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zoom RSS リベラルじゃダメですか?メモ

<<   作成日時 : 2014/12/04 05:22   >>

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さくっと読める香山リカさんの書く新書。

読了直後のの読書メモには以下のように書いて、松井さんの書評を紹介している。
確かに香山さんが主張するようにリベラルな社会運動のダメな部分はある。それを認めた上で思うのだが、香山さん、社会運動は誰か自分とは別な人が組織するものだと思ってるんじゃないかなぁと感じた。いまの社会運動が抱える問題を直視して、なんとかしようとしている少なくない人の存在が見えていないのが残念。例えば リンクを掲載する以下を読んで欲しいです。

「松井さんの書評を掲載するにあたって」/つるたまさひで http://www.peoples-plan.org/jp/modules/news/article.php?storyid=379



「リベラル」として攻撃され、嫌われる(と本人がいう)著者自身の分析から「リベラル」をかかげる運動の問題の指摘は、それとして興味深いし、社会運動の側がちゃんと考えなければいけない課題だと思う。そして、リベラルを嫌う人たちの心情の分析もそれなりに読むところがあったが、実際、どの程度の人がそのような心情をそれなりに強く持っているのだろう。おそらく、一人ひとりの中に、リベラルを求める心とそれを否定する感情が同居していて、比較的にきわどいバランスの中で、どちらかの面として、その心情は表象されているのではないかと思うのだが、どうなのだろう。

そして、リベラルな感じを否定すべきものとして表現している人は確かに以前より増えているのかもしれない。それがどのくらいの%で増えているのか、リベラルを嫌う感情に相対的に強いシンパシーを抱く人が全体の中でどの程度占めるのか、各世代500程度のサンプルを無作為で抽出して誰か調べてくれないかなぁと思った。

で、この本の話に戻るが、そのようにリベラル攻撃したくなる世の中の分析もそれなりにおもしろい。


ただ、前提として、ぼくは自分のことを左翼だと思うことはあるがリベラルだと思ったことはない。もちろん、ここで出される広いリベラルの規定には含まれるのだろうけれども。

彼女は最後の方でリベラルを以下のように規定している。
・個人の自由の尊重
・極端な格差の是正や社会的な弱者への救済などの社会的公正を求める
・新自由主義や自国中心主義への批判
・ヘイトスピーチや障害者差別を許さない、
195ー196p


この本の冒頭近くにある、香山さんが処遇困難者病棟問題に当初は無自覚で、それが問題になって、やっと気づいたという話は共感できる話だ。そんな風に人は気付くことができるのだが、ラディカルな活動家は精神科医として、その問題に当初から気付かなかったことを批判するかもしれない、とも思う。同時に当事者運動が彼女がその問題に当初から気付いていなかったことを非難するというようなことがあるとすれば、その非難には根拠もあるのだろうなとも思う。


メモに残しておこうと思ったのは3章以降。
3章のタイトルは「ポジナショナリズムの時代」

香山さんのナショナリズムの分析は
ぷちナショナリズムからガチナショナリズム、そしてポジナショナリズムと言うもの。
このポジナショナリズムのポジとはネットスラングの「ポジる」という言葉(持ち上げる要素がないにもかかわらず、特定の対象を賞賛したり、すぐれていると強調したりすることを意味する)からきているとのこと。

具体例として今年のサッカーのW杯の日本の惨敗の例が出されている。
そして、それは数年前のガチなナショナリズムとは異なり、希望や期待を現実と勘違いし、お互いに正当化しあうことで共同幻想を築くというように楽観主義よりも幻想に近いものではないかと分析する。

そして、日本賛美の番組の氾濫が生み出す効果への危惧が書かれている。

マスコミが自国を持ち上げた末に何があったかについて、山川出版の歴史の教科書の柳条湖事件以降にマスコミが果たした役割の記述を引用する。
・・・新聞はいっせいに、「明らかに支那側の計画的行動」と断定的に報道して中国側を非難し、「日本軍の強くて正しいことを徹底的に知らしめよ」といった類の、日本軍の行動を熱狂的に賛美するキャンペーンを展開した。・・・満州各地をつぎつぎに占領する日本軍のようすが伝えられると、国民の興奮はいっそう高まった。
 こうしたマス=メディアの強硬な主張に支えられ、日本の関東軍は政府の不拡大方針を無視して、さらに軍事行動を拡大し続けた。・・・
 このような新聞などジャーナリズムの活動を通じて、政府の事変不拡大・協調外交路線は世論の支持を失って挫折し、日本は戦争への道を突き進むことになったのである。
149ー150p
その時代といまを重ね合わせるのはネガティブすぎるだろうかと、自問してこのポジナショナリズムの3章は閉じられる。

4章は「リベラル派が生き残るには」というタイトル。
そこで勝間和代さんと著者の対談がひきあいに出される。勝間さんの貨幣という評価システムの賛美へのかなり激しい違和感を書いた後に、そういう自分がどうだったのか、と呻吟する。
そして、売れないことを誇りにするような編集者に対する違和感を表明し、その微妙なバランス感覚の必要性を書いている。
このあたりはかなり同意できる部分だ。レベッカ・ソルニットが言ってる「あれかこれかと問われたとき、その答えはだいたいどっちも」てな話だろう。

香山さんも書いているが、依頼する講師に対して「金が払えなくて当然」というような団体があって憤慨してる友人もいて、そんな話は確かにひどいと思う。金が払えないことはあったとしても、そこは少なくとも、「申し訳ないけど」とか「来てもらえなくても文句はない」という立場で話す必要があるだろう。いまどき、そんな風に高飛車な団体がどれくらいあるのかも不明だが、ぼくも話を聞くということは、まだあることはあるんだと思うが、そんなに多くはないはず(だと思いたい)。

ただ、ここに出てくるスタバの話にはちょっとだけ違和感も。スタバがいやなのは、それが金持ち臭いからというより、その会長がイスラエルやシオニストを応援してるからだ。しかし、そのあたりの前提がなかなか共有されていないのだろうなとという感じはある。ま、スタバ好きは身近にもいるし。

茶封筒を使ったカンパ袋への違和感については考えたことがなかったが、こんな風に感じる人がいるんだなぁということを知ることができたのはよかったかも。

高円寺の「素人の乱」の運動のような「富裕は敵」的な感じに香山さんが違和感を抱いているのかもしれないが、そういうのをリベラルと呼んでいいのかどうか。それに高円寺の運動はそれもしゃれにして笑い飛ばしてる部分もあるってところは見てほしい。

ぼくも思う。
「金持ちなんかくそ食らえだ、でも金持ちになれたら、それもちょっと悪くないかも」って。

そして、182p以降では脱原発運動と福島差別」の問題について、開沼さんの文章を援用しながら触れている。これは果たしてリベラルの問題なのだろうか。運動内部にそして福島の内部にも悲しむべき亀裂があることは間違いない。その克服はすごく大切な問題だと思う。そして、そのために具体的な努力をしている人たちも少なくない。本来、手を取り合えるはずの人たちがいがみあうのは確かに残念な話だが、開沼さん的な議論の建て方ではなかなか前に進めない感じはしている。香山さんが指摘しているように「正義」を背負うことが話をややこしくしている部分はあると思う。そこをどうほどいて、対話できる関係をつくっていくのか、ということが問われていると言えるかもしれない。相手にレッテルを貼って、ばっさり切り捨てて終わりにすべきではないだろうと思う。そういう議論の仕方を開沼さん側(こんな呼び方もどうかと思うが)もしてしまっているのではないかと感じる。

そして190pにあるように社会運動側に自らが少数派である自覚がなく、自己満足で終わってる部分も確かにあると思う。その理由が香山さんが指摘するように「不安を認めたくないから」かどうかは不明。

香山さんがここで感じる「忸怩たる思い」(191p)も理解可能なのだが、香山さんにはそこでとどまらずにその先を語ってほしいと思う。そして、それは不可能ではないと思えるのだけど。

続いて、日本でキリスト教が広がらなかった理由に学ぶべきという話が出てきて、キリスト教の内部の問題が記述され、リベラル派ははそこに学ぶべき、とあるのだが、まず前提として、キリスト教側の主体の総括としては、そういう面はありえるにしても、日本が韓国(や中国?)のようには布教に成功していない、もっと大きな理由は他にあるんじゃないかと思う。それが何かをいますぐには明示的に書けないけれども。

そして、この本の最後の節で香山さんは、冒頭で紹介したリベラルの規定を受けて、やはりリベラルはやめられないと書く。

そしてこのメモのはじめの方に書いた、そんな風に思う人の割合の話に誓い話も少し出てくる。香山さんが日常、大学で会話するなかでは、ネトウヨ的な言説にであうことはなく、現状では、空気のようにリベラリズムは根付いているという。その空気のようなリベラリズムがネトウヨなどからの攻撃で「空気のようにそこにあるとは言えなくなってきた」という。

そのようなひどい状況からリベラルを奪い返さなければ日本に未来はない、というようなのが香山さんのこの本の結語であり、主張だ。


さっきも紹介した以下が香山さんのリベラルの定義だ。

・個人の自由の尊重
・極端な格差の是正や社会的な弱者への救済などの社会的公正を求める
・新自由主義や自国中心主義への批判
・ヘイトスピーチや障害者差別を許さない、

これらは、間違いなくそうだと思う。
それをリベラルと呼ぶかどうか?
さっきも書いたようにぼくは自分のことをリベラルだと考えたことはあまりなかったけど。


ともあれ、この本、ぼくには香山さんからの社会運動に対する指摘という部分がすごく印象に残った。
時代の空気が変わっていることをちゃんと理解できていないのではないかという指摘でもあると思う。
読んだ直後は、じゃあ、香山さんがそんな風に運動を組織してみたらどうなの、と思ったのだが、社会運動がえてして自己満足的でかなり主観的になってしまうことを、外から見てもらうことは必要かもしれないと思い直している。
ただ、いまでも若干、そんな風にいうのなら、組織する側に回ってみればという思いもないわけでもないけど。

これも、前に書いたのことの繰り返しだけど、ぼくは貧乏臭いのは嫌いじゃないから気がつかなかった「カンパ袋が茶封筒なのがいや」っていう人がいるのは新鮮な発見だったなぁ。


とかなんかで、すらっと読み流せる本なのに、それなりにひっかかるところがあって面白かった。

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