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zoom RSS 『障害者の経済学』読書メモ

<<   作成日時 : 2011/08/24 20:18   >>

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著者名等をブログに入れていなかったので、検索でヒットしなかったのを反省して、2015年2月27日に追記

『障害者の経済学』中島隆信著2006年2月東洋経済新報社

ぼくが読んだのは増補改訂の前のバージョンで、増補改訂版が2011年09月に発行されている。
出版社のHPによると
親、施設、学校は障害者の方を向いているのか? 経済学の冷静な視点から障害者の本当の幸せを考える画期的な書。「障害者就労の現状と課題」を追加し大幅に加筆修正した増補改訂版。
とのこと。http://store.toyokeizai.net/books/9784492314166/
大幅な加筆訂正は読んでいないので、いつか読んでみたい。
(というわけで追記はここまで)



〜〜〜〜
読後の第一印象は、GDP成長を至上とするメインストリームの経済学から障害をみたら、こんな風になるのか、というもの。著者がGDP成長を至上とするメインストリームの経済学を信奉してる人なのかどうか、ぼくは知らない。

序章には以下のように書いてある。この経済学の中立性という問題の立て方、ナイーブ過ぎると思う。
経済学を障害者研究に適用することの利点は経済学の中立性である。経済学は特定の人の利益には与しない。もちろん、障害者とその家族は多くの面でハンディを負っており、何らかの支援策が必要なことはわかる。だからといって、経済学は障害者の便益を高めるため、社会にそれ以上の負担を押しつけるような政策には同意しない。・・・

もうひとつの利点は、経済学は単純な善悪論を採用しないということだ。・・・例えばボランティアは正しく・・・2-3p

なんだかなぁ。

メインストリームの経済学はずっと特定の人の利益に与してきたじゃないか。新自由主義経済学がもたらした社会の破壊だけでなく、マルクス経済学が経済学としての役割を終えさせられたように見えた時代以降、主流の経済学は基本的に資本主義を維持する側に立ち続けてきたように感じるのはぼくの思い過ごし??

そもそも、価値から自由な学問が成立しているなんて、誰が今どきそんなことを信じるのだろう。

また、ここでいうところの必要な「何らかの支援策」とは何で、「それ以上の負担を押しつけることに反対」というときの「それ以上」の「それ」の線をどこで引くのか。自明なことなど、何もない。すべて社会関係の中で、その線は引かれてきた。それがあたかも、客観的な線が存在するかのような言説。何か、一般向けの本で人のことを舐めてるのか、とさえ感じる記述群だ。

そして「経済学は単純な善悪論を採用しない。・・・例えばボランティアは正しく・・」と書くが、誰がいまどき、そんな単純な善悪論を採用したというのだろう。何か、ないものをあたかもあるもののように書き、それを批判する手法。

また、少子高齢化で稼ぐ人の数が減るのだから、社会保障の負担増と給付減は必然という。確かに一面ではそういえるのだが、では、現在の税の徴収と配分の問題はこれでいいのかという問題はある。そこを問題にすれば、負担は平板に増やし、給付は平板に減らすという話ではないことは明確だし、そのようなことが書かれてもいる。

また、著者は経済学の視点を強調するのだが、基本的人権と費用対効果の問題をどう考えるのか。人権として保障されるべきものがあり、その保障に費用 がかかることはある。例えば、郵便のユニバーサルなサービス。どこに住んでいても同じ金額で郵便を届けてもらうことができるし、集めてもらうこともでき る。都会と田舎で1通あたりのコストはあきらかに異なる。経済の論理だけで考えると、たいへんなことになる。

もちろん、見るべき点がないわけではない。

例えば、「働ける障害者には働いてもらう」という視点。ぼくは「働かない権利」とかいう前に、まず働ける環境が整備されなければならないと思う。少なくとも、働く環境を整備する前の時点で、「働かない権利」とかいわれても、ぼくには説得力が無い。しかし、ここにも費用対効果の問題はあるだろ。働く権利をどこまで誰がどのように保障するか。何をもって、「働いている状態」だとするのか。

ここでも、認められる権利と社会的な合意の範囲がしのぎあう関係が創出される。障害者の権利条約がいう「合理的な配慮」もそういうジレンマを内包している。どこまでが合理的な配慮で、どこを越えたら非合理的と見なされるのか。

そのときどきの、その地域の社会がそれを決めている。車椅子がなければ歩けないというだけで働けない時代が数十年前にはあり、それはしょうがないとされてきた。いまそんな対応があれば、明確に差別とされる。

人工呼吸や経管栄養の人が働きたいといっても、いまでも、そういう場はまずない。そういうケアが必要な人が働けない事は、どうも「合理的配慮」のなかには含まれていないように思える。

また、この序章に書かれている「金銭負担の問題」の問題も興味深い。著者は
福祉サービスは無料という発想自体を変えなければならない。金銭的負担をして財・サービスを購入するからこそ、それを大切に扱おうとするし、負担に見合わない内容だったときには業者に堂々と抗議できるのである。5p
と書く。

そういう立場で自立支援法の1割負担を認める論理にはついていけないが、現実に福祉や医療に関するの財やサービスの無償供与が引き起こす問題がないわけでなはい。

本人の一部負担が無駄な供給を抑制する効果を持つことはある。しかし、その効果は限定的だと思う。無駄な供給を抑える手段は本来、別にあるべきだと思う。

また、この一部負担が必要な医療や福祉を受けられない人を生み出すという問題もある。

問題はその地域での福祉などの財やサービスの供給と本人負担に関して、どのような方法が適当かという社会的な合意を形成しなければならないということだと思われる。と同時に、そこで考慮されなければならないことは、多くの福祉を必要としている人は概して、社会的に発言する機会が少なく、少数派だということだ。それぞれの人が具体的にどのような福祉サービスを必要としているのかということが具体的に見える範囲にあれば、ある程度、同意形成はしやすくなると思う。ある人が「こんな風に具体的に困っている」という状況がリアルに理解できれば、そこにサービスを供給すべきでない。とは言えなくなることが多いと思う。

そして、興味深いのが以下の指摘だ。
福祉の現場に正しいインセンティブをつける必要がる。障害者とその関係者たちが自分たちの利益のために行動した結果として、すべての人々が幸せになれるような制度設計である。5-6p

ここでいう利益とは経済的利益なのだろう。インセンティブはそういうことだけではないと思うが、そういうことは確かに一面ではある。例えば、就労移行支援という事業がある。その人がそこを離れて就労できるようにするころが目的であり、みんながそうしたいと思う。しかし、実際にそれが実現すると、その事業者にはその分の定員割れが生じ、次の人が入ってくるまで、事業者には収入がなくなる。そういう制度設計なのだ。

利害の衝突14pについて

この節で、「障害者の自立一つとってもなかなか話がまとまらない」と記載されるのだが、ここで紹介される例は障害者施設を廃止して、地域で生活できるようにしたらどうなるか、という話。「障害者の自立」という観点からは施設入所ではない方がいいのは明らかで、意見がまとまらないのは障害者の自立をめぐってではなく、障害者の処遇をめぐってだ。

また、「健常者と障害者の壁は誰がつくるのか」という節では、障害者に何かをしてあげなければならないと考える健常者の負担感こそが障害者との壁だと書かれているのだが、その壁がなぜあるのか、という説明としては、どうかと思う。そんな壁もないとは言わないが、些末な話だと思う。壁を作りだしている大きな原因は、子どもの頃から「分けられる」システムだと思う。

というような問題はありつつも、わかりやすくすっきりしてる部分もある。たとえば、障害者に関する問題の「わかりにくさ」についての以下のように
・・・「わかりにくさ」の諸要因の根本はここにある。障害者という名称から生まれるステレオタイプ的な障害者観が私たちの頭を固くしているのである。したがって、この問題をもっとわかりやすくするためには、人間一人一人がみな違うという当たり前の、しかし、忘れられがちな考え方から出発するしかない。25p


37pでは参入障壁を低くして、質の低い事業者を淘汰できるようなシステムが必要なのではないかと提起される。

ここも、そんなに単純な話ではないように思える。例えば、さまざま競争が激しい業種で生き残っている事業者は質のいいところだといえるだろうか?ぼくには逆に宣伝力や規模の大きい利益の獲得に特化したところが生き残り、良心的なところが淘汰されているような側面もあるのではないか、と思える。

56pには「利他主義と利己主義」という節がある。ここでのそれぞれの定義も非常に浅薄だと感じる。とりわけ利他主義のそれ。利他主義だと、相手が喜んでくれないとガックリして、相手に喜んでくれるよう要求するとか、次からはやらない、と書かれているのだけど、それってほんとうに利他主義なの?

利他主義の考え方では、トイレでお尻を拭いてもらった後、「ありがとうございました」と笑顔でお礼をいわなければならない、とまで書いてある。この記述を見て思う。たぶん、この著者は「利他主義」という心のありようを想像することができないのではないだろうか。

63~66pの障害受容をめぐる議論の紹介も甘い感じがする。「障害受容」という言葉が日本でどのような文脈で使われてきたかを考慮していない書き方になっていると思う。66pでは親として吹っ切れることと障害受容は親にとって同じ意味だと書かれている。そういう受容の捉えかたがないとは言わないが、とりわけ、リハビリテーションの文脈で使われてきた「障害受容」の問題は田島明子 さんが指摘してきた話だ。

概略は http://www.arsvi.com/b2000/0608ta.htm に記載されている。『障害受容再考』という彼女の著書も出ている。研究者として、障害に関する本を出すのだから、せめて、ぼくが知っている先行研究くらいは抑えて欲しいと思ったものの、この本が出た2006年という時期を考えると、少し微妙かもしれない。それで言えば、77pに記載されている東京駅の話もそうだ。2006年段階で車いすでホームまで行けなかったかと驚く。まだ、あの秘密の地下通路を使っていた時期なのだろうか。東京駅に誰でも使えるエレベータができたのはずいぶん前だったような気もするが、そうでもなかったかもしれない。

137pでは養護学校のことがでてきる、これが特別支援学校になったのが2007年。これもまだ、それだけしか経ってないのかと思う。ここで著者は養護学校高等部を他の高校と同様、有償化すべきという主張をする。ぼくは他の高校の授業料も無償化すべきだと思うが、それはとりあえず置く。ここで著者は特別支援学校にかける経費が効果に見合ったものになっていない、介助も教員にやらせているのは非効率だと主張し、民間化にして、効率を競わせるべきだという。まず、前提として、ここの主張では「障害者の権利条約」で謳われている「インクルージョン教育」という視点がまったく欠落しているように思う。まず、問われなければならないのは、どうして障害者が地域の学校から排除されなければならないのか、という視点だ。そして、必要で特別支援学校にあって、地域の学校にないことがあるとすいれば、その機能は地域の学校が持たなければならないのではないだろうか。それはコストが多少かかっても、権利として認められなければならないように思う。

141pからは『第7章 障害者は働くべきか』

ここで福祉施設での授産作業などの「福祉的就労」が俎上に乗せられる。ぶっちゃけてしまえば、月に1万円程度にしかならない労働の話だ。それが楽しそうでもないし、就労にも結び付かないなら、どうなんだ。もう少し付加価値が高い仕事ができる人がいるのではないか、という提起がある。そして、政府から補助をもらってまで、そんな風に楽しくもない仕事をするのはどうなのだ、という。かなりまっとうな批判だと思う。そして、利用者もその施設の先に展望がなければやる気が出ないということと、本人があきらめているという問題が原因として挙げられている。147p

本人のやる気の問題として、養護学校での一般就労へのモチベーション形成が重要だという。ここでも、インクルージョン教育の視点が欠落していると思う。普通校で、他の友だとと同様に上の学校に行くとか、就職するとかいう風に思えるような環境を作ることが必要なのではないか。

そして、企業の受入れ体制とマッチングのための仕組みがもっと必要だという意見はその通りだと思う。

156pには納付金制度についてのコラムがある。

この制度のシミュレーション分析をした結果が少し記載されている。障害者の生産性を2倍に向上させれば、雇用は5.5%増え、社会収支も5%改善するとしている。そして、それは工夫で可能なのではないかととされる。

163-164pでは櫻田=乙武論争が紹介されるが、もう少しつっこむべき別の角度があるのではないかと思った。

また、この章の注6では、施設側に工賃を上昇させるインセンティブを与えるような制度が必要だとする。

177pのコラムHは「ユタと精神障害者」というタイトルで、精神障害者の幻聴や幻覚とユタに聞こえたり見えたりするものの類似性を指摘している。沖縄ではこのように精神障害者を社会に取り込んでいるというのだが、沖縄サイドからの反論はないのだろうか?

このコラムの前後で「べてるの家」をかなり肯定的にとりあげている。こんなメインストリームの経済学者とべてるの整合性に注目したい気もするが、「べてる」のパースペクティブはそこからもっと先にあるのではないかと思う。

そして、興味深いのが187pにある現在の年金制度への疑義。「障害」という単純な括りだけで年金を払う現行のシステムへの批判だ。この著者の視点とぼくの視点はかなりずれている部分もあるし、この批判の方向性もベクトルも異なっているように思うが、この結論に関しては合致する。就労支援と年金制度のリンクは必要なのではないかとぼくは思う。賃金補填と年金のリンクといってもいいだろう。危険な問題提起ではあることを承知で書くと、障害区分も就労可能性とリンクさせる必要があるように感じる。

202pのコラムKでは自立支援法に関する記載がある。

ここでは障害者の多くが反対した1割負担を擁護している。以下のように書かれている。
(前略)

厚生労働省が公表している法案概要や趣旨説明などを読むと、改革が必要なことは十分に伝わってくる。福祉という名のもとで障害者は弱者扱いされ、潜在能力は生かされず、税金が無駄に使われている現状は何とかしなければならないだろう。

無料で供給される財・サービスは大切に使われない。「どうせ無料(タダ)なら貰えるだけ貰っておこう」という意識が働くからだ。障害を重く見せかけ、なるべく多くのサービスを受けようとするモラル・ハザードが起きる場合もある。原則10%自己負担となっているのはそのためだ。

ただし、この法案には大きな問題がある。それは保護者対策がすっぽり抜け落ちている点である。内容は供給サイドであるサービス事業に偏り、需要サイドの施策は自己負担を定めたことぐらいですr。

最大の課題は保護者対策なのである。障害者の自立は保護者の協力にかかっている。単に自己負担を課しただけでは保護者が障害者を終日在宅状態にしてしまうかもしれない。法案に効力を持たせるためには、保護者にとっても障害者の自立が得になるような仕組みを・・・(以下略・・・)

ここで、大きく見落とされているのは、この法律が「自立支援法」という名前だけれども、本当の目的は財政出動を抑えることにあるということだ。だから、当然にも親と子を切り離すような政策はここからは生まれない。

ともかく、そこのところがまず、正されなければならないと思う。必要なお金は使われなければならない。

しかし、モラルハザードの問題は確かにあるかもしれないと思う。しかし、それを防ぐ手立てはお金を取ることだけではないはずだと思う。無料だからと無駄に使われてしまうことを防ぐために何が有効なのか。一部有償化して、がまんすればそのお金は自分に残るというのは、どうなのだろう。ここはさらに検討が必要なところだと思う。

そして、この終章の結語で著者は
競争メカニズムの導入は時代の流れで、避けては通れない状況にある。そういたなかで、障害者をはじめとする経済システムにのりにくい人々をどう位置づけるか、そこに社会の英知が試されている。203p

と説く。ここに著者とぼくの根本的な対立がある。効率や利益を求め、自然や人間関係を破壊することをいとわない経済がほころび始めているのではないか。そうではない社会が求められている。もちろん、人間は急には変われないので、利益誘導的な制度がいらないとは思わない。しかし、そこから徐々にランディングして、競争ではなく、協調を主旋律にする社会が求められているのではないか。障害者に限らず、何かができることではなく、その存在自体が祝福されるようなありようが求められているはずだ。

そして、「あとがき」には自分は障害者の親という当事者だから、障害のことをテーマにするのは迷いがあったという。「当事者主権」という考え方とはきっぱり違う、すごく古い研究者のスタイルだと思う。これは最初に指摘した「研究の中立性」とかにもつながるだろう。当事者でなければわからないことは多いし、当事者であっても自らを突き放す視点を持つことはありえ、当事者であるからこそ見えることを社会の文脈の中に据えなおすという研究のスタイルが求められているのではないかと思う。

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