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zoom RSS 『亜由未が教えてくれたこと』メモ

<<   作成日時 : 2018/09/08 09:43   >>

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亜由未が教えてくれたこと障害を生きる*と家族の8800日』坂川 裕野著 


『亜由未が教えてくれたこと』をやっと入手。まず、カバーの袖だけ読んで、この宣伝文句がWeb上のどこかに置いてないか、少しだけ探したのだが、でてこなかった。
そこで見つけたのが
https://www.nhk.or.jp/hearttv-blog/choryu/276044.html という坂川智恵さんインタビュー
この冒頭に笑顔の話があり、亜由未さんの笑顔に引きずられていたなぁと少し反省。とはいうものの、このインタビュー、まだ全部読んでない。

で、https://www.facebook.com/yuya.sakagawa/posts/1830921323634668 のコメント欄で著者の裕野さんに書いたコメントにも付け足したりした。
鶴田 雅英
はじめまして。
お母さまにはいろいろお世話になっています。
本はまだ読めていないのですが、感じたことをシェアの文章で書いたので、以下に転載します。
〜〜〜
裕野さんは【制作のきっかけとなった相模原事件から、間もなく2年経ちます。「障害者は不幸しか作らない」という勝手な偏見は未だ消えないが、「そうじゃない」と否定するのも安直すぎやしないか。改めてそんなジレンマに向き合いながら執筆した、家族の履歴書のような本】と言います。

しかし、ぼくは安直過ぎでいいじゃないか、とも思うのです。確かにいろんな困難はあります。しかし、安直に「不幸しか作らない存在なんかじゃない」と言いたい気分があります。

もちろん、家族故の重さや苦しさがそう言わせるのだろうということは理解できますし、その気持ちを否定するわけではないのですが、重さや苦しさはもう十分に語られているのではないか、とも思うのです。この表紙の亜由ちゃんの笑顔を見るだけで、「『不幸を作り出すだけの存在』だなんて、誰にも言わせない」と思うのでした。

鶴田 雅英 追記
ご著書を読むのを楽しみにしています。


坂川 裕野
ありがとうございます。おっしゃられるように、「不幸しか作らないことはない」というメッセージが世の中に足りていないという現状はあるかもしれません。しかし、僕がそのメッセージを発しようとするときに、亜由未はどう思っているのか、ということ常に置いてけぼりにしてはならないと、撮影中強く感じ、自戒を込めて少し控え目な発言となりました。さらに、現在僕自身亜由未とは離れて暮らしていて、介助は両親に任せきりです。そんな立場で「障害者家族も不幸なんかじゃない」と安易に言うおこがましさを、今も強く感じるのです。そんな葛藤があっての撮影・編集・執筆だったので、上記のような投稿内容となりました。
むろん、それとは別に「障害者は不幸しか作らない存在では決してない」というメッセージが世間広くに発信されるべきという旨に関して、確かにその通りだと思います。ただ、いわゆる「感動ポルノ」のような番組が増えても、偏見が生まれてしまいまし、その辺り、バランスを意識しながら発信し続けるしかないように思います。


鶴田 雅英
坂川 裕野 さんな返信、ありがとうございました。

書かれている通り、「不幸しか作らないことはない」というメッセージを伝えたいために、「感動ポルノ」みたいな番組を作っても、プラスにならないばかりが、マイナスをもたらす危険が大きいですよね。単に他者と暮らすだけでもさまざまな困難はあるし、それ以上に、障害のある人と暮らす場合、その障害に応じた困難はあるし、それを等閑視するようなことをしてはならないのだと思います。そんな複雑さや困難を、単純化せず、困難なことは困難なまま、複雑なことを複雑なまま、かつわかりやすく記述するようなことが求められているのでしょうね。

しかし、それでも「不幸しか作らないことはない」し、「障害者家族も不幸なんかじゃな」く、彼らを不幸だと思わせているものがあるとしたら、それは社会の側にあり、取り除いていけるものなのだということなのだと思います。そんなことは言うまでもないよ、と言われてしまうかもしれませんが。

あゆちゃんの笑顔が、いろんな人に元気を与えてくれます。医療的ケア(医ケア)が必要な人が地域で暮らすという、いま、障害者が地域で暮らすときのフロンティアというべき領域で、坂川さんのおかあさんの挑戦はいろんな人に勇気を与えているのだと思います。ぼくも大田区という地域で、どうしたら医ケアの人が暮らし続けることができるのかという課題に、自立支援協議会の地域移行地域生活部会で取り組み始めたばかりですが、あゆみさん親子がぼくに勇気を与えてくれています

確かに現状は困難で、いわゆる「じゅうしん」で医ケアの必要な人を抱える家族のほとんどは、日中の支援さえ十分に受けられず、また、運よく受けられたとしても、土日や夜は介護支援事業者に頼らず、家族だけで支援を続けているというような状況があるようなので、まず、その実態を調べようという話を金曜日の会議でしたばかりでした。

そして、医ケアの人を見てくれたり、土日や夜に対応してくれる事業所はほとんどないのではないか、という話もあります。

医ケアの人の地域生活というテーマで、そんな現状を少しでも変えていくために、できることはたくさんあり、フロンティアとしての醍醐味を感じることのできる領域ではないか、とも感じています。

ぼくは家族でないばかりか、日常でも医ケアが必要な人に関わっているわけでもない、障害者の就労支援にかかわる支援者でしかないので、坂川 裕野 さんが「おこがましい」と言われるなら、たぶんもう「おこがましいことこの上ない」ような存在なのですが(笑)。それでも、あゆちゃんの笑顔を見れば、【障害者は不幸しか作らない」という(のを)「そうじゃない」と否定するのも安直すぎ】るなんてことはなく、簡単に理解できる。それを見さえすればいいのだ、と言いたい気持ちは、なお持ち続けているのでした。

ここに直接書いたので、読み返したら、とりとめのない長文になってしまいました。ごめんなさい。


坂川 裕野
考え方に少し違いがあるかもしれませんが、僕の取材を経ての実感は、鶴田さんが冒頭でご指摘いただいた内容に尽きます。亜由未は喜びからだけでなく、愛想笑いをすることもありますので、そのシーンだけを切り出して「幸せ」の象徴とすることへは強い抵抗があるのです。

鶴田 雅英 本を入手して、読み始める前に、https://www.nhk.or.jp/hearttv-blog/choryu/276044.html を読んで、笑顔に引きずられていた自分の甘さを自覚させられました。これから読みますね。



結局出てこなかったカバーの袖の文章を音声入力したのが以下。
「障害者は不幸を作ることしかできません」。
2016年7月、神奈川県相模原市にある知的障害者施設で大量殺傷事件を起こした植松聖被告の言葉だ。障害者を解除する立場にあった元職員が起こした事件の衝撃性と同様に、その言葉も人々の心に暗い影を落とした。被告を非難する声が上がる一方、賛同する者も少なからずいた。 事件をきっかけに、重い障害を持ち自らの妹にカメラを向けて番組を作った若きテレビディレクターの著者。本書はその極めて個人的な記録である。と同時に、少しでも多くの人に障害者のリアルな苦悩や喜びを知ってほしいと願う著者が、社会に宛てて綴った手紙でもある。


直後に読書メーターに書いたのは以下
「あゆちゃんち」、あるきっかけで知り合って、それから打ち合わせで何回か行きました。あゆちゃん母のパワーの陰にこんな話があるのかと思いました。また、あゆちゃんの笑顔にただ惹かれていた自分の浅さにも気づかされました。
〜〜〜
読んでいて、始めの方ででてきた妹の由里歌さんのことが気になっていたら、途中からしっかりでてきた。
〜〜〜




上記のインタビューに続いて、あゆちゃんの笑顔が素敵でいいなぁと思っていたぼくの浅さを実感させられたのは「あゆ母」の以下のことば。
当初、あゆちゃんが笑ってくれることにこだわっていたこの本の著者で兄の裕野さんに母がこんな風に言ったとのこと
「亜由未が笑ってる姿って、けっこう世間に期待されていて。確かに笑ってたら安心できるけどさ、笑うことなんて大したことじゃないよ。コショコショってくすぐったって笑うじゃない? (中略) でもさ、亜由未が笑ってくれるからって、それをずっとやっていいかっていうと違うでしょ。例えば亜由未は、ボランティアでどこかに行くと笑わなかったりする。頑張ると緊張しちゃうんだよ。しっかり仕事しようとして、笑わなくなる。でも、いない、いない、ばぁってやって笑うから、そっちの方が幸せで、笑っていないと幸せではないかっていうと、そんなことはないでしょ」
・・・
「なんか、笑ってる顔ばかり求められると、幸せじゃなきゃ生きてる価値がない、障害持ってる人は幸せじゃないっていう、相模原事件の被告と似たような考え方だという気がする。幸せか幸せじゃないかって。ねぇ」
・・・
「・・・例えば脚をぶつけて痣ができても亜由未は笑うのね。だからお母さん、亜由未の笑顔をあまり信用してない。周りはみんな笑顔に価値を置くけど、笑ってたって痛いところがあるかもしれない。笑ってたって苦しいかもしれない。逆に、笑ってることで、あぁこれでいいんだなと納得されても困るわけ。今この瞬間の介助はこれでいいんだっていう判断のベースは、亜由未が落ち着いて息をしていて、苦しそうじゃない、当たり前の様子にこそある。泣かないで穏やかだっていう状況に、いかに持っていけるかが大事。あとは、例えば亜由未の体が反っていたら、こっちの方に向きたいんだなって想像して、向きを変えてあげるとかさ。笑うのなんか、大したことないよ」 159-160p

〜〜〜〜

182pでは、あゆちゃんが老人ホームにボランティアで言った時の話がある。いつもは全然動かないお年寄りの男性がゆっくりとあゆちゃんのほうに手を伸ばし、モノを受け取り、それだけでなくあゆちゃんの手を握りしめ、しばらくの間離さなかった。いつもは全然動かない男性が動いたことに周囲がざわついた、とのこと。そして、あゆちゃん母はこんなふうにいう。
「支援って、何でもやってあげることじゃなくてさ、自分が動きたいって思うような気持ちにする、自分がやりたいやりたいことを助けるのがいちばんいい支援だから、いつもは動かない人を動かしたっていうのは最高の支援だと思ったのね。 亜由未っていいヘルパーになるなって思った。」
手足が思うように動かなくて、言葉がなくても、いいヘルパーになる!!
動かなくて、言葉がないからこそ、・・・と言えるかも。
面白い。


185pに記載されているのは、U容疑者が事件を起こすに至ったひとつのきっかけとしての
 風呂場で発作を起こし、溺れていた利用者を助けた、しかし家族からの感謝の言葉はなかった、という話
この本で書かれていることからは少し外れるかもしれないが、
これについて、以前見ていたかもしれないが、どこで報道された話か探したら、NHKの取材だった。 いまもサイトに残っている。 
https://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2018/01/0125.html から
きっかけは「施設での出来事」
記者
「なぜそのような差別的な考えを持つようになったのですか?」
植松被告
「施設に勤めなければ思いつかなかったと思います。
彼らと接する中で、徐々に必要ないと思っていきました。」
やまゆり園に勤めていた3年間で差別意識を持ったと主張する植松被告。
先月(12月)届いた手紙では、そのきっかけになったという出来事を記していました。

風呂場で発作を起こし、溺れていた利用者を助けたという植松被告。
しかし、利用者の家族からお礼はなく、助けたことへの疑問を持ったと記されていました。
この出来事について、改めて接見で尋ねると…。
植松被告
「大ごとにならなかったですけど、家族はシカトというか、そんな感じで。」
この一場面を捉えて、障害者は家族にとって不必要な存在だと感じたと一方的な考えを口にしました。

 確かにこういうことはあるかもしれない。しかし、ここでU容疑者の歪みを責めるだけでなく、それ以外にも見えることがある。彼が誰を見て支援していたかということとそんな状態を施設の経営側はどう見ていたかという話。

 彼が本人を見て支援していたら、家族の評価ではなく、彼の命が助かったことを喜び、そのことに感謝できない家族を見て、家族の態度の問題の背景にあるものの問題に気がつくことができたのではないか。

 それを導くことができなかったのは、津久井やまゆり園の側に責任の一端があると言えるのではないか。それはスタッフひとりひとりの問題ではなく、そんな風に感じさせる空気を醸成させてしまった管理の側の問題でもある。また、親のその感覚は社会によってもたらされたものでもある。施設の管理側は、その社会の空気をそのまま受け入れるのではなく、そのような感覚を持つ親がいるが、そうではなく、一人ひとりの入所者の存在の尊さた重さと向き合うことが必要だと感じられるような場所が作られなければならないとスタッフを教育する必要があるのではないか。

 そして、そのような感覚が作りにくいものとして、大規模収容施設があり、だからこそ、そこは通過的なものだと位置づけ、最終的には地域で生活できるようにするというゴールを設定することが求められていたのではないか。

 では、自分のところでそれがどこまでできているか心もとない部分もあるが、スタッフの研修はまず、そのあたりの意識を持てるようにということが必要なのではないかと思った。



この本、ある意味、「あゆちゃん母 語録」みたいだなぁとも思う。ここまでもいくつか紹介してきたけど、以下は末尾近くに紹介されている彼女の、これまた凄みのある発言。
〜〜〜
「でも、『亜由未の目が悪くならないでほしい』という願い自体が、目の不自由な人への差別になるかっていうと、違うでしょ。障害自体を全てポジティブに受け止めろって言われても、生物として難しいよね。出生前診断に関して言うと、胎児には名前もなくて、『障害』しかわからない。だから『障害は嫌だ』の一点に集結しちゃう。笑顔も寝顔も想像してもらえないのは不利だよ。みんな心の準備のために診断を受けるっていうけど、人間はそんなに強くない。まだ見えない、触れられない存在を愛するのは難しいよ」 234p

「診断なんてしないで産んじゃって、名前をつけて、可愛いい、可愛いって呼んであげて、あたふたしながら育てて、辛いこともあるけど必死になって。そしたら障害があっても、20年もたてば、どうしてあの時あんなにクヨクヨしたんだろうって、きっと言えるようになるはず。障害なんて関係なかったよって。 裕野や由里歌と変わらないよって」235p

「亜由未が笑って、泣いて、怒って、素直に自分の気持ちを表現して生きることで、障害があるのは不幸だっていうのはデマですよ、ガセですよと、亜由未自身が伝えてる。それを手伝って、障害者が大勢の人と一緒に生きていけるように、社会をわずかでも変えていくことが、亜由未と出会って、亜由未のことを知ってしまった自分の責任だと思ってる」235p

「産んだ方がいいとか、産まない方がいいとか、その人の人生だから私は軽々しく言えないけど、こんなにいい人生はないよって。なかなかできない経験だよって、言ってあげたいな。私自身、亜由未と一緒に生きて、自分の幸せがどうでもいいくらい幸せになったんだから」 236p


著者(兄)が1か月の支援の中で気づいたこととして、以下のように書いている。
・・・、僕自身が「障害」という言葉の前に思考停止していなかったか。「障害者の妹である亜由未は……」と考えるばかりで、「亜由未の障害はこういうふうに大変だから……」という視線を持ち合わせていなかった。
 要は、「障害者」が先にくるのか、「亜由未」が先にくるのか。ここに大きな違いがある。235p




経管栄養など、医療的ケアが必要な人たちが使える制度や仕組みははまだまだ少ない。そこは障害者問題の一つのフロンティアともいえる領域だろう。そんななかで、あゆちゃんちの取り組みは一つの印でもある。彼女たちのようにはできないと思うかもしれない。確かに、まったく同じようにはできないし、同じようにする必要もないだろう。彼女たちから学ぶべきなのは施設で囲うのではなく、街の人々の息吹の中で暮らす環境を作ろうとする熱意と姿勢。それに触れるためにこの本が読まれるべきだと思った。

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