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zoom RSS 『跳びはねる思考』(東田直樹著)メモ

<<   作成日時 : 2017/05/16 19:39   >>

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最近知り合ったというか、職場に迎えた若者が人が跳びはねる人だったので、彼がなぜ跳びはねるか知りたくて読書。その彼が投げかけてくれる予想もしないレスポンスは笑えるものが多いのだけど、困ることもある。そんなことを理解する一助になる本ではあった。しかし、自閉症の人の気持ちに少しでも近づきたくて、東田直樹さんの本を読むという選択肢が正しいのかどうか自信がない。

自閉症の話を越えて面白い部分もあった。

「挨拶」(29p〜)というタイトルのコラムで彼は風景全体の中から、挨拶をしなければいけない相手を抽出するのが苦手だと書く。人も風景の一部であり、山も木も建物も鳥も、すべてのものが自分に話しかけてくるときに、相手をするのは、そのとき、一番関心があるモノなので、それは人ではないことが多い。それは「自分にとっては人間が魅力的な存在ではないから」という。「へぇ〜」と思うが、面白い指摘だ。

 そして、挨拶は人間関係の基本だと考えている人がいるかもしれないが、挨拶とは、「好意を持っています」という合図ではないかという彼の洞察は深い。
確かに敵意を抱いたまま、挨拶をしなければならない状況もあるが、そんな中でも、挨拶をするという行為は、あなたとはコミュニケーションを遮断しているわけではないという表明でもあるだろう。

 そして、挨拶はできても、次の質問への返事が返ってこないと、話せる人はがっまりする。だから、彼はそんな様子に傷つき、また、「道端の草」や「青い空」に惹かれていくのだと。ここもうちに来ている自閉症の若者と向き合うときにも、覚えておいた方がよさそうな点だ。

 46pのインタビューでは「動いているほうが自然で、落ち着ける状態」という彼の話が紹介される。多動の自閉症の人を見るときに、ここも抑えておくべきことかもと思った。そう、それで彼が落ち着けるのであれば、支援する側が動いて、その人と対応するという方法もあるかも。
僕は鏡を見るたび、閉じ込められている自分が今どうしているか、探さずにはいられません。54p
これは詩人の表現だと思うのだが、彼はこれを詩的な表現として選んだわけではないだろう。彼の前の鏡の中に彼と同じ姿形をした彼の分身が閉じこめられているというのは比喩ではなく、ほんとうにそう思っているということなのだろう。ここで、凡人としては、どうしてこれだけ知的な文章が書ける人が鏡は光の反射でしかないということを理解できないかと思ったりもするのだが、その「理解出来なさ」こそがわたしたちが考えなければならないことなのかもしれない。

「水が恋しい」というコラム(64p〜)は
「水に執着する自閉症者は多いです」という一般論から入っていく。彼はこんな風に自閉症者については一般論を述べることもできる。先ほどの鏡の例でもそうだと思うのだが、逆に、定型発達の人が蛇口から流れてくる水自体にあまり執着しないことや、鏡の中の自分が光の反射だと気づいていることを知識としては知っているということでもあるだろう。しかし、彼にとって知識として知っているということと、感じていることとの狭間で、感じることに引っ張られ、知識として知っていることは後景に起き去られるということなのか、とも思う。

69pでは以下のように書かれる。
行動のコントロールがうまくできないこともあり、自閉症の僕のことを、いつも客観的にながめている自分がいます。
通常、行動のコントロールがうまくできない人というのは客観的に自分をながめることが苦手なのではないか?行動をコントロールできない自分を外から自分が眺めるって、かなり苦しいのではないか?

 行動のコントロールができないことについては、「観察」というエッセイにも書かれている。怒っている人の顔を見ると、そこで反省したり、怖がったりするのではなく、もう一度その顔をみたくなる、というのだ。それを見るためにわざと怒られる行動をとることもある。そして、またよけいに怒られ、「しまった」と思うのだけれども、脳が覚え込んだ娯楽はやめられないとのこと。ちょっと思い当たる節がある。注意されることを楽しんでいるような・・・。


 「答えられない、質問と関係のない受け答えをする」、そんなことが続いて、自閉の人は言葉が理解できないと思われ、話しかけられなくなったり、自分とは違う世界の人だと思われたりするのだが、東田さんにとって家族からの声掛けが光だったという。答えてくれなかったりするのを見て、話しかけるのをやめて欲しくない、というのが彼の主張だ。自閉症の人がみんなそうなのかどうかはわからない。(「言葉」から)。
 
 114pでは、聞いて理解することはできても、発話出来ない自閉症の人の苦悩が以下のように語られる。
「話せない自閉症者は、人の話を聞くだけの毎日です」
 「人の話を黙って聞く、 こんな苦行を続けられる人間が、 世の中にどれくらいいるでしょうか。」
自閉症者が「人の話を黙って聞く」というイメージはなかったので、そういう感じ方もあるのかと思ったのだが、前の方にも書いてあるように彼らはじっとしているのが苦手なことが多いはずなんだが。

「失敗」というコラム(196p〜)では、失敗をうまく生かすことができず失敗を繰り返す、という。
そして、あきらめずに何度も繰り返し教え続けてくれる人のおかげで少しずつ成長しているとも。
感情を想像することが下手なので、こういう状況では人はこのように感じるということを学習し、記憶するのだというようなことを昔、誰かから聞いたような気がするのだけど、その学習が困難でもあるのだろう。

200p〜の「自己の確立」というコラムでは「信じる」という行為がとりあげられる。ここは自閉症とかの話を越えて面白かった部分だ。こんな風に書かれている。
〜〜 
正しいかどうか、本当のところはわからない場合もあるでしょう。しかし、そう信じることで人は救われます。
〜〜〜
以前から、「人間はこの腐った社会をもっとましな社会へ変革できるはず」というのが正しいかどうかわからないが、自分の信仰だと思ってきたし、人にもそんな風に言ってきた。しかし、このように言うことでぼくが救われていたのだと思う。そのことをストレートに東田さんに語ってもらったような気がする。

ただ、このコラムの結論には違和感が残った。
自己の確立というのは、人とのつながりの中で育つものではなく、自分で自分のことを支えようとする生き方から、生まれるものだと思っています
と、東田さんはこのコラムを閉じるのだが、果たして、ほんとうにそうか。他者との関係性を抜きに「自己の確立」などないと思う。自分で自分を支えようとするという思考の大切さは理解できるが、それも他者との関係性を抜きにありえないのではないか。

最後に解説風の文章を佐々木俊尚氏が書いている。そこで彼は東田さんのさまざまな文章を読んでいると、人間が本来持っていたはずの(近代合理主義だけではない)根源的な豊かさを強く感じ、近代の合理的な科学ではない、もっともっと根源的な世界観を感じる、という。確かにそんな部分もあるかもしれないと思った。

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