‘Nothing About Us Without Us’ を具体化するということ

あるMLで先日のエントリー
Nothing About Us Without Us の訳から考えたこと
https://tu-ta.at.webry.info/202110/article_1.html
を紹介したら、レスポンスとして以下の英文の情報をもらいました。
Why ‘Nothing About Us Without Us’ Matters to Mental Health
Four ways to enact the mantra in mental health.
https://www.psychologytoday.com/nz/blog/talking-about-men/201904/why-nothing-about-us-without-us-matters-mental-health
(なぜ、‘Nothing About Us Without Us’ がメンタルヘルスに重要なのか)

以下、それへのレスポンスに加筆したものです。

~~~~
機械翻訳で読ませてもらいました。

ここで障害サービスの提供についてはピアサポータのことがメインで書かれていたように読めました。

しかし、大切なのは、代理としてのピアの存在以上に、本人の支援方針・手段や治療方針の検討や決定に本人が実質的に加わるということだと思います。

そのために、どんな仕組みや制度が必要なのかということがもっと検討されなければならないと思うのです。

サービス提供や支援や治療の方針を検討し、決め、実施するにあたって、出来得る限り、本人が理解できるような言葉やモノや体験で説明すること。そして、それへの可否は本人が決めることが出来るという説明を行い、そうすること。支援者や治療者が必要だと考えても、本人が納得できなければ行わない仕組みや制度が(緊急に自分の生命の危険や他害が起きない限りで)必要なのではないか、そして、支援者や治療者と当事者の間に既存の権力関係があることを自覚したうえで、話し合いの場で対等になる努力が求められていると思うのでした。実際にパワーを持つ側が話し合いの場でパワーを消すための自覚的な振る舞いが必要になる場合も多いように感じます。

オープンダイアローグにならって言えば、そこで結論を出すこと以上に、対等な話し合いを継続することこそが大切で、結論を出すことなどは、副産物だと考えるくらいの度量が求められているようにも思います

そこでは結論がなかなか出ない話し合いで感じる消耗感を発生させないための工夫も必要になるでしょう。同時に、当事者の声がちゃんと聴かれていて、真剣に検討されていることが当事者に伝われば、その消耗感はかなり防げるのではないか、とも感じています。

そのことがサービスや支援や治療などの提供におけるパターナリズムを避ける方法になりえるし、メンタルヘルスの回復にもつながる可能性を持つのではないでしょうか。

もちろん、支援に関わっていた人間として、それがたいへんで、それなりにめんどうなことも多いということも知っていますが、それを実現するためのラディカルな変化が求められていると思うのです。

過去に直接支援に関わっているときに、出来ていなかったことを自戒を込めて書くのですが、スタッフで支援方針を検討する会議も、本人抜きでは開催しないことを原則とし、スタッフで決めてそれを伝えるのではなく、本人がいる場所で議論して決めるような体制を作る努力が求められていると思います。

これらは、サービス提供や治療に関わる多くの事業所にとって、たいへんな作業かもしれませんが、Nothing About Us Without Us というのは、そういうことの積み重ねなのではないかと思うのでした。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

岩ちゃん
2021年10月06日 16:46
「これらは、サービス提供や治療に関わる多くの事業所にとって、たいへんな作業かもしれませんが」との事。
実は、やってみればそれほど大変な事ではないというのが私の実感です。
言葉を発しない重度知的の当事者であっても、会議の場にいる事で、その人の表情の変化が見れる。その意味はなかなか理解できない。だけども、同じ表情を会議参加者は見ていて、表情に対する互いの解釈の違いを巡っての話はなかなか有意義。
そして、当事者がその場にいる事で、下手な話はできなくなる。
私にとってはメリットばかりだけど、
別の意味で大変なのは、
この「下手な話ができない」故に、当事者を抜きに会議を開く誘惑があるという点。
会議を開く前に個別の支援者間で話を進めていたりもする。

そんな感覚の支援者たちが、当事者とともに会議を開くと、当事者は戸惑い会議が成立しなくなったりする。
すると、いかに当事者とともに会議を成り立たせるかではなく、会議を成り立たせるためにどうするかという話になっていく。
とにもかくにも、慣れの問題と思う私ですが、
「慣れ」という事の難しさ。
それは、学校という場で分断され、どこまで行っても対象者としてしか見れない故と感じます。