【良い支援?】メモ その2 (追加あり)

【良い支援?】メモ その1


 の続き




第4章 ハコに入れずに嫁に出す、ことについて──〈支援者としての親〉論 岡部耕典


まず、この章のタイトル及び中身の「嫁に出す」という比喩について、ジェンダー的にどうなのかという問題提起を受けいている。

これを語りだすと、この本のいちばん大切なところから遠ざかってしまいそうなので、全体のメモの最後に触れようと思う。

ただ、小さな問題ではないと思う。



第5章 意思を尊重する、とは──ある「支援」論 (寺本晃久)について


ここまでに身体障害者の自立生活とは違う面が具体的にいくつも出てくる。

大きな違いは、知的障害の介助の場合は言葉によらずに当事者の意図を汲む必要があるということ。それをどのように汲むか。


言葉やそれにかわるものによる指示がない場合、何によって介助・支援すればいいのか、と寺本さんは自問する。


しかし、その自問の前提として以下のように記載されている。そこを含めて引用する。
ていねいに指示ができる人だけが介助者を使えて自立生活ができるのではなく、介助を使うことはそもそも難しくたいへんなことなんだというのが普通であって、介助者の側もどれだけそれを理解し応えられるかという問題である。

では、何によって介助・支援すればいいのだろう?
「介助者手足論」に対して、たとえば「人間関係にもとづく介助」をもってくるのか? あるいは、別の”客観的な”基準をもってくるのか?

どちらも正しいと思うし、どちらでもない、なにか違う感覚がある。「人間関係」といっても、確かにビジネスライクなだけではやっていけない。かといって人間関係だけでは当事者の側によほどの魅力というかコミュニケーション的な能力が求められてしまうし、介助者側の独善や一方的な関わりになってしまう。167-168p


これに続く178-182pについては その1で紹介した http://www.arsvi.com/b2000/0811ta.htm にも掲載されている。ここには「出来る」ことと「出来ない」ことの区別の難しさなども引用されている。以下、孫引き
当人がしたいことがあり、しかしそれは当人だけではうまくできない場合、それを介助 者に頼んでできるようになれば、それでよい。だが、そこには原理的な困難が伴うのではないか。当人にとって「できること」と「できないこと」は、そう簡単 に区別し認識できることではない。「できないこと」は、過去の過去の経験を参照して今後起こりうる「できないこと」を予測するか、もしくは「できないこ と」がまさに目の当たりに現われなければ、「できないこと」を認識できないはずだ。178p


そして、続いて以下のように記載される。
ただ、多くの場合、障害があるということで、周囲の者が先回りして「できないこと」 を当てはめてしまってきた。周囲のパターナリズムが常にすでに優先されることを批判し、そうした場から離れることが自立生活だ。失敗することも含めてその 人の人生であり、障害のない人々だって失敗しながら何とかやってきている。

指示に基づく介助・支援という理念型、基本形そのものが無効だというのではない。ただそれは「本人が決定した内容を、介助が補う」ということと同じではない。178p

そして、どうするのか、ということになるのだが、以下のように記載される。
「止めないといけない」でもなく、「ただ好きなように」でもなく、「ていねいに説明」することは大切だが説明だけではなかなか理解してもらえない。まず、その人がどう考えているのかを介助者が理解していく。
そのとき、言葉で話をすることもあるけれども、言葉だけに頼らず、「空気」でわかるってことがあると思う。わからないことを直ちに分るものにするのでは なくやりすごしたり、こだわりや不安ををなくすのではなくつきあったり、その人なりのタイミングや手順に身をまかせたりすることで、介助者は、当事者のも つ流れを介助者自身に「身体化していく」ことがありうるのだと思う。介助者は時に何かするのでもなく空気のようにそこにいて、時に距離を置いたり縮めたり しながら、常に感じている。

これは、かなりの職人芸のような領域でもあるのではないか。これで、思い出したことがある。


先日、この本の発行元でもある「生活書院」で発行している「支援」という雑誌の発刊記念シンポジウムに参加して、少し質問をさせてもらったのだが( http://www.seikatsushoin.com/weblog/2011/08/post_103.html によると、記録は雑誌に掲載されるとのこと)、これは、そこで時間内で言えなくて、渡邉琢さんに聞いた話に関係する。渡邉琢さんのどんな話で、それを連想したか忘れたのだが、大田区の誇りべき旋盤工作家・小関智弘さんのことを思い出したのだった。はっきりは覚えていないが、確か介助で働くことの意味のようなことに関連してだろうか。ぼくのメモには介助は「労働か、運動か」というのが残っていて、それに関連してかもしれない。そう、小関さんを連想したのは、介助という労働の中で、旋盤工が旋盤のスキルを高めることを誇りにするように、介助のスキルを高めることを誇りにするような働き方もあるのではないか、ということだ。


ここに書いてあるように当事者の思いを《言葉だけに頼らず、「空気」でわかる》というのは、かなりのスキルでもある。運動でもなく、単に時間を過ごす時給労働でもなく、そんなスキルを磨くというあり方もあるはずだ。


**追加・補足**


上記のように書いたが、ちょっと思い直す。

障害者の自立生活のための介助について


『運動か、単に時間を過ごす時給労働か』


という風に問いを立てられたときの答えとして、以下のように言い直したい。


『それは運動でもあり、保障された生活の糧でもあり、そして、そのスキルを磨くことが自らの誇りにもなるような労働でもある。』


**追加・補足ここまで**




そして、寺本さんは以下のようにつなげる。
「その人の固有の流れ」を常に感じていることが、まず前提にあるのだと思う。単に 「できないこと」や「指示」だけに対応していてはいざ必要なときに介助にならない。「できないこと」はそう容易く解決できなかったりする。そうではなく、 「何かをする」というよりも、ひたすら感じていることが、まず必要な仕事なのではないか。
これって、本当に相当なスキルを必要とすることなのではないか、と感じたのだが、これに続く文章で、ただ「スキル」とも言い切れないことも示唆される。
だから、「ヘルパーでござい」と利用者のお宅へただうかがうでけでは、できることはほとんどない。公的な介助で想定されるイメージは、介助者は取り換え可能であるということだ。しかし、ここで述べる介助のイメージは個人的な関係や共有した時間の積み重ねによるものだ。

ただ、「個人的な関係や共有した時間の積み重ね」というのは、すごくあいまいでもある。長い時間を共有していることが、必ずしも、その当事者を感じることができることとは、つながらないように思う。時間の共有は、不可欠といえるほど大切な要素だと思うが、それがあれば、なんとかなるということでもない。


そして、この章の結語では以下のように書かれている。

介助者は、それぞれに違う考え、違う経験、違う個性をもった人間である。介助者という他者がそこにいてしまう時点で、すでに手足になれない(ならない)要素を多分にもたらしてしまう。むしろ自分の考えを差し出してみる、置いてみることが面白いと思うし、いやおうなくそうしてしまうのだと思う。ただし、その考えは自分にとってのものでそれがふつうだとか絶対ではないと踏まえていることと、それぞれの人の考えがさらけだされる関係や場所がたくさんあるといいと思う。


微妙だと思う。重度の知的障害と呼ばれる人たちの「自己決定」「自立生活」の微妙な部分がここで表現されている。いろんなことの決定を他者にゆだねることが当たり前とされてきた人たちが、自らを主体として立ち上げることの中身の模索は始まったばかりだといえるのかもしれない。


できれば、このメモ、もっと続ける予定。

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この記事へのコメント

猫型思考
2011年09月06日 04:57
小生の場合は対我が子ですので(介助というより子育てとその延長ですから)当然と言えばそうなのですが、(介助は)運動でも労働(育児は労働である)でもなく生活です。食べる(食欲を満たす)眠る温まる…と同じに、己の欲するところで満たすべく動いています。スキル(技術)の“向上”ではなく、欠けているもしくは腑に落ちない感を抱えてその解決に向けてあれこれ…
試して、失敗してのけぞり落ち込み、合致して嬉し泣き、そして有頂天からまた失意にて急降下…誰のどの生活の場面にもつきものの一喜一憂~良い方向に成長していたらいいなと思います、子も親も。そんな他者との関わりに時給(対価)が発生するなら労働かも、接客業務の一種かも。行政交渉が絡むなら運動かも、労連とかと同様に。それでも、小生は、我が子に限らず口下手聞き下手不器用な生き方の彼らを好きという感情論で動いていると思われ、それは大切なことで欠いてはならなくて、良い支援?にはそこの記述が足りない、自分としては。そこもまた不満です(障害者ありきなのに合わせて不満です)。この機会に著者さんにぶつけてみようとの気持ちが沸きました(湧いたのではない、怒りににた感情なので)。
ありがとうございました
tu-ta
2011年09月06日 21:59
猫型思考さん、コメントありがとうございました。
いろいろ考えました。

ぜひ、「良い支援?」の著者グループへ手紙を書いてください。できれば、その内容を教えてもらえたら、うれしいです。ここの欄でも、右の欄のまんなかあたりにある、「メッセージを送る」を通してでもOKです。

楽しみにしてます。

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