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zoom RSS 「障害のある子の親である私たち」(福井公子さん著)メモ

<<   作成日時 : 2013/10/19 03:01   >>

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「障害のある子の親である私たち」(生活書院)、9月の障害学会で購入した本。



本の帯には以下のように書いてある。「『親亡き後』という言葉が私は嫌いです。でも、口に出すことができませんでした。どうして言えないのか。私の口をふさぐものは何か」。そのような話でもあるのですが、Web連載を読めばわかるように、読みやすい文章で、語りかけられているように感じます。


この本、中身もいいのだけど「あとがき」が圧巻(だと思う)。
少し引用

「私たちとそっくりだ」。ある日、被災地の方へのインタビューを見ていて思いました。

 2011年 (中略) 非難されることを覚悟で正直に言えば、どこか遠い他人事にしか思えない私がいました。

 でも、被災地の方の言葉を聞くとき、その距離は急に近くなります。「前を向いてがんばります!」「いつまでもくよくよしていても仕方がない!」テレビをとおしてそんな言葉を耳にするたび、私たち障害のある子の親の姿と重なるのです。

 言わされている。そう、相手が期待している言葉を言わされている。私にはそう思えるのです。本当は割り切れない想いがあるはず、もっと複雑な想いもあるはず。私のように他人事と思っている人への恨みつらみもあるはず。その言葉を言えなくしているのは他者である私たちに違いありません。当事者の明るく元気な姿は、他者にとって自らの差別意識や抑圧性を自覚せずにいられるから、他者からの役割期待を引き受けてしまうのは、支援する側に共通するものなのかもしれません。


「あえて、ネガティブな話をしよう!」被災地の方の姿に私たちを重ねたとき、そう思いました。そこにこそ、ほんとうのことがあると思ったから。

 赤でも青でもない、その間の微妙なグラデーションや陰影を伝えようとしたとき、自らの表現力のなさを悔やみました。そもそもどんな色を表現したいのか、いまだにもつれ整理のつかない自分であることも認めないわけにはいきませんでした。

 それでも、いつの間にか言えなかった私は言える私に変わっていました。それは他者に対して、社会に対して新しい波紋を広げることになるのかもしれません。  (以下略)221-222p


だけど、ここで福井さんが書くほど、ネガティブな話ばかりじゃない。あたりまえだけど、それだけで福井さんは生きていないから。ネガティブなところを隠さずに表現しながら、彼女の島でのすてきな活動の様子も垣間見ることができる。


しかし、被災者は明るい話をしたいのかもしれない、とも思う。とりまく重く複雑な現実。暗く厳しい話はできるだけ遠ざけたい。だから、福島でマスクをしていることが取りざたされたりするのではないだろうか。

もしかしたら、マスコミはつらく悲しい現実をニュースに流したい場合も多いかもしれない。そして、たくさん話させて都合のいいところだけを切り取るのだろう。悲しいコメントが必要なときにはそのように、明るいコメントが必要な時にはそのように。

そんなテレビなどのメディアで、複雑なことを伝えるのは至難の技だ。
福井さんが書いているように、メディアに語ったとしても、そのままは使われないのだろうなとも思った。




以下、気になったフレーズ

私たちは障害のある子を育てるのが大変で絶望するのではない。「誰もわかってくれない!」。私たちが絶望するのはそう感じた瞬間なのです。77p
似たせりふをどこかで聞いたことがあるような気がする。
例えば、放射能被害と放射能がもたらす分断。
貧困そのものと差別。
モノやコトとの関係よりも他者との関係が人を絶望させる。


人は必ず成長する!
それにとらわれすぎると、私たち親は幸せになれないのです。89p
あるがままの他者を認めること。それはそうだと思う。存在すること自体が祝福される必要があると思う。
しかし、可能性を追求したいという思いもまた自然なものだ。可能性と不可能性を見極めるのはそんなに容易なことではないなぁと思う。


 「弱くあること」「できないこと」をどう受け入れていくのか。(略)私はずっと自分と戦っていました。(略)もっと重い障害の人や、寝たきりの人、障害が進行する人などはどうなのか。それらすべての人を肯定する「原理」のようなものを、いつか私は探すようになっていたのです。 93p
doingとbeingという風に整理できるかもしれない。beingの価値が貶められる社会こそが変わらなければならないのではないか。

 あっけらかんと権利を主張する若いお母さんたち。障害特性を理解しているというだけで、障害を受容していると思い込んでいるお母さんたち。本人の真の代弁者になっていると思っているお母さんたち。「母よ! 殺すな」という障害者当事者の叫びに、私たちはどう応えられるのでしょう。103p

ここで、福井さんが書きたいことはわかる(ような気がする)。
その上で、あえて書くのだけれども、
ぼくは権利はあっけらかんと主張していいと思う。
障害受容については、それがいったいなんのか、いまだによくわからない。
そして、母親が自分は代弁者だと思い込める社会がまだ存在しているのだとも思う。
しかし、いつも気になるのは「母よ」という呼びかけだ。父は話題にもされない。そして、母だけが断罪され苦しめられるということが、まだ完全に過去のことになっていないのではないかと思える、育成会メンバーのジェンダーバランスを見ても。
以前も書いたのだけど、「母よ! 殺すな」のあとに「母を殺すな」と付け加える必要がある場合も少なくないように思う。

それは
http://tu-ta.at.webry.info/201003/article_11.html
でも少し書いたし、そのもとになった文章で児玉さんが主張していることでもある。



「TEACCHでは早くからの統合保育は意味がないばかりでなく、混乱を招く」というのが紹介されている。113-114p

このTEACCHがわからない。よく聞くんだが。知ることが必要なのかなぁ。ともあれ、いくつになったら、意味が生じるのだろう。
混乱を防ぐだけなら、家の中で隔離か、とか毒づきたくなる。どの段階での統合が望ましいというのだろう。

125〜126pにかけては、就労支援施設の工賃倍増などへの疑義。
まさにぼくがいまやってることと重なり、それがかなり否定されているようにも読める。
ぼくはいま、就労支援施設でもっと稼げというのを仕事にしている。もっと本気で稼ごうというのを地域に呼びかけたりしている。それで失敗もしてるのだが。
効率も生産性も要求する。それが就労支援施設のあり方だと思う。もちろん、できることとできないことはある。そこの見極めは難しい。しかし、できないとハナから諦めてるところが多いようにも感じている。

事業・就労として効率も生産性も大事だと思う。

しかし、同時にここまでしかできないという人がいるのも確かで、効率も生産性も追求しながら、そういう人の存在もありという世界観がありえるのではないかと思う。

レベッカ・ソルニットがいってるように、「あれか、これか」という問いに対する回答はほとんどの場合「どっちも」が正しい。

140-141pの
「人間」宣言!

これ、いいと思う。
「人間」宣言!

「神様から選ばれた人たち」
障害のある子の親はそう言われることがあります

「この子を産んでよかった!」
私たち親もよくそう言います
そして、社会の人はそのことに感動してしまうのです

でも、あえて私は「この子を産んでよかった」とは言いません
もちろん、息子から学んだことはたくさんあります
でも、「この子を産んでよかった!」と言ってしまえば
「すごいですね!」「えらですね!」「がんばって!」
それで済まされてしまうからです

私は決して神様から選ばれた人間なんかじゃない
人に感動を与える役目をもっているわけでもない
私は生身の人間です

子どもに障害があると知らされるのは、とても辛い出来事です
大きなショックや喪失を経験した人にまず必要なのは
心のケアだと言われています
それもできるだけ早いうちに…

親自身が自分への尊敬を取り戻さなければ
子どもなんて育てられるはずないのですから

私たち障害のある子の親は
誰よりも気持ちの支援を必要としている
普通の人間であるということにきづいてほしいのです

障害のある子を持ったことを「神様から選ばれた人」と自覚している人もいるだろう。
その人はそう呼ばれることで自身の尊厳を保っているのかもしれない。
そういうありかたもあるだろう。しかし、その人もまた気持ちの支援が必要だということは間違いない。


・・・自分の子どもの暮らしさえ落ち着けば、社会の問題に興味をもたなくなる人がとても多いのです。
 それはどうしてなんだろう。そのことをずっと考えてきました。そしてあるとき気がついたのです。
 もしかして「私」がキーポイントではないかと。つまり親である「私」のことはさておき、子どものためにとばかり考えてきたことに限界があるのではないか。
 親である「私」が自分の人生を大切に思い「私」の権利に気づいた時、初めて障害のある子を一人の人間として尊重し、あたりまえの権利を保障していくことに強くこだわり続けることができるのではないかということ。そして、それが社会の在り方を問う活動につながるのではないかということ。 165p

「自分の子どもの暮らしさえ落ち着けば、社会の問題に興味をもたなくなる人がとても多い」のは、ある意味、普通のことだと思う。とりあえず、そこが大事なのだから。
 でも、ぼくも福井さんと同様、その先に行って欲しいと思う。それを考えるとき、「私」の権利に気づくことは大事なことだとも思う。

 誰でもがその先まで行けるとは思わないけれども、子どもの暮らしが落ち着いて、一息ついたら、社会のあり方を問うような活動に戻ってこれるような、戻りたくなるような、そんな活動を準備することも必要なんだろうなぁと思った。


178pからは乙武さんの「五体不満足」がとりあげられているが、福井さんは文庫になった「完全版」は読んだのかなぁ。その後の乙武さんの苦悩はそこにでている。

196Pから始まる「巣立ち支援」では子どもが30歳になったら親は介護から卒業するという提案がなされている。こういうのは必要なんじゃないかと思うが、いまの安倍政権下の逆コース、家族が家族がという話の中ではなかなか実現は難しそうだけど、どうしたら、これを実現できるかという戦略的な思考みたいなものが必要なのだろうなぁと思った。

207ー208pには以下のような記載がある。
 例えば、貧しい国の子どもたちが、純粋でキラキラした眼をしているなどと言って。私たちは感動したりl賞賛したりすることがあります。けれども、それは彼らを犠牲にして経済発展を遂げた国に住む者の欺瞞でしょう。彼らが本当に求めているのは困難の軽減であり彼らに対しての支援であるはずです。
この「困難の軽減」という部分まではまったくその通りだと思う。とりわけ「彼らを犠牲にして経済発展を遂げた国に住む者の欺瞞」という指摘は忘れてはいけないはず。しかし、彼らが求めているのは支援なのかどうか。ただ、その踏みつけている足をどけてくれ、その先は自分で歩いていく、ということじゃないかと思ったりもする。

また、210pでは入所施設や特別支援学校の「ニーズ」と呼ばれるものは、本当にニーズなのか、という指摘も興味深い。

これらの記述を経て、最初に紹介した「あとがき」に至る。こんラディカルな人が会長やってる「育成会」、面白そうだなぁと思った。


ともあれ、なかなかラディカル(根源的)で面白い本でした。オススメ。

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