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zoom RSS PRIME38号の猪瀬浩平さんの「「直線、切断、接合、螺旋」に関するメモ

<<   作成日時 : 2018/01/28 11:29   >>

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明治学院大学の国際平和研究所で発行しているPRIME38号
http://www.meijigakuin.ac.jp/~prime/publication/%E7%89%B9%E9%9B%86%EF%BC%91%EF%BC%9A%E5%9C%B0%E7%90%83%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%A8%E5%B9%B3%E5%92%8C-%E3%80%80%E3%80%80%E7%89%B9%E9%9B%86%EF%BC%92%EF%BC%9A%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE/
に掲載された
〜〜〜
「直線、切断、接合、螺旋  ある知的障害をもつ人の旅をめぐる考察を通じた、世界の<変革>にむけた試論」(猪瀬浩平さん)についてのメモ

これをツイッターで知って、2018年の1月に読んだ。これが書かれたのは2015-03-31とある。明治学院大学の国際平和研究所が発行するPRIME38号に掲載された文章。

「本稿の目的は、理性中心主義を相対化することにある」とあり、続けて「もちろん大それたことはなかなかできない」と書かれているが、そのめざすところが、かなり「大それたこと」だからこそ、こんな表現になるのだろう。だって、タイトルは「世界の<変革>にむけた試論」だよ。
冒頭でオリバーらのオーソドックスな「障害の社会モデル」を、続いてJ・モリスによるそれへの批判を紹介する。その上でそれを【八木下浩一の言葉にならえれば、「社会モデルはかっこよすぎる」と言 い換えられる】と書く。これは面白い。
そして、以下のように書かれる。
本稿は、運動としての社会モデルの意義を評価しつつ、そこで主に問題にされてこなかった(知的)障害をもつとされる人の様々な行為が、社会モデル的枠組みにも、障害者運動の言説にも容易 く回収されない形で周りの人々を巻き込み、あるいは周りの人や事物に巻き込まれながら、即時的に生み出し、即時的に解体する中で起こる多元的な<組織化のようなもの>を記述しようと試みる。


ここからが佳境で面白いので、ぜひ読んで欲しいのだが、ここでタイトルにある「ある知的障害をもつ人」が猪瀬浩平さんの兄であることが明かされ、正月にそのお兄さんR氏がさいたま市で行方不明になり、翌日の夜、大阪・天王寺警察で保護されているという連絡が入って、帰宅するまでの物語が紹介される。猪瀬浩平さんとR氏とは昨年開催された、雑誌『支援』のトークセッションでぼくも会ったことがある。その日のトークセッションの議論の中で、ぼくはR氏についても言及させてもらっている(雑誌に掲載されるかどうかは知らないけど)。打ち上げの居酒屋ではR氏はぼくにも盛んにビールをついてくれて、宴会を共に楽しんだが、そのときも「理性中心主義」で解釈できるような会話ができたわけではない。

話を猪瀬さんの文章に戻そう、この物語での猪瀬浩平さんはパートナーの実家に「帰省」したことを『直線』と名付け、それが有楽町駅沿線の火災で予定通りに行かなかったのだが、その火災をを『切断』と名付け、R氏を迎えに行くために釜ヶ崎でR氏や友人たちと再会し、帰宅したことを『接合』と名付け、その話の解釈を経て、3節のタイトルを「螺旋」と名付けて、さらにこのR氏の旅の解釈を続ける。

それにしても、金もスマホも持たず(あっても使わないだろうが)、普通には会話できないR氏がどうやってさいたま市から大阪の天王寺まで行きついたのかが謎。新幹線に乗ったのだとしたら、改札や検札をどう潜り抜けたのか、あるいは各駅を乗り継いだのだとしたら、どう乗り継ぐ電車を発見できたのか。その間に何か食べたのかなぁ。それとも電車は得意で乗り継ぎはOKなのかな。
ともあれ、彼は天王寺駅近くの親切なたこ焼き屋のおっちゃんに「発見」され、連れられて天王寺警察にたどり着いたのだった。

そして、猪瀬さんはこの「螺旋」のなかで以下のように書く。
環境との接触を通して、様々な人と物と即自的 に接合し、即自的に切断されながら、われわれは不断に変態していく。それはもはや自閉症者や知的障害者の生の特異な有り様ということではなく、まさに私たちの生きるということ、そのものではないだろうか。
・・・
私たちの生の有り方 自体が、世界との接触において外側に無限に開か れていく契機と同時に、内側に閉じ籠る契機にも開かれている。にもかかわらず、私たちのこ れまでの語りは何かの行為が、明確な意図の下に行われているという枠組みを維持している。それをずらした時に、実は生き生きとした世界が現れる。 この旅について語ろうとするとき、そんな想像力を刺激される。21-22p


で、結語部分も引用しちゃおう。
4、終わりに:「意図/偶発」と言う分類を揺さぶる

「意図・偶発」という分類以前の行為によって、 既存の世界に裂け目が生まれる。ここに日常的現実の根源的な不安定さと共に、別種の世界の有り様が垣間見られる。その隙間にこだわりながら、 記述を続けることがひとまずの人類学の役割であろう。その上で、そこに現れる<組織化のようなもの>を、如何に理論として昇華できるのかを示せるか否かにこそ──それはそもそも<社会変革>というもののイメージそのものを書き換え、 説得力もって提示することにある──、人類学の存在意義を考える重要な鍵が潜むように思われる。


正直に書くと、ここでちょっとがっかりしてしまったのだけれども、「人類学」とか言わなくてもいいんじゃないのかな。その【「意図・偶発」という分類以前の行為によって、 既存の世界に裂け目】にこだわって、そこから近代の「理性中心主義」を相対化したときに見えてくるものは、人類学とかいう枠に収まらないものじゃないかと感覚的に思う。それが何かはわからないのだけれども、「する」でも「される」でもない中動態の世界ともつながって、存在していること自体を喜ぶことが出来るような未来がひらけていかないかと思う。ぼくは実は人類学が何かをよく知らないのだけれども。そのようなことは、なんとか学とか言う前に、生きていくうえで必要な思想なんじゃないかと思ったりしたわけだ。

もちろん、理性や意思が不要だとは思わない。しかし、そこにとらわれすぎている社会をもっと緩いものにしていくことで、生きていくスペースはもっと広がって、生きづらさを抱えてる人ももう少し生活しやすい空間を作ることができるんじゃないだろうか。ともあれ、そんなことを考えさせてくれる素敵な文章だった。


以下、蛇足的に

で、この文章の最初の注にぐっときた。
(1)本稿は、<北>の思想が遅れたもの、まずしいものとして切り捨ててきた、<南>の思想の価値を一貫して探求してきた勝俣誠の情熱に連なり、西洋近代がもたらし、われわれの思考すらも支配してきた<理性>中心主義を批判するものである。
勝俣さんも大好きな知り合いの一人。

また、猪瀬さんの文章の社会モデル批判については
『障害学のリハビリテーション』を補助線に使えるかもしれないと思った。
ぼくの書きかけのメモは http://tu-ta.at.webry.info/201401/article_2.html

追記
2015年に書かれた論文だが、ここに中動態のことが書かれているともいえるのではないか。
中動態と知的障害については以下で書いいる。
http://tu-ta.at.webry.info/201801/article_3.html

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