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<<   作成日時 : 2015/09/12 22:33   >>

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『釜ヶ崎と福音』メモ(前半)

この本の著者である本田哲郎神父を追いかけた番組をテレビで見て、すごいと思い、本を読みたくなった。川本隆司さんに、「1冊読むなら、どれでしょう」と聞いて、教えてもらったのがこの本。

Web上に以下のようなものもある。
平成二十年七月十三日に、NHK教育テレビの「こころの時代」で放映されたものの書き起こし
弱き立場の人々に学ぶ
カトリック司祭 本田哲郎
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-354.htm
本田さんの言い方だと、「弱き立場の人々」じゃなくて、「小さくさせられた人々」かな?


そして、図書館で借りて読んで、ショックを受けて、メモを書いてる途中で購入したので、このメモ、はじめの方は単行本を参照してそのページ数を記載してるけれども、途中から参照するページ数は文庫のものになってる。



釜ヶ崎では夏祭りの最終日の慰霊祭(その年亡くなった労働者の慰霊)を行う。仮祭壇にはいつのまにかコインが置かれる。

この司式をするために祭壇にいた本田司祭に、ある労働者が「おっ、両替してくれ」と。司祭は「なんだ、こいつは」と思って「なにすんの?」と乱暴にとがめたら、彼は自分の連れが死んでいたので、なけなしの500円玉を崩して、朝飯代だけを残してお供えしたい、とのこと。自分にそれができるかと本田司祭は自らを問う。7p



「隣人愛」について。自分の家族のようにただの隣人を愛することなどできない。その「愛」はギリシャ語では「アガペー」。これは「大切にする」という意味。その人に愛情も友情も感じなくても「人として大切にする」ということ。8ー10p
これも目からウロコだった。そうだ、愛情も友情も感じなくていいんだ、というのはけっこう楽かも。
ま、家族だって愛せないこともあるけどね


「よい子症候群」だった本田司祭
子どもの頃から、どうしたら大人の期待に応えられるか、が判断基準。そのまま司祭になる道を選び、大学を卒業してから6年、哲学や神学を勉強して卒業時に「聖書研究所」に誘われるというように「自然と陽の当たるところを選んで」いた。よい子症候群の神父。そのままフランシスコ会の日本管区長に選ばれる。このとき本田神父は「これで日本のフランシスコ会は駄目になる、腐っていく」と本気で思った。こんないい加減な宗教家が日本の責任者になったのです、と書く。

自分のことを以下のように考えていたらしい。
・人の顔色ばかり見てしまう
・人の期待にあわせることしかない
・本心がどこにあるか自分でも定かではない
・ある意味では多重人格
・結果的に自分を偽り、神を偽っている
そんな自分を解放しようと、本田神父は祈りによって、自分を変えようとした。1年・2年、真剣に祈った。しかし、変えられなかった。いい子症候群の自分は死ぬまでこのままか、と半分あきらめていた、とのこと。15ー22p


ここで本田神父は以下のように書く。
祈りや黙想、礼拝参加は、ちょっとした自分の見直しのためには、いいものです。だけど根本的な、本質的な問題にぶつかっているときには、祈りや礼拝によるだけでは何もかわりはしない。 21p
これ、祈りの尊さとかを信仰してる人には、耐えられない表現かも。

そして、本田神父は釜ヶ崎での原体験ともいうべき(その表現は使っていないが)体験をしたことを記述する。以下、感想を含めた要約

〜〜
いい子症候群の人間として、釜ヶ崎での夜回りに参加し、勇気を出してやっと毛布を配ったときに「兄ちゃん、すまんな、おおきに」と言われたという、ぼくからすればそれは、ある意味、どうでもいいような体験なのだが、その一言で、「それまでの緊張がすっかり溶けて、ふわぁという解放された気持ちになった」という。
だけど、なんだかよくわからない。まあいいかと流す。何日かたって、やっぱりなんか違うな・・・、何だろうと考えてみると、人の目が気にならなくなっているみたい。でも、まさか。ごく小さい頃から人の目を気にする自分で、そういう自分から解放されたいと願いながらも半分あきらめていた。それがなぜか「よい子」のおもしがなくなっているみたい。しばらくはわけがわかりませんでした。


そして、そんなことがあるわけがない、宗教者のわたしがあの人を元気づけたというのなら納得して満足したはずだが、そんな風に声をかけられたくらいで長い人生の重荷が解かれるとは思えない。というようないきつもどりつをして、試しに山谷に行ってみた。(29p)


生まれて初めての土方仕事。そこでの労働者との出会い。人を解放するパワーを持っているは、ほんとうにつらい思いを日常的にしいられている人ではないか、と思いつつも、納得いかない。救いと解放はクリスチャンからノンクリスチャンのはず。(31p)

もしかすると、自分の聖書の読み間違いだったのかと感じて、旧約はヘブライ語で、新訳はギリシャ語で読み直す。そして、従来の読み方の違いに気づく。聖書に書いてあったのは「力は弱さの中にあってこそ十分に発揮される」(34p)(文庫36p)ということ。

また、以下のようにも書かれている。
 神の力、人を生かす力とは、こちらが元気だから、元気を分けてあげられるというようなものではない。人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒り、それがわかる人だからこそ、人を励ますことができる。「よし、もう少し頑張ってみよう」という力を、いつのまにかその人の内に引き起こさせる。聖書に書いてあるのはそういうことだったのです。34p



そして、大胆にも聖書を以下のように一言で要約する。
ひとことで要約すれば、力は弱さの中にあってこそ十分に発揮される、と書いてある。つまり、貧しく小さくされた人たちのいつわらざる願いを真剣に受け止め、その願いの実現に協力を惜しまないときに、人は共に救いを得、解放していただける。それが神様の力・・・」(文庫37p)



以下、ページ数はすべて文庫版を参照)
〜〜〜
大事なのは、どのくらい自分がその人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りにひびき合えるか、共感共有できるか、それにかかっている…。

そして、本田神父は6年働いた管区長をやめてから釜ヶ崎に住み、1、2、3年と経て、
 ほんとうの意味での元気やいのちのわくわく感を伝えるのは、小さくされている人の方から、そうでない人に向けてであることに気づく。38p(文庫41p)


そして、
「わたしは神父でありながら、教会の信者をふやそうという発想は、これっぽっちもなくなりました」(文庫41p)

さらに、
「あんたの宗教だったら、わしも入ってもいいと思う。洗礼ちゅうのをやってくれよ」と言われても、たいていの場合「信者みたいなもん、ならん方がいいよ」と答えるという。それは釜ヶ崎で洗礼を受けた人が、かつての野宿仲間を「あいつら」という風に見下げるようになる場合が多いからだと書く。(文庫41p)


イザヤ書40章1節
「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる」

この聖句の「慰めよ」の原語であるヘブライ語「ナッハム」の意味は英語では "to have compassion with" とのこと。つまり痛みを共感・共有するということ(52p)。そして、コンパッションの大切さを説く。それは日本語の「慰める」とはズレがあるとも思うのだが、本田神父は以下のように書く。
「慰める」も「励ます」も何かを与えることではなさそうです。慰めるために知識が必要なわけではない。何かしらの方法論やテクニックがあるわけではない。大事なのはそばにいてあげて、そのしんどさを共感、共有すること。いっしょになて腹を立てることができるということです。いっしょになって悔しがる。そのとき、本人の内から力がわきあがる。それこそが大事なことなのではないかと思います。53-54p
これ、エンパワメントだよね

また「あわれみ」について、従来のカトリックなど、従来の宗教は「あわれむ」ことをよしとしてきた。
「しかし、あわれむ側は気持ちいいかもしれないけれど、あわれまれる側のつらさを思おうとしないのです。大事なのはあわれみではなく、痛みの共感、「コンパッション」だと思います。」57p 
という。


それから興味ぶかかったのが本田神父が釜ヶ崎に来て学んだことの中で伝えたいこととしてあげている「相手の立場に立って考えようとしないほうがいいよ」という話。大事なのは「相手の立場には立てないんだ」という前提を理解することだと強調する。たぶん、その上で想像力を働かせることは必要なことだと思うのだけど、そのほんとうのところで「相手の立場に立って考える」ということはできないという自覚の上で、想像力を働かせることが問われているのだと思う。そして、彼は
ありのままの自分として、日雇いや野宿の人と向き合い、彼らが経験してきたことに敬意を払い、少しずつ何かを教えてもらおうという立場で関わることが大事であり、相手の立場に立てなくてもアンダースタンドすることはできる。アンダースタンドとは相手よりも下に立つということだ
と書く。 57-58p

だけど、同時に当事者を必要以上に持ち上げる必要もないという指摘も本田さんがしているところは見ておかなくてはいけないところだろう。

そして、釜ヶ崎で知らず知らずに自分がそんな風になってきてから、労働者たちから「本田さん」「本田さん」と受け入れてもらえるようになったという。58p




「マタイによる福音書」の「山上の説教を始める」というとこ
「心の貧しい人々は、幸いである」「新共同訳」

「心底貧しい人たちは、神からの力がある」 (本田訳)
62-63p

この部分については
http://hel4y.hatenablog.jp/entry/2014/10/10/090000
も詳しい。

新共同訳の翻訳時に議論し、さまざまな案がでたが、聖書協会は、定着しているから変わると読まれなくなるという理由もあって、採用しなかったとのこと。本田さんはこれを「なさけない話です」
と評価している。63p


野宿するほどに貧しい状態に置かれている人に「貧しい人は幸いですね」と言ったら「アホか!」といわれるに決まっています。64p


これだけは言っておかなければならない、として本田さんは以下のように書く。
「とことん貧しかったイエスには、謙遜、へりくだりを示す余裕などこれっぽっちもなかったのです」65p


だから
イエスは「食い意地の張った酒飲み」といわれていた。66p


そして、
イエスが「食べさせてくれた」という訳も間違いだと思うという。71p
イエスが生きてきたコンテキスト考えると、そうではなく、「自分で食べていけるようにしてくれた」であるはずだと。73p


だから、寄せ場での炊き出しや夜回りは不必要かと言えば、そうではなく、緊急避難として必要なことであり、ただ、こころがまえとして、「みんなが望んでいることは、こんなことではないんだね」という気持ちが大事だという。73ー74p

2章 宗教を越えて福音を

89pでは、そこそこやっていけるときではなく、ほんとうに支えが必要なときに「ただ明るい人」はなんの役にもたたない、と本田さんはいうのだが、ほんとうにそうかなぁという感じもある。ほんとうに支えが必要な状況というのをあまり経験したことがないのだが、そんなときに邪心なく「ただ明るい人」とか「子ども」を見て、なんとなく元気が出そうな気もするんだがどうなのだろう。

本田さんは神父でありながら、
「人は宗教によって救いを得るのではなく、どう生きるかによるのです」90p 「どんな宗教でも大した違いはありはしない。大事なのは、どうすれば福音を生きることができるかです」(91p)
という。問題は「福音を生きる」とはどういうことか、ということになる。

この直後の部分を読んでも、ぼくには福音とは何かが明示的に書かれているようには思えなかったのだが、
多様性を認めつつ、一致や平和を成り立たせるための秘訣は、いちばん小さくされている部分を最優先させること
 と書かれていて(94ー95p)、そのあたりは福音とかいうものに近接しているのかと思う。


102p〜始まる「原始教会の姿」という節では、コリント人への手紙1章26節を援用して
「世の無に等しいと見なされている者たちの集い」こそが教会
だという。これも本田さんの訳なのかと思うのだが、普通の聖書ではどんな風に書かれているのか気になる。で、本田さんは「そこそこに満ち足りた者同士が、仲良しごっこをするために教会に集まってきても・・・」と書く。102−103p

「そこそこに満ち足りた」人には、本田さんの教会の門は狭そうだ。

こんな風にも書かれている。
ほんとうに弱い立場に立たされて、自分の意見をいう場もなかなか与えられないような、そういう仲間たちを見かけます。そういう人たちに出会います。そのとき、わたしたちは「神は、わたしではなく、その人たちを選んでいるのだ」と思い起こすべきなのです。106p

そこに「神からの力がある」とすれば、その力はどのように働いているのだろう。本田さんは
「貧しい人は幸いですね」と言ったら「アホか!」といわれるに決まっています(64p)。
というのだが、「神からの力があるよ」なんて言ってもやっぱり「アホか!」といわれるんじゃないかなぁ。

とはいうものの、この本田神学がエンパワメントの神学だなぁと思うのはこんなところだ。
「地の塩・世の光」という節では、その人が小さくさせられているがゆえにとぎすまされた感性を持っており、本物と偽物を見分ける洞察のするどさを持っていること、それが地の塩であり、塩味なのだ、逆にそのようにみわける力がなければ、さらに放り出されて、踏みつけられてしまうからだ、とマタイ伝5章13節を解釈する。112-113p

そんな風に社会の底辺に置かれ、周辺に押しやられている人たちはみんなそうで、寄せ場に来ざるをえなかった労働者も、感性がキラキラ輝いているのだけれど、その価値観は世間の価値観とは違うので、自分でそれを押さえ込んでしまい、塩味を失わせてしまうことが多い、と。113p

その押さえ込んでいるフタに自分で気づき、それを外していくプロセスをエンパワメントと呼んでもいいのではないか、本田さんはエンパワメンtのエの字も書いていないのだけど。

「神からの力があるよ」なんて言ってもやっぱり「アホか!」といわれるという部分だが、同じことに本田さんも気づいている。161pには、そんな風に言うのではなく、その人が本当に地の塩であると認めて、少しでもその地の塩を分けて欲しいと思いを込めて関わらせてもらうことが必要だと書かれている。

そして、これは寄せ場の労働者だけではなく、障害者として小さくされている人にもつながる話だろう。

しかし、ここを障害者に置き換えると、明確に見えてくるのだけれども、この本田神学、パターナリズムに陥りやすい危険も抱えている。
おそらく、本田さんはそのことにも気づいていて、「小さくされた人たちを「美化」してはいけない、と明確に書かれている。240p

あとで紹介する「真の連帯のための4つのステップ」の4つめだ。
〜〜〜
1、痛みの共感から救援活動へ
2、救援活動の行き詰まりから構造悪の認識へ――怒りの体験
3、社会的・政治的行動へ――構造悪と闘う貧しい人たちの力
4、単純な「弱者賛美」から真の連帯へ
〜〜〜

彼は非現実的な間違った「弱者賛美」に引き込まれてしまう危険を戒める。
差別され抑圧される側にいる人ならだれでも、そのやること、語ることはすべて正しいと思いたがる傾向がある人として、宗教やイデオロギーの信条で動く人たちがいる。
このような間違った「弱者賛美」は、じつは貧しく小さくされた人たちに対する「差別の裏返し」であり、わたしたちの連帯と支援を空洞化させる。

・・・。貧しく小さくされた人たちもわたしたち同様に、ときにはわたしたち以上に、利己的で、協調性に乏しく、融通がきかず、献身的とはいえず、無駄遣いもし、約束を守らないこともある……。また、中には、わたしたち以上に中流志向が強く、政治的な働きかけに無関心という人もいる。
 このような現実に直面したとき、わたしたちは幻滅を感じるかもしれません。神が共にはたらいているはずの人たちなのに、どうしてこうなのか、と当惑もします。しかし、この体験こそ、現実的な、本物の連帯を生み出すための必須条件なのです。241p



必要なのは弱者の賛美ではなく、真の連帯、連帯して闘うこと
、というのが本田さんの主張.。

では、小さくされた人たちに神の力が働いている、というのはどういうことか?

本田さんは以下のように書く(要約)。
彼らから学ばなければならないというのは彼らが個人として優秀で規範的だからではなく、構造的に抑圧されている彼らが、抑圧され貧しくされるということをだれよりも知っているからであり、そこから解放されるために、まず何をどうすべきかを自分のこととしてわかっているから、私たちが彼らから学ぶのはその価値観、その感性なのです。242p



パターナリズムの話から最後の方に飛んだのだが、またもとに戻って、120pでは、以下のように書かれている。
「貧しい人たちを受け入れるとは、対等になるということではありません。むしろ尊敬の気持ちを持って関わらなければいけません」

気安く話せばいいというものではなく、本気でその感性に学びたいと思ったときに、その人を受け入れたといえるし、そのときから受け入れてもらえるようになる、と。このあたりは留意が必要な部分だろうなと思う。とりわけ、知的障害者に対する時に、彼や彼女へのリスペクトを失いがちになることはありそうだ。









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