『障害者差別を問い直す』メモ

『障害者差別を問い直す』

荒井 裕樹 著 ちくま新書


出版社HPから

「差別はいけない」。でも、なぜ「いけない」のかを言葉にする時、そこには独特の難しさがある。その理由を探るため差別されてきた人々の声を拾い上げる一冊。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480073013/

また、新書マップというWEBサイトのこの本のページにはもっと詳しい目次などの情報もあり、以下のように紹介されている。
https://shinshomap.info/book/9784480073013.html

「差別はいけないこと」だというのは当たり前の感覚である。しかし、なにが差別かを考えだすと、その答えは曖昧なものになりがちだ。多様性が叫ばれる一方で、実際にはマイノリティへの不寛容な価値観が噴出するなか、あらためて障害者差別に向き合う必要がある。過去と現在をつなぎ、何が差別とされてきたのか、そして対していかに異議を唱えたか。その過程は人間の尊厳に迫ることになるだろう。

ぼくが読後直後に読書メーターに書いたメモ

著者の荒井さんと立岩さんといっしょに写っていた過去の写真をフェイスブックが教えてくれて、荒井さんの名前から昨年出たこの本のことを思い出して読んだ。表面的な障害者差別解消をはるかに超える地平が、青い芝の運動を見ていく中で浮かび上がってくる。わかりやすい解は書かれていない。障害者差別とは何か、その根源に迫る話ということもできると思う。

写真は
https://www.facebook.com/masahide.tsuruta/posts/902240129856505

荒井さんは混沌とした時代状況の中で、「障害者差別とは何か」という問題について一から考えなければならないと問題提起し、その議論の方法は様々あるが、として以下のように書く。

「障害者差別が問われた原点の事を調べ直し、現代に通じる問題を見つける」という方法をとりたいと思います」

21p


「青い芝」命名の由来。「『青い芝』とはふまれてもふまれても、芝のように明るくのびてゆこうという意味」とのこと。25p

30p~はコロニー建設に関する記述があるが、結核回復者のコロニーについては触れられていない。当事者運動の出発点を結核回復者のコロニー建設と結びつける発想がもっとあってもいいのではないかとも思う。結核回復者のコロニーを起源とするところでずっと働いているので、強くそう思う。


青い芝の会、大田区で結成されたとのこと。知らなかった。(35p)

1969年の青い芝の会神奈川県連合会という支部が誕生したことが、その後の障害者運動に多大な衝撃を与えた、とのこと。ここの活動が映画『さよならCP』(原一男監督)になる。38-39p

以降、この本でただ「青い芝の会」と書かれているのは神奈川県連合会のこと。

劇団「態変」の金満里さんは、「理屈ではなく、感覚・実感の部分でこの行動綱領が大好きになった」とのこと。(この本では37P、『生きることのはじまり』97pから)


「愛と正義を否定する」この行動綱領について考えた。

青い芝のメンバーには、当時、愛や正義という美辞麗句のもとに行われているさまざまなことが、ことごとくCP者を抑圧した構造の上に成立しているように見えたのだと思う。

そういう意味では、世のなかに流通しているあらゆる表面的な愛や正義を否定し、それらを否定しきった向こう側にある、ほんものの愛や正義を希求して止まなかったのではないか。彼らほど、ほんとうの愛や正義を追い求めた人たちは他にいなかったとさえ、言えるのではないか。


そして

「青い芝の会は、障害者への「優しさ」や「思いやり」といった感情それ自体が「差別」なのだと指摘しました」(59p)

青い芝の特異点として、『母よ!殺すな』から4点があげられている。


① 障害者差別に対して明確に「闘う」姿勢。(障害当事者として)

② それまで「常識」とされていた価値観に対して、障害者の立場から拒絶の意思を示すこと
   「優しさ」「同情」「愛」「正義」の否定。「障害者の親」批判。施設批判。

③ 「障害者であることに割り切る」という姿勢をとり、障害を「克服」したり「治療」したりする考え方を拒絶。「健全者幻想」に陥ってしまうことを戒めた。

④ 現代の資本主義社会や、資本主義的な価値観を批判。
  「働ける/働けない」という価値観での分断、序列化するような合理主義的・経済主義的価値観に猛烈に反対。「働く=善」という価値観を根底から否定。 職場・労働環境の改善を求める方向には進まず、むしろ「労働」という概念自体を覆し再定義する方向へ

 この労働の再定義に関して、以下のように書かれている。

 我々障害者は、一束かつげなくても落ち穂を拾うだけ、あるいは田んぼの水加減をみているだけでもよしとすべきであり、更にいうならば寝たっきりの重症者がオムツを替えてもらう時、腰をうかせようと一生懸命やることがその人にとって即ち重労働としてみられるべきなのです。そのようなことが、社会的に労働としてみとめられなければならないし、そのような社会構造を目指すべきだと思います。(『母よ!殺すな』56-57p、この本では67-68p)

そう、この方向だと思う。「働く」を否定するのではなく、「働く」を書き換える方向だ。

この本ではさらに、以下のように続く。

横田弘も『障害者殺しの思想』の中で、〈自己の生命を燃焼させる〉こと自体を〈労働〉と捉えています。つまり、重度障害者にとっては、生きていること自体が肯定されるべき労働なのだと唱えているのです。(68p)

こんな風に書かれてしまうと、少し違和感も残る。確かにALSでロックトイン状態の人にはそう言えるかもしれないが、それを重度障害者という風に広げてしまうのはどうか? さまざまな重度の障害を持ちつつ、できることを追及すること、それを「働く」としていくことは、それなりに大切なことではないかと思うから。


70pで、荒井さんはこんな風に書く。

「せっかく可哀想だと思ってやってるのに(以下略)」
「もっと穏やかに伝えなければ、世間の人からわかってもらえませんよ」

 青い芝の会が闘ったのは、障害者に向けられた、こうした価値観そのものだったといえるでしょう。

この価値観と闘ったのは間違いないだろう。そして、わかってもううというか、存在をないことにされないために、過激と思われるような伝え方が必要とされていた。そこは、そのとおりだと思う。

しかし、別の意味で、少し、ひっかかったのは

「もっと穏やかに伝えなければ、世間の人からわかってもらえませんよ」という部分。

こんな言い方はいろんなところで蔓延している。最近はそれが「トーン・ポリシング」と批判されるようにもなってきたが、社会運動のあり方について、こんな風に批判されるのは、いまでも珍しくない。マジョリティの側がマイノリティの運動を批判するために「トーン」の問題にすり替えてしまうことは確かに批判されるべきだろう。

 しかし、他方でマジョリティに問題を伝える必要はあり、トーンの問題で伝わらないということは実際にありそうな話ではある。そこではおそらく、「トーン」だけが問題なのではない。ただ、中身が正しければ伝わるというほど、マジョリティ側は親切ではない。マジョリティの側に、どのように伝わる言葉を持つことができるのか、という問いはもっと深められなければならないようにも思う。

80p~96pとかなりの量を使って青い芝の会のメンバーなどが使う「健全者」という言葉が考察される。それは単に「非障害者」という意味を超えて、差別構造を支えるマジョリティの責任を問う言葉として使われている。非障害者がマジョリティであることを可視化するための言葉であるという。92p

その説明の中で「マイノリティ」「マジョリティ」について、それは数が多いか少ないかという理由だけではないという話を貴族や武士階級を例に説明したうえで荒井さんは以下のように書く。

「マイノリティ」「マジョリティ」とは、その社会や共同体への帰属意識と違和感の濃淡の差を示す言葉だと、私は考えています。

 仮に「マジョリティとは誰か」について、私なりに説明すれば、それは「葛藤を伴うことなく、自分のことを『大きい主語』で語れる人」となるでしょう。つまり、「日本(人)」「社会(人)」等々といった言葉で自分を指し示すことに違和感を覚えず、また他人からの異議申し立てを受けずに済む人のことです。93p

この定義には穴があるように思えてならない。ここでは権力関係≒パワーバランスのことが語られていないからだ。「マイノリティ」「マジョリティ」と指し示すとき、権力関係の話を抜きに語ることはできないのではないか。また、「女性」とか「障害者」とか、マイノリティだと思うのだけど『大きい主語』と呼べるのではないか。ただ、「女性」とか「障害者」とかの主語も文脈によってはマジョリティになりえると言えるかも。

ともあれ、以下のように書かれている部分は、確かにその通りだと思う。

「この社会には障害者差別が存在している」という言い方に対して、真正面から反対する人は、おそらく多くはないと思います。しかし、この「社会」という言葉は「大きな主語」の代表格のようなもので、「マジョリティ」はともすると、自分自身が障害者差別を残存させている社会の一員であることを忘れてしまいます。

 その人自身は個別に責任を問われることのない安全地帯から「社会」という抽象的な存在に責任を押し付けるような発想に対して、横塚晃一は釘を刺そうとしているのです。95p

以下は『第4章 奪われた「自分」を取り戻す』の結語に近い部分。

 青い芝の会の運動とは、「健全者」たちから過激だと忌避されるような言動を通じて自己主張しなければ、自分たちの存在などないものにされてしまう立場に置かれていた障害者たちによる闘いだったと言えるでしょう。

 あるいは、「健全者」から「過激」と受け止められる言動を通じて、自分自身が「主体」や「意思」を備えた存在であることを確かめようとしていたといってもよいかもしれません。121p

青い芝の会の運動は、置かれた状況の中での、止むにやまれぬ叫び、みたいなものだったんじゃないか、とも思う。

144pには『障害者殺しの思想』28-29pが引用されていて、そこのキーワードそして〈*い炎群〉という表現があるんだけど、この「*い」が読めない。この漢字、偏は細かくて、老眼では読み取れない。つくりは力


以下には違和感が残った。
バスの車両改良も必要ですが、そうした技術・設備が、もしも「健全者が障害者に対して手をかさずに済むため」に開発されたとしたら、それは障害者にとって決して喜ばしいものではありません。
手を貸されるのが嫌で、ある部分は機械でやれるのであれば、やって欲しいと思ってる障害者も少なくないと思う。駅がバリアフリーになって、手をかしてもらう機会がなくなって、どうなのか、という声も聞くけど、それも違和感がある。出会いはそんな場面じゃなくても、作れるんじゃないかとも思う。

199-200pでは、二つの文章に

【「親」に代表される健全者のエゴイズムが国家権力の策動を助挙する】という表現が出てくる

この「助挙する」という言葉、WEBの辞書には掲載されておらず、意味がわからない。

これに続いて、以下のように書かれている。

もともと、青い芝の会が社会に衝撃を与えたのは、それまで神聖視されていた「障害者の親」を差別者として告発したことによってでした。200p

荒井さんは「優生思想」という言葉が半世紀の時間を経てもなお、障害者差別を批判する文脈で使われ続けていることに、二つの論点がある、と書く。

1,それが乗り越えることが難しい深刻な問題であるという点

2,半世紀もの間、この社会は「優生思想」に替わる「障害者差別と向き合う言葉」を生み出し得ていないのではないか

逆に言えば、優生思想というような価値観と闘わなければならないような社会が続いている。そんな社会に問題がある。

また一方で、社会全体として、こした価値観と真剣に向き合う意思に欠けるからこそ、「優生思想」以外に「障害者差別と向き合う言葉」が新たに生み出されてこなかった。

ジェンダーやセクシャリティに関しては、新しい概念や言葉がたくさん増えているのに、という例を出した後で、障害に関して、増えた言葉もある。それは「障害は個性」「みんな違ってみんあいい」。これらは「障害者と仲良くするための言葉」で差別と闘う言葉ではない、知的、精神、身体というそれぞれの障害に関する冷遇や抑圧は異なるのに、「障害者差別」という言葉しかない、少なくとも社会的に共有されたものとしてはない、それは差別に対して鈍感だからだ、

相模原事件が起きた後もなお、「優生思想」という言葉を半世紀前とほとんど同じ意味合いで使われ続けていることの意味を立ち止まって考えなければならない、というのが荒井さんの主張。(229-232p)

果たして、ほんとうにそうだろうか。輸入された概念ではあるが、障害の社会モデルとか、合理的配慮とか、差別と向かうための概念は準備されているのではな内科。もちろん、それらがそれだけ浸透しているか、という問題はあるが、言葉としては広く流通しているはず。

青い芝の会を一つの源流として生まれた1970年代に生まれた「全障連」(全国障害者解放運動連絡会議)は「障害からの解放ではなく、差別からの解放を」というスローガンで20世紀の間はそれなりに大きな大きな影響力を有していた。この本で描かれた神奈川を中心とする青い芝の会の運動は「全障連」に収斂されていったようにも感じる(東京青い芝などの独自に運動もあったが)。それは旧来の障害者の発達を求め、障害者を守ることを主眼とした運動とは異なる運動だった。

その「障害からの解放ではなく、差別からの解放を」というのは、この本で紹介された青い芝の会の運動を基礎に置きながらも、それをもう少し一般化し、確かにそのなかで、強烈な主張は薄められた感じだが、それが障害の社会モデルという考え方にもつながっているのだと思う。

障害の社会モデルという概念がでてきたことのインパクトを荒井さんはどのように評価しているのか、ここでの記述では読み取れなかった。

そして、これを書いていて思ったのだが、障害者の発達を求め、障害者を守ることを主眼とした運動が脈々と続いていており。いまもその流れを汲む運動がある。そこでは障害の医療・個人モデルから社会モデルへの転換への反省があるようには感じられない。

そして、現在は、それぞれの運動潮流の主張の変遷によって、その流れの違いが見えにくくなっている。


233pからは「障害者も同じ人間」というフレーズが俎上にあがる。

 津久井やまゆり園での殺傷事件の加害者である死刑囚は、障害者の生きる意味を否定した。あたりまえの話ではあるが、他者に生きる意味など問われたくない、そんな権利は誰にもないと著者は書く。

その通りだと思う。

「障害者も同じ人間」というフレーズが津久井やまゆり園事件(荒井さんは「相模原事件」と書く。以下、すべて。こだわりがあるので、書き換えている)の後に繰り返された。その背景には「人間」の価値を身勝手に決めつけ、乱暴に線引きしようとする被告人の妄想を否定しなければならないという危機感が存在していた。

 それは間違ってもいなければ、無力なきれいごとでもない。

しかしながら、「障害者も同じ人間」というフレーズが障害者を抑圧する力をもってしまうことがあった、としてハンセン病の例が書かれている。

「患者も『同じ人間』なのだから、可哀想な子どもを生むべきではないという思慮深さを持つべ同じ人間なのに、なぜ、生んではいけないのか、生まれた子どもが可哀想な境遇に置かれてしまうのか、それこそが問題なのではないかと思うのだが、ハンセン病患者の収容施設に「生んではいけない」というロジックを受け入れざるを得ない環境があったのだろう。しかし、それは、やはり、同じ人間扱いされているとは思えない。とはいうものの、受け入れてしまう人がいるというのも理解できないわけではない。

この本には明示的には書かれていないが、そもそも「同じ人間なのだから」という発話がどのような権力関係の中で生まれるのか、ということが問われる必要があるのではないか。

初めから「同じ人間」扱いされていたら、このフレーズは出てこない。「同じ人間」扱いされていないからこそ、出てくるフレーズではないか。

このフレーズ自体は「間違ってもいなけにれば、無力なきれいごとでもない」かもしれないが、このようなフレーズが出てきてしまう環境こそが変える対象として、俎上にあげられなければならないのだと思う。

障害当事者が障害名を挙げて「**障害の人も人間です」と叫ぶのは、人間扱いされていない状況があるからだろう。だから「障害者も同じ人間」というフレーズに違和感があるのは、当事者にそう言わせる環境を変える責任はマジョリティあるという叫びなのだろう。

マジョリティの側が「障害者も同じ人間」というフレーズを使ってはいけないのではないか。そんなあたりまえの前提を語るのではなく、当事者がそのように扱われていない現状を変えようとすることが求まられているはず。

このあたりの話を著者は以下のように書いている

 障害者たちが障害者運動の中で叫んできた「障害者も同じ人間」というフレーズは、「障害者も生物学上『人間』に分類される存在である」などといった意味ではありません。運動の蓄積に顧みるならば、この言葉は「障害者も社会のなかで共に生活する者である」といったメッセージとして育て上げられてきたフレーズです。

 ・・・中略・・・。そうした現在、「障害者も同じ人間」というフレーズは、「他の人々に認められている社会参加への機会や権利は、障害者にも等しく認められるべきである」といった意味内容で使われなければいけないはずです。239p

ぼくが感じるのと、上記は少し違うような気がする。ぼくはこのフレーズは使わないほうがいいように思う。

これに続けて、重度障害者の存在を否定した凶行に対し、「障害者も同じ人間」というフレーズをぶつけ続けていると、「人間」という言葉の画素数が荒くなる。そして、障害者運動が積み重ねてきた「障害者も同じ人間」というフレーズの意味が「障害者も同じ人間なのだから、無下に殺してはならない」といった次元へと後退してしまう懸念が生じる。津久井やまゆり園事件とは、これほどまでに「障害者運動が蓄積してきたこと」を根底から破壊する蛮行だったのです、と書かれる。

ここは確かに、画素数が粗くなる感じはある。それはそう言わなければならない状態が最悪の状態だからではないか。そういう意味で、この言葉は封じ込めなければならない言葉だとぼくは思う。

そして、

壊されたものは、また積み上げられなければならない、「障害者も同じ人間」というフレーズに、これから、どんな意味を積み上げていくのか、それは津久井やまゆり園事件という凶行が起きてしまった社会を生きる私たちが引き受け、考えるべき問題です。

というのが、この本の結語として、最後に書かれている。

この荒井さんの結語に違和感がある。津久井やまゆり園事件が、私たちに突きつけている問題があるのは確かだ。その意味を考え続けることは問われている。

それは間違いない。そこで突きつけられた問題に応えるのは、抽象的に何かを考えることだけではないはずだ。重度の障害者が本人の気持ちを聞かれることもなく、施設に集められる状況は、いまもまだそんなに変わっていない。地域で重度の障害者を受け入れる土壌や資源はまだまだ不十分だ。具体的に地域を変えていく営みが必要であるはず。

さらに問われているのは【「障害者も同じ人間」というフレーズに、これから、どんな意味を積み上げていくのか】という話ではなく、そのフレーズを使う必要のない社会をどう作るか、という話ではないか。非障害者がこんな言葉を使う傲慢に気づき、障害者も、非障害者の傲慢さを招きかねない、こんなフレーズを使わないほうがいいのではないか?


結語を読んで、そんな風に感じたのだが、この本のタイトルの『障害者差別を問い直す』ための問題提起としては、とても大切なことが詰まっている本だと思う。そして、結論に違和感はあっても、それらの問題提起から、さまざまなことを考えさせてくれる本だった。

表面的な合理的配慮の意味とか、障害者差別解消法の解釈などに留まるのではなく、『障害者差別を問い直す』営みが問われていて、その営みはとても具体的に地域に関わることを抜きに、終わらせることが出来ないのではないかと思った。





















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