている」から「はずれなくてすむ方法」を生徒とともに考えるという態度がセットになっている必要がある。101p

===

しかし、もしかしたらすべての生徒が、その彼女や彼が障害者であろうとなかろうと、「はずれなくてすむ方法」を生徒とともに考えるという態度は必要なのではないか。ただ、そのように考えたとき、「障害」とそれに伴う配慮というパターンがあれば、教員は対処しやすいという部分はあるかもしれない。


〜〜〜

4、「差別」のしくみ

学校では「差別」や「いじめ」は「こころのもんだい」「やさしいきもちがあれば、おきないこと」として おしえられることが おおいです。 でも、それって ほんとうでしょうか?

いつも はなちゃんに やさしい ひろしくんが、あるとき「はななんて 学校に こなくて いいよな」って はなしていました。それをきいたら「ひろしくんは ほんとは すごい いじわるだったんだ!」と わたしたちは おもいたくなります。でも、 そうおもいこんでしまうまえに ちょっと まわりに 目を むけてみましょう。ひろしくんは そのすこしまえに、先生に はなちゃんと くらべられて とても かなしい おもいをしたのかも しれません。クラスのなかに「おれたちの なかまに はいりたかったら はなと しゃべるなよ」 っていう子が いたのかも しれません。こんなとき、 たったひとりで「くらべられても へいき」「なかまはずれに されてもいいもん」と きめられる人は そんなに おおくはありません。ひろしくんは こころのなかでは、「はなちゃん ごめん」ってあやまりながら、きもちとは、ちがうことを いっていたのかも しれないのです。

「差別」や「いじめ」を かんがえるとき、わたしたちは こうした「まわりの人との かんけい」が じつは おおきく かかわっていることを しるべきだとおもいます。

「いじめる子」の「こころ」のせいに するのではなく、たとえば、「くらべるってことは 人を きずつけることがあるよ」「ひとが おおぜい あつまったときは いきおいで、『いじわる』に なってしまうもあるよ」いうことを みつけて、そのことを みんなで はなせる場を つくることが 大切です。109p

===

こんどは、がんばってタイプしてみた。半角スペースを辞書登録してqで呼び出せるようにしたら、少し楽になった。簡単な言葉で書いてあるけれども、見落としがちな大切なことが書かれていると思う。


この「4」の本体部分から抜書き。

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弱視のイトウさんは、理科などでこまかい図をうつしとるのが苦手である。そこで、B5サイズのプリントを、イトウさんにのみA3に拡大コピーしてわたすと「どうしてあの子ばっかり」と職員室にねじこんでくる生徒がでる。ブラジル国籍のウノさんは、教室内で音読を指名されると、頻繁につかえ、くちごもる。「もうウノさん、あてんでいいが。授業はすすまんし、本人もかわいそうじゃん」と教師に不平をいう生徒がでる。それをうけた教師がウノさんにのみ事前にあてる箇所を提示し、ルビふりなどをさせたうえで練習させると「ひいきだ」と苦情が出る。こうした事実をどうとらえたらよいのだろう。現在の学校においては、苦情をいう生徒の「平等観」を支持する教員もおおい。しかし、障害者やニューカマーの支援者をはじめ、おおくの「心やさしい」人たちは「弱視の子にあまりに不親切ではないのか」、「ニューカマーの生徒のおかれた状況をかんがえたら、そんな発言はできないはずだ」などと義憤をかんじ、「これこそが差別の実態だ」と結論づけるだろう。110p
===


このあと、「しかし」という部分が続くのだが、それを引用する前に、『障害者やニューカマーの支援者』と思われたりすることもあるものとして、ここに触れておきたいことがある。。ここはあまりにも単純化しすぎではないか。例えば、ウノさんに事前にあてる箇所を教えて、不満の声があがったら、不満だという子にも教えてやればいいんじゃないか。みんなに教えてやってもいいかもしれない。こんな事例を聞いて、障害者の支援者もニューカマーの支援者も、ほとんどの人は「これこそが差別の実態だ」と結論づけたりはしないはずだ。おとなしすぎるくらいだ。そして、生徒もそんな風に苦情をいいに来たりする例は多くないのではないか。言いに来る子に対しては教師は対話の糸口が作れるじゃないかと思う。ゆっくりそのことを話すことこそが大切だと、多くのそれらの支援者は感じると思う。

という、ちょっとした違和感を書いた上で、続きを引用する。

===
実際生徒に「学校にはみんな勉強しにきているんだから、どの子も参加するってことが必要だよね」「イトウさんには、ちいさいものはみえないから、まずは『みえる』って条件をそろえることが平等ってことなんだよ」と説明してみる。それでも生徒は「その場でよめないなら音読は0点でもしかたない」「だったら、普通/日本の学校にこなきゃいい」といいきる。これをもって、生徒が差別的な心をもっているといいうるだろうか。

しかし、本校の生徒は「いじわる」ではない。・・・110p


===

として、給食時に牛乳瓶を割った生徒にみんながやさしい例を示す。そして、次の節で、「成績」が介在すると、他者に不寛容になるという。そして、それは成績で序列化する学校という制度がもたらす構造的な差別だとする。

主張されていることの大筋はそうだと思うのだが、それでもちょっとひっかかる部分がある。

ぼくは生徒が「その場でよめないなら音読は0点でもしかたない」「だったら、普通/日本の学校にこなきゃいい」とかいう風に説明しても食い下がってくれば、くるほど面白いと思うのだけど、どうなんだろう。そこから長い対話が可能になるのではないか。しかし、教員の説明を前に、そんな風に食い下がってきてくれる生徒がどれだけいるだろう、とも思う。そこで、生徒とちゃんと対話できるかどうかが教師の力量が問われる部分なのではないだろうか。

というような、割と些細な違和感はこれくらいにして、次を紹介しよう。次の節で、著者はちゃんと、こどもたちとの対話の重要性について展開しており、それこそが解決策の鍵であると主張している。


そして、ぼくにすごく興味深かったのは

D(環境依存文字、まる5)の「差別をかたるときに重要なこと」

ここも引用しよう。

===
差別をかたるとき、聞き手の心情にうったえかけ、「偏見」「無理解」を是正しようとするこころみは必要である。しかし、それだけにたよることは不十分なだけでなく、危険ですらある。個々の心のありかたにうったえかけることで、おこりやすい問題は三つある。一つは、聞き手が「そうは思わない」「わかったけど、いやだ」といいきることで、対話を終了させる/無化させることを可能にする点である。二つめは聞き手の「偏見をとく」「理解をうながす」というスタンスをとることにより、差別する側とされる側が固定化しているような印象をあたえることにある。これは前述したような「誰もが差別し同時に差別される側になる」という現実をみうしなわせ、結果的に「ひとごと」として聞き流すことを可能にする。三つめは、聞き手がそのかたりを正面からうけとめた場合、個人の心のあり方さえ、変更すれば、状況は可変だと理解してしまう点にある。これは、可変なケースもあるという事実が、同様の状況がつづくのは個人の責であるとの解釈を補強してしまう。個人の責であるならば、「みてみぬふりをした自分」という存在は自分自身にとっての非難の対象となる。状況をうごかせない自分への無力感をつのらせ、あげくは「気づかないようにする」ことを学習する可能性はたかい。・・・113-114p

===

この三つめが、この著者の指摘で興味深い点でもあり、また物議を呼ぶ点にもなるだろう。確かに状況によって、心のあり方の変更で、差別が消えることはあり、それは悪いことではない。必要なことは、心を変えることでなくなる差別と。それでも消えない差別があるということを直視することではないだろうか。その境目は単純ではないかもしれない。しかし、そこを考えることはとても大事なことだと思う。というメモを書いたら、同様のことが、この続きに書いてあった。ぼくは前にこれを読んでいるわけだから、ま、それを言葉を変えて書いただけ、ともいえるんだけど。

===
差別をかたるときに重要なのは、心のありかた以外にどんな要因があるのかをかんがえ、またかんがえさせることだろう。それによって、心だけには還元できない差別の構造をみぬく力を育てることができる。差別の背景には、日常知や制度がよこたわっている。そこから自分のあり方をふりかえることで、差別的な行動への対処の仕方がみえてくるであろう。・・・114p

===

というわけで、ここまではその通りだと思う。

しかし、ここに続く部分で「日常知や制度を疑う」ということの難しさが浮かび上がってくる。それらの《まさに「批判的思考」》で差別という現象の実像を立体化できる、と著者は書く。確かに「批判的思考」は差別の実像に近づくための助けになるだろう。そのことと心というかスピリットの問題を重ねることが必要なのではないかと思うわけだ。


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すぎむらなおみさんが 『エッチのまわりにあるもの――保健室の社会学』 という本を出していることを http://booklog.kinokuniya.co.jp/ito/archives/2013/05/post_44.html で知って、『発達障害チェックシートできました』に関して、いっぱいメモを書いたことを思い出した。 で、いっぱい書いたのに目次がないことを思い出して、作ってみた。 ...続きを見る
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