「島人ぬ宝」から考えた



この歌を聞きながら思った。

島人に宝があるように、ぼくに「宝」と呼べるものがあるだろうか?

北にはアイヌの地があり、南には奄美、琉球、そして台湾、さらに面々と続く島々があり、いくつもの国境で分断されていて、それぞれに古くから住んでいる人がいて、新しく来た人もいる。

この歌を作った人は「島人ぬ宝」と呼ぶ、なんらかの塊があることを感じていて、その人が感じている以上それは存在するのだと思う。それをベースにしてつながる人々がいる。その「塊」も、もしかしたら一人ひとり少しずつ違うものでもあるかもしれない。

実は私たちが「本州」と呼ぶ、東京も含まれているここも島であることをぼくは意識していない。多そしてくの人が意識していないだろう。

島としてはそれなりに大きく、大勢の人がそれぞれの文化をもって、ここで生活している。ぼくはその島の中で、各地を転々として育ち、19歳からは、ほとんど東京をベースにして暮らしている。(途中、2年くらい、この島から離れて暮らしたこともあったけど)

ぼくは「民族としてのアイデンティティ」という風には考えたくないと思う。直感的に。

確かに、地に足がついていない暮らしをしているのかもしれない。

何をしているのかと考えると、すぐに過去に変わっていく「いま」を生きているだけなのか とも思う。

「いま」を生きるのに、アイデンティティやエスニシティは意識しない。

民族やエスニシティを生きているわけではない。ぼくとして、いまを生きているだけ。
そこにつながるさまざまなものの恩恵を受けたり、それと格闘したりしながら。

ぼくは、琉球の島々よりは少し大きなこの島に住む人間として「島人ぬ宝」を共有することができない。

北にはアイヌの地があり、南には奄美、琉球、そして台湾、さらに面々と続く島々。
海がそれをつなぎ、そして分断している。その分断線は地上にもひかれている。

その分断線は地図の平面にひかれるわけではない。

3次元の空間をイメージしてみよう。

誰かが決めた『国境線』が壁としてそそり立つ。しかし、それは便宜的に誰かが決めただけのものなのに。
そこにはもともと何もない。

とはいえ、分断線は同じ地域の中に、線としてでなく、面として、縦、横、斜めと、さまざまに存在している。
さらにその分断面を壊す力もまた存在している。肯定的にも、否定的にも。

ときにその分断面はひとりの人間のなかにあり、一人の人間を引き裂く。

その分断面は直線的な平面でないことのほうが多いだろう。

そんなことを、この歌が連想させてくれた。

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