『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』メモ

そろそろ左派は〈経済〉を語ろう レフト3.0の政治経済学

著者

ブレイディみかこ

松尾 匡

北田 暁大


出版社のWEBサイト
https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=852 から

左派の最優先課題は「経済」である。

「誰もがきちんと経済について語ることができるようにするということは、善き社会の必須条件であり、真のデモクラシーの前提条件だ」

欧州の左派がいまこの前提条件を確立するために動いているのは、経世済民という政治のベーシックに戻り、豊かだったはずの時代の分け前に預かれなかった人々と共に立つことが、トランプや極右政党台頭の時代に対する左派からのたった一つの有効なアンサーであると確信するからだ。

 ならば経済のデモクラシー度が欧州国と比べても非常に低い日本には、こうした左派の「気づき」がより切実に必要なはずだ。(ブレイディみかこ/本書より)


ここに正誤表もある。


目次

第1章 下部構造を忘れた左翼

第2章 「古くて新しい」お金と階級の話

補論1 来るべきレフト3.0に向けて

第3章 左と右からの反緊縮の波

第4章 万国のプロレタリアートは団結せよ!

補論2 新自由主義からケインズ、そしてマルクスへ


以下、鶴田メモ


最初に読書メーターに書いたもの

異論は沢山ある。 成長と温暖化の関係をどう考えるのか。 co2を増やさない 経済成長はどのように可能なのか。 そのあたりに関する記述が全くない。 食べれない人が食べれるようになるというのは 必要なことだが いらないものを 買わされたりするようなことが多すぎるのではないかと思うのだ。しかし、経済のことを過小評価しているのではないかという指摘は思い当たる部分がないわけではない

 最初に出版社のWEBから引用したブレイディさんの文章は「はじめに」に入っていて、その引用の冒頭の「誰もがきちんと経済について語ることができるようにするということは、善き社会の必須条件であり、真のデモクラシーの前提条件だ」という括弧書きは、ギリシャの元財務大臣で経済学者のヤニス・バルファキスの『経済について娘(10代)に語るー資本主義の簡潔な歴史』という本から。

そして、この「はじめに」に「経済成長は必要ない」という意見への反論が書かれている

 ・・・経済的なデモクラシーの圧倒的な遅れこそが、トランプ現象やブレグジット、欧州での極右勢力の台頭に繋がっているとすれば、今母の最優先課題は経済であることは明確である。これが欧州の左派の共通認識だ。

 ・・・欧州に住むわたしが、日本に寄生すると違和感をおぼえることが往々にしてある。

 まず、左派の人があまり経済に関心を持っていない、というか、経済を語る事は左派の仕事ではないと思っているように感じられるときがある。また、「経済成長は必要ない」非常に画一的な意見を耳にすることが多い。

「では貧困や格差の問題には興味ないの?」と聞くと「分配は必要」という答えが返ってくるのだが、「成長とかもあるわけがない」「これからの日本は内面を豊かにせねばならない」と彼らがいう社会で、どうやっていま苦しんでいる人々のために実質的な分配を行っていくのかは不明瞭である。

 この経済に対するぼんやりした態度は、近年の欧州の性とは真逆と言ってもいい。 

 ・・・「経済民主主義指数」のリストを見ると、日本は OECD 加盟の32ヵ国の中で、下から4番目なのだ。・・・

 (中略)

 こんな社会に生きる左派を名乗る人々が「経済に興味がない」と言うのは、日本独自の風土とか歴史的事情とかいうより、単に無責任なのではないだろうか。

 日本の左派の人々と話していると、彼らの最大の関心事は改憲問題であり、原発問題であり、人種やジェンダー、 LGBT などの多様性と差別の問題だ。こうしたイシューは社会のデモクラシーを守るために重要だと考えられているが、経済はデモクラシーとは関係がない事柄だと思われている。これは日本があまりにも長い間、なんだかんだ言っても自分達はまだいたかなのだという幻想の泡に包まれてきたせいでもあるだろうし、豊かだった時代への反省と反感が強すぎるせいかもしれない。 

 だが、これほど歴然と経済にデモクラシーが欠如している国であることが明らかになっているのに左派が経済に興味がないという状況は、国内経済の極端な不均衡が放置されている事実ときれいに合わせ鏡になっているように思える。

(中略)

 本書が、日本に「真のデモクラシーの前提条件」をつくるための助けとならんことを祈っている。8~10p

 そう、「もう経済成長はいらない、それを追い求めるのはやめたほうがいい」と思ってきた私にいきなりのカウンターパンチだ。大好きなブレイディさんから。

 ぼく自身が経済のことを軽く見ていたことは反省しなければならないとは思う。この本で目を覚まさせられた部分は小さくない。

 そう、経済は大切なのだ。だからこそ、脱成長と言ってきた部分がある。成長がなければ、景気が良くなければ、困っている人にお金が振り分けられないことこそが問題なんじゃないか。そうじゃなくても、ちゃんと困っている人たちにお金が回り、普通に食べて行ける仕組みが「経済」の問題として考えられる必要があるのだと思う。経済成長や景気に左右されない仕組みが。

 その上で、本当に「経済成長」を追い求めることが必要なのか、という部分はちゃんと考えておきたい。それが冒頭にいれた、読書メーターでの感想だ。

 ここに書かれているように、成長がなければ分配は不可能なのか、厳密に引用すると経済成長なしで「どうやっていま苦しんでいる人々のために実質的な分配を行っていくのかは不明瞭」だという。この本に経済成長については詳しく書かれているが、いままで語られてきたのは基本的には単純にGDPの成長が経済成長という理解で大きな間違いはないのではないか。ここはそれが出てくるところで後述しよう。

 ともあれ、そんな成長がなくても(厳密に言えば経済成長だけを追求しなくても)、仕事を増やし、さまざまなシェアを増やして、尊厳のある暮らしを回復する手立てがないとは思えない。そこを考えて、追い求めたいと思う。

 それで結果として、結果として景気が良くなったり、成長したりするとすれば、それを否定するわけではないのだ。

 福祉や教育に関わる人が足りていない現実がある。そこへちゃんとお金をかけることが求められている。その仕事が好きでも、低賃金や労働条件の悪さが人を寄せ付けなくしているからだ。

 だから、そこにはちゃんとお金を使って欲しいと思う。そういう政策の結果として、GDPが増えることを否定するわけではない。しかし、目的はGDPを増やすことではないはずだ。そこに集中する歪みについては、この本でも触れられてはいるような気もするが、そこも後述。

15~16頁では北田さんが脱成長派の主張をきれいにまとめてくれている。

「いまの先進国の低成長率は、これまでひたすらに拡大・成長を続けてきた資本主義の限界を示しているんだ」・・「地球環境やエネルギー問題、少子高齢化などの趨勢を考えると、もうこれ以上の経済成長は見込めない。これからはひたすら利潤を追求するような、「経済成長モデル」を前提にするのはやめて、成長をしなくてもかまわない「成熟社会」の新しい社会モデルを模索しよう」

これを受けてブレイディさんは欧州の左派ではこのようなことを言う人があまりいないので、すごく不思議な感じがします、と言う。

それを受けて、松尾さんは資本主義とは違う新しい生産のあり方を考えていく作業は大事だが、マルクス経済学の何を残して、何を捨てるべきかと考える立場からは、脱成長の主張は

「どうも現代経済学の基本的な議論をきちんと踏まえないままで、「成長/脱成長」を議論してしまっているんじゃないかという気がします」(17p)

という。(ぼくに関していえば、この主張はあたってるかも)

そしてブレイディさんは脱成長は庶民の支持を得られないし、
「左派ほど『健全な成長』の必要性を唱えるのが普通」
「景気が良いほうがいいなんていうのは当たり前」
「景気が悪くなることのどこにヒューマニティがあるのだろうと単純に不思議に思うのですが」
と言い、松尾さんは労働者の物質的な豊かさを求めるのが左翼だと答える。(17p)

そして、日本の左翼はお金のことを論じるのは「汚いこと」だと思っているのではないか(18p)とブレイディさん。

それを受けて北田さんは「左翼が下部構造を忘れている」ということなんじゃないかと思っています」(19p)とまでいう。

まあ、そういう傾向がある人がいるのは間違いないが、それが主流なのかどうか。

ふと思った。これは、経済の問題を追い求めてきた労働組合が見えなくなっているということからくる言説なのではないか。そして、ほとんどの労働組合ではいまでもお金の追求がメインのテーマであるはず。

ぼくはお金は大事だし、お金がないことがいろんな問題を引き起こしていると思う。保育士やヘルパーが不足するのは給料が安く、安くする仕組みがあるから。また、非正規で安い時給で働かざるを得ない人が大勢いるのも問題だと思う。それらは、そうならない仕組みを作ることが可能なはずであり、ちゃんとお金が回る仕組みを作るべきだと思う。

しかし、地球がこんな状態でCO2を減らさなければいけない状況がある。グレタさんが明確にいったように「経済成長」とか言ってる場合じゃない、という話はある。それらを一緒くたにして、「経済成長が必要」とか言ってしまうほうが乱暴なのではないかと思うのだ。

20pから始まる節のタイトルは『「再分配」と「経済成長」は対立しない』 というもの。松尾さんは日本ではそんな風に思われているような気がするというのだけど、脱成長を言う人も対立するという主張をしていないと思う。誰かがどこかでしてるのだろうか? ただ、行き過ぎた富裕層からちゃんと取って分配せよとは思う。そして、行き過ぎた富裕層が生まれるような状態はフェアじゃないんじゃないかとも思う。しかし、同時にGDPで計る経済成長がなくても再分配は必要なはず。

そういう意味で成長「だけ」を追い求めている現状にNOを言うのであって、手厚い再配分の結果として、成長が生まれるのであれば、それを否定するつもりはないし、多くの脱成長派の人はそんな風に考えているのではないかと思う。何か自分たちで脱成長の人のイメージを作って、そこを非難しているように思える。

ここで対談している3人も、「経済成長ならどんな部分の成長でもいい」という主張ではないと思う。お金や資産を右から左に動かすだけでお金を増やしている人だけが大儲けしているというような成長はもうやめようという話でもある。

そして、北田さんが「どっか余ってるところからぶんどってくればいい」(それは危なっかしいから否定すべき)(23p)というのですが、ぼくはそれでいいんじゃないのと思ってしまう。ブレイディさんもそういう人だと思ってたんだけど、違うのかなぁ? 欧州の左翼はそんな風に考えないのかな? やはり、問題なのは富裕であり、貧困は問題ではなく解決すべき課題だと思ってしまうのだけど。

北田さんはさらに「年長世代の左派が率先して若者に「縮め」などと言ってる場合ではない」(25p)と書くのだけれども、左派は金持ちには「縮め」というが、縮めようがない若者に「縮め」なんて言ってないんじゃないか。無理だし。右から左に資産を動かして、何億円も儲けてる若者には「縮め」って言いたいけど(そんな人は身近にいないし)。

そう、ブレイディさんが何度も紹介しているように「健康な成長」なら、悪くない感じがあるのだけど、いま、メインストリームから求められているのは、どんな形であれ、GDPを増やすこと、という風に思えてしかたないし、お金が増えなくても、シェアが増えたり、どんどん捨てられる新品じゃなくて再利用の洋服が増えたり、捨てられる食べ物がなくなることが大事なんじゃないかと思う。そこではどんどん捨てられたり、どんどん新品を買うことと比べてGDPは増えない。

ブレイディさんが書いた「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」で紹介されてる話も、そんな話が多かったような気がする。

また、28pで北田さんは景気が悪いからブラック企業が淘汰されないんだというのだけど、ブラック企業はいつの時代にもあるのでは? ブラック企業をなくすために必要なのは、景気をよくすることではなくて、権利意識を醸成したり、労働法規を守るよう規制する人員を増やすことなんじゃないかと思う。もちろん、景気はよくなればいいけど、この時代にモノをたくさん作って売られることじゃないはずで、じゃあ、それ以外の方法でどう景気を良くするか、という難題もある。

29pでブレイディさんがはっきり書いてるように、縮むことが出来ない人がいる。脱成長の人はそんな人に「縮め」とは言ってないと思う。そこに誤解があると思えてならない。

30pからは松尾さんによる「経済成長」に関する講義のよう。そこで松尾さんは二つの「経済成長」について説明する。

・モノを作って売る側―供給側(サプライサイド)/供給能力の成長=「天井の成長」「長期の成長」

社会の生産力(労働生産性)の天井があがること

そして、松尾さんは「ぼくが必要だと言っているものはこの成長ではない」という。

しかし、そこに大きな齟齬があるのではないか。にもかかわらず、いままで、そのことをあまり主張しないで脱成長を批判してきたんじゃないかという気がする。

まさに脱成長を主張する人が批判するのはこの成長のことだ。と思ったのだけど、ふと思った。世の中で、何の修飾もつけずに成長と言えば、この成長でも、これから説明を引用するもう一つの成長でもなくて、ただGDPの数値が上がることではないか? その認識が間違っているんだろうか?

そして、松尾さんが言うもう一つの経済成長とは、その天井を上げていく成長ではなく、需要を喚起することで経済が天井水準に押し上げられていくこと。それを「短期の成長」と呼び、そっちが必要で、それらを混同してはいけないと言うのだけど、これってわかりにくくないか?

さらに経済成長が供給側の生産力(潜在GDP)の成長か、需要側の力が増大して、GDPギャップを埋める事かという(37p)のだけど、単純にGDPが増えることが経済成長だと思っていたのは間違いだったのだろうか?

なんか勝手に成長の意味を読み替えて、だから成長が必要だと言われているような気がしてならない。

そして、56pでは「天井の成長」はもうそんなにあがらない、ということに松尾さんは同意しつつ、脱成長派の「成長戦略批判」「新自由主義批判」の文脈と自分が「経済成長が必要だ」ということはまったく別の次元だと主張する。 そう、それならそうか、という気がしないわけではない。

低所得や望まない非正規雇用で苦しんでいる人にディーセントな賃金が与えられる仕事がいきわたるようにしなければならない、というのは脱成長派もそう言うだろう。そして、そのためにどうしても「成長が必要」というのであれば、それはそうだと思うのだが、問題はそのために本当に「経済成長が必要」というような新自由主義の人たちと表面は同じ言葉を使う必要があるのかどうか、そして、GDPが大きくならなければ、それは不可能なのかということだ。 問題は「成長が必要かどうか」で争うことではなく、望むすべての人にディーセントな労働条件と賃金がいきわたるかどうか、ということではないか?

景気が拡大しなければ、それは不可能なのか、不景気でもそれを達成することが必要なのではないか?という話であり、正直、景気が良いかどうかにぼくはあまり関心がない。そして、パイをいくら拡大しても不均衡をたださない限り、それが達成できないのは明らかな話でもある。 成長よりも不均衡の是正が優先されるべきだと思うというのが、ほとんどの脱成長の側の人間の主張だと思う。

それは、ブレイディさんが批判するように【「景気の拡大」を否定】(58p)しているわけではない。それより、もっと大事なことがあるんじゃないかと思うのだ。

そして、第1章の結語でブレイディさんは「最重要なのは経済政策に対する考え方だと思います」(65p)と言う。それはそうだと思えてきた。そこはこの本の効能だろう。しかし、いま、経済政策で重要なのは成長ではなくて、不均衡の是正なんじゃないか?

反緊縮で緊縮が問題なのはそこで食べていけない人がでているからだ、というとき、大切なのは働きたいと思うみんなにディーセントな仕事があって、それで食べて行ける、仕事がない人も福祉で十分に食べていけるということだろう。ぼくはそこに成長があってもいいと思うのだけど、大切なのは成長があるかどうかではなく、それを実現する政策があるかどうか、ということ。全体のパイを拡大したほうがそれは確かに達成しやすいかもしれない。そういう意味で拡大できれば、それにこしたことはない。しかし、それが最重要ではないということが言いたいわけだ。

131pには鉄道の国有化について、かつてのソ連のように計画経済で国有企業を遠隔操作したわけではない。「鉄道は国有化したほうがいいと思うけど、お客も労働者も政府も協調して鉄道を運営して、私的利潤のためではなくて、みんなの利益になるように運営する」「古いトップダウンの労働党とも違うし、保守党が望んでいる民営化みたいなものとも違って、その双方に代わるものを目指している」とコービンが言っているという。ここはこれから日本で民営化を反対するうえでも大事なところだと思う。国営や公営に戻せばいいという話ではないのだ。環境に適応し、地域住民の声を聴き、当該の労働者にもしわ寄せがいかない仕組みを実現するために、住民の参加のプロセスを丁寧につくっていく必要がある。それとセットでなければ公営に戻しても、ダメなんじゃないかと思う。

この先で松尾さんはレフト1.0~3.0を説明する。そこには違和感は満載だ。詳しく引用はしないが、旧左翼が1.0でブレアが2.0、新左翼は1.5とかいうのはどうか。その延長上に3.0って言われても信用できないなぁ。

143pでは松尾さんがブレア流の公務員からNPOへという流れを批判する。NPOを経費節減のために使うのは問題だと思うし、日本で、ぼくも知っている事例は山ほどあると思うが、それをまったく否定してしまって、ここまで弱体化させられた公務員だけで住民参加の仕組みを作るのは難しいのではないか、とも思う。

147pで松尾さんは再び、「天井の成長と短期の成長をごっちゃにしてゼロ成長をいいものだと思い込んでいる人」という風に批判するのだが、松尾さん以外でその二つの成長の区別をしている人がいるのかどうか、ぼくは知らない。 食べ物や衣料が使われることなく大量に廃棄される現実があり、自動車もPCも使えるのにどんどん捨てられている。供給サイドの生産力というのは、そのように過剰なのではないか? そして、需要側がその過剰な供給能力や生産力に追いつくことがホントに人を幸せにするのだろうか?

逆にそのような無駄をなくして、GDPを増やすことがどのように可能なのだろうか?

繰り返しになるが、ディーセントな暮らしが出来ない人に購買力を持ってもらう必要があることは間違いないが、それは景気の良さや経済成長があろうとなかろうとそうなのではないか。ほんの一握りのとてつもない富裕な人たちの分け前を分配するだけで、相当な数の人にディーセントな暮らしを準備できると思う。 それをただ福祉の形で配るのではなく、本人の尊厳と労働という形で実現できるに越したことはないとも思うのだけど。

逆に経済成長や景気の良さがなければダメだということを前提にしたら、いま、食べて行けない人はいつまでも救われないということにもなりかねないのではないか。定常経済の中ですべての人がちゃんと食べていける経済こそが求められるのではないか。

ブレイディさんは「ブレアの最大の罪は、左派が貧しい労働者への共感や同情心をなくしたことだと思うんです」(151p)という。能力主義を強調し、底辺にいる人は才能が乏しく、そこにいるのがふさわしい人だと階級による差別を正当化し、その結果、チャブ・ヘイトが起きたとのこと。(詳細は4章)

153頁では新左翼が経済闘争を行わなかったかのように書かれているのだけど、これは認識不足だろう。確かに見えにくかったとは思うけど。

一貫して、近年の左派はアイデンティティだけを問題にして、階級や経済のことを等閑視してきたというようなことが前提に語られている((155-157pなど)のだが、その前提は果たして正しいのか?

例えば、日本共産党は? そのあたりの前提がすっぽり抜けたところで3人で話している感が強い。


「社会保障費を削減するのではなく、景気対策として社会保障分野にも投資するというのが、左派本流の経済政策」(177p)だと松尾さんは言う。
それを景気対策と呼ぶということへの若干の抵抗があるものの、その経済的効果はもっと語られていいのではないかと思う。ヘルパーにお金がもっとまわれば地域の経済はもっと活性化するはずだ。

「景気対策」と呼ぶことへのなんとない抵抗の部分が、この本で3人が批判してる部分なのかもしれない。そう呼んでいいのだよね。

180pで松尾さんが主張するのはデフレ時に「無からつくったお金」で福祉につぎ込むと、インフレ時に財源がなくなるから、デフレの時から金持ちから税金をとっておくことが必要、ということ。

そして、デフレ時に設備投資や雇用に補助や助成を出し、インフレになったら、それを縮小・停止するというのだが、ヘルパー雇用などへの補助はインフレになってもやめることは出来ないのではないか。でなければ、今の仕組みでは利用者の負担になる。そのあたりのことは、もう少し詳しく聞いてみたい部分。

181pにその表があるのだが、やはりそのあたりのことはわかりいくい。

193pではインフレと名目賃金の上昇のタイムラグの話がある。インフレになっただけでは名目賃金は上がらないような気がするんだが、どうなのだろう。

また、196pにはカジノ資本主義的な投機や金融の肥大化は金融緩和の問題ではなく金融市場の規制緩和の問題だとあるのだが、市場に投入されても使い道のないお金が投機に回っていて、それは金融緩和の問題だと言われていると思うのだが、その認識が間違っているのだろうか?

215-216pでは雑誌『世界か』からハンガリーの例が紹介される。そこで左派が構造的不況への手を打たなかったためにバックラッシュが起きたという。そういうことはありそうで、その部分は日本のいわゆる「左派」が気を付けなくてはならない部分だろう。

そして、ブレイディさんが『パンと薔薇』というプロテストソングを紹介する。

「ディグニティー(薔薇)」の根っこには、生活という泥臭い下部構造があるんですよね。パンを軽視すると薔薇も枯れます。217p

そして、以下のよにも言う

レフトというのは、そもそもお金と労働の問題からはじまってますからね。そこを忘れてはいけないと思うんです。移民も日本人も一緒に労働運動しなきゃダメですよ! 224p

ブレイディさんもこんな風に労働運動の必要に言及してた。日本の労働運動の現状をどう見てるのかな? 彼女の連合評価とかも聞いてみたいもの。ただ、そこで踏みとどまって、労働運動を移民と一緒になんとか再生しようとしている人がいることを知っているのか、いないのか。知らないなら、知って欲しいし、知っているなら、そこを踏まえて語って欲しい。

北田さんは以下のようにいう。

かつて、「階級主義からは見えなくなっていたアイデンティティの問題へ」というのが、「アイデンティティ・ポリティクスからは見えなくなっていた階級の問題へ」という風に逆方向に戻ってきているように思います。(237p)

言うまでもなく、両方必要なのだ。そして、階級とは何かというのが問われなければならない。かつて言われたように、労働者階級とブルジョアジーと言うような単純な階級対立では語れない言絶がある。アンダークラス、ミドルクラス、富裕層、それらをどう語ることができるのか、語られるべきなのかが問われているのではないか。

257pでは「ポピュリズム(大衆主義)」と「ポピュラリズム(人気主義)」の違いが提起される。

ポピュリズムが日本では「大衆迎合主義」と訳されて否定的に言われがちだが、そうではないとブレイディさんは「オックスフォード・ラーナーズ辞書」のサイトを引用している。

庶民の意見や願いを代表することを標榜する政治のタイプ

で、検索してみたらあった。
a type of politics that claims to represent the opinions and wishes of ordinary people

https://www.oxfordlearnersdictionaries.com/definition/english/populism?q=populism

さらに興味深かったのが、

「地方と都会の人口移動がものすごく少なくなっている」(287p)
という松尾さんの指摘。
それに続けて、以下のように書かれている。

そうすると、首都圏は人手不足で、国全体を合わせたら統計上完全雇用でも、地方では職がないのに人がたまっていくっていう状態がたぶん来るんじゃないかなと。

果たして、 「地方と都会の人口移動がものすごく少なくなっている」というのは悪いことなのだろうか。
これ以上、都会に人を集中させてはいけないのではないか。そうではなくて、景気が悪く成長がない状態の中でも、なんとかして地方に仕事を作っていくという、経済としての発想が必要になっているように思えてならない。

あとがきにかえて

ソーシャル・リベラリズムの構築に向けて

ここで北田さんは自らの博士学位論文『責任と正義 リベラリズムの居場所』をで紹介し、こんな風に書く。

・・・ロールズの自由論では足りない、人々のニーズやウォンツを適切にくみ取っていく社会的装置が国家であり、人権はその国家の存立そのものの根拠となっているということだ。・・・イメージ的にはセンのケイパビリティ論、ファンクション論があった。しかしケイパビリティ論のある種のパターナリズムを回避するために、人びとによるニューズ群を正当な理由を持つものとして再定式化したり、個々人の機能の変換様式をつぶさに検討する人文社会学の知を媒介項として差し込んだ。社会科学は、機能的に分化した社会の諸領域を生きる人びとの直感的な違和やニーズを普遍性の天秤にかけるための理由作りの従者である、というのが私の見立てであった。293p

わかんないところは多いが、要するに「社会科学は、これが嫌だとか、これが欲しいとかいう感情に普遍性をもたせるための理由づくりに使うためにある」ってことだろう。

社会科学を従者と呼んでしまっていいのかどうか、わからないけど、従者として使えればいいかも、と思った。

そこに続く北田さんの「あとがきにかえて」で面白かったのが、「世論は、決して右傾化していない。歴史認識も憲法改正も「革新」的なアジェンダではむしろ「革新寄り」である」というところ。『現代思想』の2018年1月号に北田さんの論考が掲載されているらしい。

そのうえで、以下のように書く。

問題は、人びとの社会的ニーズが「経済」へと向かっていることであって、その発想自体を貶めても仕方がない。それは理由の従者としての責務を放棄するものであり、ある特定現象に適当な文脈付けをするだけの批評家の姿勢と変わらない。294p

人びとの社会的ニーズが「経済」へと向かっているのは間違いないと思う。

向かっているというか、いつの時代でも、まずは食べられるかどうか、基本的にそうなのではないか。

そして、この北田さん、この「あとがきにかえて」の最後に

「ソーシャルリベラリズム」 「この面妖な立場」こそが自らの立脚点だと説明する。

リベラルとソーシャルは表裏一体なのだと。

言いたいことはわかるような気がするが、それを一つのものとして実現する困難ははかり知れず、未完のプロジェクトであるという風にもいえるだろう。永遠に未完とは言いたくないが、かなりそんな風な。


最後に、この本を読んで

ブレイディさんには、「ちょっとブルー」とも言えなくなっていそうな息子から

「母ちゃんはもっとアナーキーなほうがかっこいいよ」って言って欲しいと思ったのだった。


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この記事へのコメント

池尾 俊明
2019年12月09日 05:05
松尾先生 山本太郎さんの勉強会に参加させてもらって、経済の見方が、間違っていたことに、気づきました。最近はMMTのことも、消費税値上げは今の日本では間違いです。生活のこと、あるべき世界のあり方、いろいろ議論していきましょう。
こまちゃん
2019年12月11日 08:26
経済について語るべきですが、問題は今となっては経済成長が不可能だという事。お金がいくらあっても、エネルギーが無ければ経済は動かないのです。経済学者はエネルギーは勝手に湧いてくるものと思っているようですが、エネルギーを得るにもエネルギーが必要で1のエネルギーを得るために1のエネルギーを投入しても使えるエネルギーは得られず、採掘するだけ無駄という事。すでに1のエネルギーを得るために10のエネルギーを投入してたりして、そういう石油採掘会社は潰れていきますが、お金があるだけで経済が回ると思っているとすべてを失いますよ。
tu-ta
2020年04月19日 05:40
池尾さま
こまちゃんさま

お二人にコメントをいただいていたことに、4か月もたってから気がつきました。ごめんなさい。

池尾さま
反緊縮の人たちとの経済成長の必要性に関する対話、ちゃんとできればいいなぁと思っています。今後ともよろしくお願いします。とはいうものの、4か月もたったので、もう見てないかなぁ?

こまちゃんさま
エネルギーのこと、大事ですよね。
そして、1のエネルギーを生むのに1以上のエネルギーを使うことのある現状、あるいは化石燃料の使用が減らない現状、なんとかしたいです。
ただ1点、「経済学者」って、いろんな人がいます。脱成長、とかいう人は少数派でメインストリームからはあまり相手にされてないみたいですけど(笑)