「意思決定支援」じゃなくて「欲望形成支援」??(ほんの紹介44回目、今回はラジオ番組も紹介してます)

たこの木通信10月号の「ほんの紹介44回」の原稿にURLなど少し補足


「意思決定支援」じゃなくて「欲望形成支援」??
(ほんの紹介44回目、今回はラジオ番組も紹介してます)

 今回、紹介したいのは雑誌「精神看護 20191月号 特集 オープンダイアローグと中動態の世界」に掲載された「中動態/意志/責任をめぐって」と「カルチャーラジオ 日曜カルチャー『人間を考える~共に生きる~』1)」 https://www4.nhk.or.jp/P1940/x/2021-09-05/06/75165/3657040/ それぞれの國分功一郎さんの記事と講演。雑誌は電子書籍としてのみ購入可。ラジオの配信は10月末までなので、もう終わってます。ちなみに記事の方も講演録。

それぞれの中で、國分さんは意思概念への疑義を投げつけている。この二つ、違う部分もあるが、重なる部分も多く「意思」と「責任」という二つの概念を扱っている。

「意思」について、國分さんの主張は「そんなものはない」と言っているようにも読める。同時に、「責任」という概念については、いま、使われている「意思」と結びつけて「~のせいにする」という「責任」を否定的に捉え、「自分が直面した事態に応答しなければならないと感じることが(本来の)責任だ」(括弧内引用者)という。そして従来の、意思の概念を使った、「自分の意思で行って、応答すべき責任は君なんだから応答しなさい」と押し付けてくる「責任概念」について、それは「堕落した責任概念」だという。

意識はあるが、意思ってないんじゃないかと國分さんは言うが、それでも意思はあると、ぼくは思う。彼の言う意思と意識の違いがもう一つ理解できていない。

彼が繰り返し書いているように、純粋な意思などどこにもない。どこまでが自分の意思で、どこからが環境の中で思わされていることか、この境目は確かにあいまいだ。しかし、環境の中で「~がしたい」「こうありたい」という気持ちは形成される。これをぼくは意思と読んでもいいんじゃないかと思う。しかし、國分さんはここで、まだ結論的に何か言えるというような話ではないとしながら、欲望と意思をはっきり区別し、あくまで、意思については懐疑的だ。

そして、「意思決定支援」に(おそらく支援された意思決定についても)懐疑的だ。

こんな風に言っている。

 僕はむしろ「欲望形成の支援」という言い方をしたらどうだろうか、欲望形成を支援するような実践を考えたらどうだろうか、と思っています。「意思」というこのとても冷たく響く言葉は切断を名指ししていますから瞬間的です。それに対して「欲望」は過程であり、また、人の心の中で働いている力であるという意味で、どこか ”熱い”過程です。

欲望を意識するのはとても難しいことです。自分のことだからこそわからない。だから周囲に手助けしてもらったり、一緒に考えたり、話し合ったりしながら、自分の欲望に気付いていく必要がある。それを支援するというのならとてもいいと思うんです。(「精神看護」収録の講演録から)

意思決定支援ではなく、欲望に関する何かを支援することが大切なのではないか、という部分はとても面白い。しかしこれは「欲望形成支援」ではなく、「欲望認識支援」とか「欲望気付き支援」といったほうが正確だと思う。形成されなくても、欲望はいろいろ渦巻いている。ただ、書かれているようにそれを自覚して、明示的に取り出すことが難しい。

自分のなかにある欲望に気づく、それが正しいとか悪いとかではなく、自分の中にそれがあることに気づくこと、まず、そのことが大切だと思う。その欲望に沿って実際に行うかどうか、そこにも國分さんが嫌いな「意思」というのが入り込む余地があると言えるのではないか。

ひとりひとりの人が「自分がほんとうにしたいことは何だろう?」と複数の人との対話のなかで気づくようなプロセスが大切だと思っている。


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